地獄の仏

世の中の進み方に善いことが転じて悪いことになり、悪いことが転じて善いことにとなることは体験することと思います。これは在る一方にとって善いことになっても、それがもう一方にとっては善くないことにもなるという経験のことです。

世の中はそのように、どちらかが極楽であればどちらかが地獄だという例えがあるように自分側のものの観方とその瞬間瞬間の感じ方次第で、善きにも悪きにもなってしまうのです。

これはなぜこうなるのかといえば、自分の思い通りにやろうと自我が強いとその傾向が強くなっていきます。この時、人は相手を思いやるよりも、自分の心配ばかりをしてしまっているともいえるのです。

人は先に自分のことを心配すると周囲を信頼するよりも、自分の力のみを頼ろうとするものです。それは周囲によって自分が助けられていると感じることができないから、そうなっていくという悪循環に陥っているともいえます。

しかしこれをもし信頼する周囲や、自分がいつでも帰着できる心の安心基地があるのならその人は、自分を心配するのは誰か大切な人が見守ってくれているから大丈夫、だからこそ自分を気にせず心配せずに思いっきりやろうと取り組むことができるのです。

この安心というものは、その本人が見守られていると実感することしかありません。私の場合は、大切な人生の場面ではいつも一期一会の出逢いに見守られそれに気づき感じて感謝することでその実感を抱き続けていくことができています。

例えば、この世界も同じくもしもお天道様がいつも自分を見守ってくださっていると感じて生きている人はこの世の中を疑うことはしません。世間は正しい、周囲は正しい、間違いは自分の方であるのだと自然に矢印を自分へと向けて省みることができます。自分が正しいことをしていたかどうか、本当に正しいことをさせてくださいと念じている人はいつもお天道様が傍にいるのを実感することができているのです。

しかしもしもそういう見守ってくださっているとも感じることができない人は、どうしても世の中を疑い自分は間違っていない、周囲が分からずやなのだ、世間はおかしい自分の正しさを証明しようとばかりに相手に矢印ばかりを向けて省みることがないのです。そうなると、太陽が消えたように雲がかかり不安になるのだからその人はお天道様がいなくなったと悲嘆にくれるのです。

このように人は物の観方、その感じ方、信じるか信じないかで、自分自身で極楽に住むのか、地獄に住むのかを選択しているとも言えるのです。

私にとっての見守りとは、仏教でいう地獄の中にも阿弥陀如来や大日如来、観音菩薩、すべての仏に共通する存在がそこにいるかどうかということに似ているように思うのです。地獄の中にも、必ず見守ってくれているものがあることに気づける人はそれだけで幸せなのです。

どのような六道輪廻の日々を送っていても、そこに見守られている存在があるということ。心の満ちたりというものはそういうことに気づくかどうかにかかっているように思います。

私にもそういうものがありますが、それを多くの人達に感じてもらうことで世の中を少しでも明るく幸せで満ち足りた心の世界を広げていきたいとも思います。

色々な日々のことから、常に「これでいいのだ」を感じつつ、実践を味わいたいと思います。