情報リテラシー 取捨選択

かつてないほどの情報量を個々が摂取するのがこの今の時代であると思う。

テレビをはじめ、インターネットから携帯まで様々な媒体を通して私たちは知り過ぎる以上の情報が入ってくる。

知らなくてもいいような遠くの情報までも、誰かが知っているし、知っていないといけない身近な出来事は意外と誰も知らなかったりする。

環境問題でも、世界でどれくらい破壊されているのかは学び知っていても身近なかたつむりや蓑虫などがどうなっているのかは知らない人は多い。

仕事でも、様々な世界のマネージメント手法や様々な方法などは知ってはいて学んでいても、身近な人たちに心を籠めて丁寧に手作業で進めていくことを知らない人もいる。

健康なども最たるもので、身体の隅々まで最先端の知識でどのようなことが効果があるかなど様々なサプリメントや薬などについては詳しくても、実際に自分の身体に何が起きているのかはまったく感知できないでもいる。

人間というものは、知識や目に見えるものばかりに囚われやすいもので本来はもっと自分の身直にあるものを感じていくことで本当の情報を取捨選択していけるものであると思っている。

情報リテラシーについてもそうだけれど、如何に要らない情報を与えないか、如何に大切な情報のみを伝えていけるか、余計な情報がその人たちの心をかき乱さないようにしてあげることも大切なことである。

こういう情報過多に対応するには、如何に要らない情報を受け取らないかということが大切なことになる。意識的にではなく、本当に自分にとって必要な情報を入手したらそれ以外は削られていくような感じである。

それは例えば、学校教育で言えば一斉画一に今でも知識ばかりを詰め込むよう記憶力や暗記力向上に特化したことを情報過多の時代になっても相変わらず懲りずにいつまでも行っている。小学生の子どもたちに話を聴いたら、一つ覚えたら一つ忘れてしまうのでとても困っているとの相談をうけたことがある。

私たちの脳はある一定上の情報を覚えていて、そして忘れるというのは本当に必要なものだけにしておきたいからである。これも人生の生きる知恵である。忘れるということはとても大切な心の作用でそれは新しく前を向くための希望にもなる。

それを病的に刷り込みおかしくするのも、先に誰かが抽象的なものだけを知識として詰め込むことで本人の心の作用にも影響する想像やイメージなどをする余地をなくしているのであろうとも思う。

頭が良い人の定義も、その時代時代の教育方針で変わってしまうもの。情報を増やし続けて詰め込んでいれば、将来本当に必要な情報を掴んでいく力、つまりは本質を見抜くや見通すなどという取捨選択力も育たず情報リテラシ−力もつきはしない。

私たちは身近なところで起きる出来事を丁寧に共感し観察して発達を見守ることでどんな世界であろうが今というものを受け容れて自然に育っていくのを待つ方が正しい情報を取捨選択していけるもの。

そして組織も同じく自然を感じて自然のままに、身近なところから心を籠めて丁寧に共感して同じ方向や理念と一体になって取り組んでいくこと。

昔のようにとはいわないけれど、日々の生活の中で大切なものを守っていくようにゆったりスローに生きていく力と今の流行や変化との共存ができる人物が調和を取り持つのであろうとも思う。

まずは自らが実践で示して、世の中へその理法と仕法を広げていきたい。