真の味わい

子どもやこの仕事をしていると本当によく自覚するのは、自立の重要性である。

如何に他人に対してさも問題意識や危機感や鋭い洞察を幅広い知識で語っても、自分のことをきちんとできていない人が人を救うなどを容易に語る事自体が大変恥ずかしいことだと私は感じることがある。

これは当然のことだけれど自らのことをきちんと修め、自らが自立して生きていてはじめて他の人を共生と自立へ導くものができるもの。これは全てに言えることで、自分ができないことを人に語らない、本当に自分のものになってもいないことを人に教えないという風に、自他ともに誠意を尽くせない人では決して世の中を真の意味で正していくことはできないと思う。

しかし、周囲を見ていたら自分のことはできていなくても他人には色々なことを好き勝手に言う人がとても多い。営業マンでもそうだし、表層上で得た知識を少し大きく鋭く話せばや、この辺の幅で偉大に伝えればという自分の実践から得た真の確信からではなく他人の話をさも自分で掴んだ実践での話のように伝えればその伝えた人はそれを間違って信じてしまう。

もしもその人がその信じたことを深く聴いてきたらその人は何と答えるのだろうか?もしも本当に困って助けてくださいと言われていたとしたらどうするのだろうか?もしも自分を信じたことで最期の希望を持っているとしたらどうするのだろうか?などとは一切考えず、軽い気持ちで自分都合でやっている人もいる。

これは人と人とが本当の意味で絆が繋がっていることを知らないからだとも思う。

これは人間に限らず、植物から動物、自然界全ては大いなる繋がりと絆の中で生き生かされている。それは、お互いが誠意を持って生かし合っているともいえる。それを共生という。

その生命ひとつがもしも不誠実であれば周囲へは不誠実が陶冶する。その生命ひとつがもしも誠実であればその周囲はいつも誠実で陶冶する。つまりは、自立したものたちが渾然一体になって自然環境の中で自然淘汰されるように、この道理に従い互いに変化に順応するために、つねに生命は自らを変革し、自らを陶冶育成するものだとそれが万物一切の保育環境であるとも私は思う。

だからこそ、自分の自立は自分で責任を持つことができてはじめて人々に貢献するということができるのだ。これを勘違いして、いつまでも誰かに依存しつつさも自分が貢献していると他人にアピールしたって逆効果だからやめた方がいい。

中国に「菜根譚」という書がある、これは「人よく菜根を咬みえば、すなわち百事なすべし」という言葉から来ている。よく噛み締め、味わいがわかる人になればいいということだ。その中の一説にこういうものがある。

「欺詐的の人に遇わば、誠心を以て之を感動させ、暴戻的の人に遇わば、和気を以て之を薫蒸せしめ、傾邪私曲的の人に遇わば、名義気節を以て之を激礪す。天下、我が陶冶の中に入らざること無し。(菜根譚前集176)」

私の意訳だけれど「どんな詐欺的な他人にあっても誠意を持って応じ、乱暴者にあえば、温和な気持ちで包み込み、捻くれて素直ではない人にあえば、筋道を正して導いてあげるようにする。すべては、自らの陶冶の中でできることである。」

この陶冶というもの、何万言の言葉で語られるよりも私自身は自立のプロセスの中で、師の薫陶を受け、師との邂逅、師との人生観、師との道を深く噛み締め味わうことで自分の実践を心底楽しむものには何ものも叶わないといつも感じている。

自らを自立し陶冶する中で、心を省み誠心誠意でいるというのは、謙虚であることや尊重するということの生命の真意が貫かれものを確信する生き方を選択するのであろうとも思う。

今は、子ども達のためにも焦りよりも自立のプロセスを楽しみ真の味わいを噛み締めていきたいと思う。自立や共生や貢献には、敬天愛人と同じような趣がある、まだまだじっくりと歩んでいこうと思う。