人間学と自立

人が何かを行う際に、最も大切なのことにその心の姿勢や気持ちというものがある。どんなにいくら悩んで頭で考えて答えを導き出したとしても、それを心からやりたいと思っていなければ健全な結果はやってこない。

それは言い換えれば、心から分の本当にやりたいことではなければ人は本気になることはできないことを言う。「本気」という字は、本当の気持ち、つまりは自分の生き方でありそういうものが本音や本心という部分でもある。

その気持ちや本心を自ら全面に出して考えを伝えることが、周囲と何かに取り組む際に協力を創出するための心の姿勢と態度であると私は思う。例えば、スポーツの世界でもそうだし、仕事の世界でもそうだけれど、まず自分の心がやりたいことに対して納得していなければ何もはじめることはできない。

つい人は、そういうことを心で決めず取り組むとすぐに何とかしなければと思ってしまうのだろうけれどそれでは今を大事にしていくことはできない。今を大事にするとは、最終的には自分はどうしたいのかということを心で決めているからでもある。

人はそれぞれに人生観があるのだから、最終的に自分らしく生きていくために自分がどうしたいかという判断は自分で行う必要がある。それがビジョンでもあるし、夢でもある、それを最初から諦めれば受け身で依存して流されていればそれでも人並の人生であればいいと妥協をすることになる。だからこそ自分がどうするかということを、今に対して常に自分で選択をする過程の中で、人は次第に自立していくものであると思えるからだ。

仕事で言えばチームで何か偉大なことをするためには、自分自身が本心から納得していないのにその場の雰囲気で相手にあわせて相手任せにしていたら何かの決断することや皆で真剣になるときに自分が本当の意味で参加できず信頼関係も価値の創造も生み出すことはできない。

これは礼儀であり、マナーであり、相手と互いに尊重し合うことこそが仕事の本質だからでもある。それがあってのチームなのである。

子ども達もそうだけれど、自分で納得しているのかどうかというのは私はとても大事なことだと思っていて、私自身、自分を尊重することは他人を尊重することだと思っているからだ。素直にそれを話し合って、最終的には自分なりに納得することを決めてもらう。自分でやると決めてはじめての自立だと感じるからだ。

だからこそ、自分がされて嫌なことはしないし、自分だったら嫌だと思えることを勝手に相手はそれでいいと言うことも誠意がない。常に、思いやりから実践する自分の姿勢、生き方を誰に対しても変えないことこそ本物の誠意であると私は思っている。

面倒な生き方であり不器用な生き方であると、そういう人を見ていると感じることもあるけれど、そういう人でなければお金で買えないようなことを優先し大事にすることもできないし、そういう人でなければ目には見えない価値をいつも守ることはできない。

「まずは自分のことができるようになれ」というのは、心の姿勢や態度を変えて自分の本心や本音で生きることで自分がまず自立するのだという思いやりのメッセージでもある。

自分のことをいつまでもできないのは、そういうことをやろうとせず心の姿勢や気持ちがいつも誰かのせいや負けているからでありそういう受け身で依存してしまうからである、むしろそういう人たちが多いのは大変なことだけれどだからこそこういう裕福で物が溢れる時代には厳しい形の愛がいる。

そしてそれは人間学を修養することを言う。

人間学の本質とは、立派な人たちの生き方や歩み方、人生観や信念など、そういうものを深く味わい自分のものにしていくことをいう。どういう生き方をしていきたいか、どういう人生を歩みたいかはまず自分自身で決めることからである。

見守る中で、色々な人たちがいるけれど子どもたちのためにも自分の生き方は姿勢はいつまでも真心を貫き自分らしくいることを伝播していきたい。自分らしくとは感謝の生き方であり、自分らしくとは幸福になることをいう。

こういう時代だからこそ、相手への深い愛情からであるならば不器用でも何よりも生き方そのものを大切にしていきたい。