プライドの定義

自尊心というのは、プライドともいう。プライドにはその他に、誇りを言うときに使うものとある。どちらもプライドというものだけれど、善いことを言うときと悪いことを言うときがある。

よくプライドが高い人というのを見かけるけれど、実力が伴わない人であることが多くそういう人が自分の自尊心が傷つきたくないからと他人にそれをばれないようにといつも傲慢ににしていることがある。

よくそういう人は何かを指摘をすると、すぐに不貞腐れる態度を取る。それにいつまでも自分は頑固に変えたくないため、全部他人のせいにする準備を済ませていて結果に対しても善きも悪くも責任は一切取ろうともしない。取り方すらよく知らない場合もある。

厚顔無恥という言葉通りもうそこまでになってくると表情一つ変えずに他人の迷惑になることを平気でできるようになる。そうなってしまうと、自覚したり気づいたりすることもなく、そういう日頃の素直でない捻くれた態度があるから次第に誰も助言もしてもくれずより悪循環になっていく。そうなると、甘えられる人を必死に探すか孤立して好き勝手にやるかしか選択肢がなくなってくる。どちらにしても迷惑な話である。

素直ではない人に素直になれというのは、至難の業であるし他人の話を聴こうとしない人に人の話はちゃんと聴いてほしいと頼むというのも難しいのだから、黙って相手の大変さに共感し、思いやりをもって素直になってもらうように諭していくしかない。

この逆で、誇りで使われるプライドというものがある。

これは今まで自分が生き方として大事にしてきた、信念、哲学や思想といった生きざまとして一切妥協してこなかった大切にしているものを持っているということでもある。

こういうものはプライドが高いや低いなどということはいわず、絶対的に一番大事にしているものをいつまでも守り続ける勇気と素直な実践がこの今まで歪まずに真っ直ぐに正直に貫いてきたことを意味している。

こういう人は、芯が志が立っていてとても信頼できる。

守るもののない人は、すぐに相手にあわせてコロコロと態度を変えるし、状況次第ではいつも逃げ出すか怒りだすか放り投げてしまうようなことをする。逆に守るものがある人は、決して最期まで逃げないし、いつも向き合っているし、責任を持ってやり遂げる。生き方だからどちらも自覚はないのだろうけれど、周囲の評価は明確なのだから周囲に素直に聴けば自分がどちらなのかはすぐに分かるだろうと思う。

この差はいったい何なのかというと前者は守るものがない人であり後者は守るものがある人のことを言う。もっと異なる言い方をすれば、前者は自分だけを守ろうとしている人であり後者は自分よりも大切なものを守ろうとする人のことを言う。

よく仕事をしていると、自分の身を守るために平気で嘘をついたり平気で他人のせいにしたり平気で無責任になったりとすべて自分を守るために周囲の環境も関係性も利用している人もいる。こういう人は、周囲に甘えても迷惑をかけていても自分自身だけは守れているのだからそれでもいいのだろう。

しかしこれとは逆に誇りを持って働く人は周囲に誠実であり、嘘はつかず、全ては自分の責任だとし受け止め、いつも自分のだけではなく皆の大切なものまですべてを自分が守るために労を疎まづ努力精進する人がいる。こういう人は、周囲を活かしピンチをもチャンスに変えていく力がある。

同じプライドと呼んだとしても、これだけ異なればもうこれは同じ言葉の定義ではないのはすぐに分かる。

変われるや変われないという議論を前に、本気で変わる気があるかどうかはその人の傲慢さを観ればすぐに分かる。それに、素直であるかそうではないか、プライドを聴けばそれもすぐに分かる。

もっとも大切なもののために生きる人は、大義のために自分を使うことができる忠義の人物。それぞれが大事なものを持っているというのは、最高のチームワークを引き出すための一つの基準でもあるように思う。

ミッションに妥協しない人は、いつの日か必ず辿り着く人だと私は信じている。そういう人に寄り添い、見守りつつ、私自身も何よりも大切にしているものを守るためにより優しさと強さを磨き歩んでいこうと思う。

大変な人たちが一杯いる今のような時代、いつまでも鏡に映る自分をも偽り騙すのではなく、「謙虚と素直」という両輪で生きていくことを私から示していこうと思う。