自学自習の心得

機会とは何かということを深めてみます。

そもそも機会というものは、出会いと同じく、人生を変えていくものです。そして機会とは、何のためにそれを遣るのかという初心を思い出すものであろうと思います。

人は何かの機会に出会うことで、「何のために」という原点に出会います。

つい目先のことや諸事に流され目的を見失いますが、一つ一つの事件や出来事、問題や課題といったことに正対し素直に出会うとき、まさに機会(チャンス)が訪れたとも言えるのです。

その人に初心や目的がもしもなければ機会も機会にはならず、当然出会いがあっても出会いに気づくこともありません。何となく頭でっかちにこういうことだろうと思い込んでみても、それでは本来の出会いに気づいたわけではないからです。

人生というものは、様々なメッセージを日々に戴いているように思います。それに気づくか気づかないかはその人の感性にもよるものです。もっと受け取ろう、もっと学びとろうと思う人間的向上心があってはじめて人は自学自習、つまりは自分で自分を教えて自分で自分を学んでいくことができるのです。自らを創りあげ練り上げていくのは他でもない自分自身の責任だからです。

そしてそのための機会を活かすためには、誰かに教えてもらえるなどと敷かれたレールの上で満足していてはならないと私は思います。そうなると機会が何かということにも気づきにくくなってしまうからです。

本来は人生というものは、自分で切り開いていくものだからこそ一切の妥協を許さずに真摯に努力し全てのご縁と全ての出会い、全ての機会を大切に学びとろうとするのが感謝の姿勢であろうとも思うのです。

また貢献というものは、こんな自分でも周りは見捨てもせずに育ててくださっている、未熟な自分でも周りは大切にしてくださるという恩返しの上に立っているもののようにも思います。

さらなる日々の精進をしていこう、間違いに気づいて改善し、機会を活かし素直に生きることで運を伸ばしていこうとするのが無二のご縁を大切にしたことにつながっていくように思います。

この無二のご縁こそが機会の本質であろうと思います。

ご縁を尊び、ご縁を楽しむにも、ご縁を活かすという機会に対する捉え方から意識改革をしていくのが善いのかもしれません。無数のメッセージが星の光のように舞い降りる日々に感動と感激を覚えます。どんな出来事にもそこには確かな意味があるという安心感に包まれるのです。

子どもたちのためにも日々を大切に、どんな小さな機会も見逃さずに学び取っていきたいと思います。

生存本能の本質

気候変動を感じていると、本来のあり方というものを見つめる機会が増えてきます。

人間は、自然を征服できると思うように傲慢になってきたのは科学技術の進展と関係が深いように思います。科学で証明できることが、さも真実なのだと思い込まされる教育を受けるからかもしれません。

誰かが自然から抜粋して具体的に発明した一部の技術を応用してつくった機械や、その知識が至上の価値であると思い込まされるからかもしれません。

科学で証明できないものは全部宗教や呪術の類だと、分別されるところから人間以上の存在を敬わず畏れないようになってきたのかもしれません。西洋ではエコロジーとか言いますが、何をもってエコロジーだというのか甚だ狂った考え方のように思います。自然という絶妙微細なものを人間がコントロールすることなど不可能なことです。

しかし今の人類は勘違いをさせられそもそも自然というものや宇宙というものは、解明されているかのように語られますがその実は少しも解明できてはいません。否、科学では解明できず証明できない何かがあることをいつも究極には辿りつきます。その時だけ科学では証明できないものがあるとはじめて受け容れているのです。こんなことでどうするのだろうかと疑問に思います。

本来、自然など征服できるはずもなく、また科学も万能ではありません。その思想そのものが歪んでいるのに気付かないというのはなぜだろうと感じるのです。本来は、敵わないものであることを当然とし、その自然に敬意を払い、自らを従え天地に融和しつつ、慎ましく生きてきたからここまで生き残ってこれたのが我々人類のように思います。

今では、科学で証明されないものは否定するかのように伝統文化や職人たちの技術、伝承されたものが消失してきています。ここに大変な危機感を覚えますし、未来の子どもたちのことを思えば義憤が激しく沸き立ちます。

今まで数千年も廃れてこなかった生きる智慧を全部捨てていくのです。これがどれだけ危険なことであろうかと実感するのです。実は、滅ぶというのは今まで大切にしてきたことを手放すということなのかもしれません。伝承されてきたものを入れかえるということは、かつてそこまで経験してきたものを捨てるということになるのかもしれません。

だからこそ、先人たちは家訓を遺し、先祖代々で得た経験を様々なカタチにして私たちに譲ってきてくださったのでしょう。その譲られたものを有難いと学んだのがかつての私たちの謙虚な直毘霊だったのでしょう。

もう一度、様々なことを省みる必要性を実感します。そこにはまず科学で証明できないものでも信じられるくらいは刷り込みを取り除かなければならぬように思えてなりません。自然の直観や野生の勘、血の絆など、古来からの叡智を現代へ持ち込むことかもしれません。

それが生存本能の本質というものです。

時代は過渡期に入っているからこそ誘惑や落とし穴に嵌らないように細心の注意を払い、神代から連綿と結ばれてきた初心を省み、正しく伝承していく自分へと心を高め、魂を優先する実践を積み重ねていこうと思います。

真の悦び~新しい可能性~

負けた悔しさというものを持つということはとても大切なことです。

人生の中で自分の心を入れかえようとするとき、そのキッカケの一つになるからです。自分というものの可能性をどのように見出していくのか、自分というものをどのように発掘するのか、そこには納得できるまで遣り遂げようとする決心があるのです。

人間はどうしても怠惰な性格から、自分にとって楽な方を選択してしまうものです。一見、苦しそうに周りから見えることでもそれは苦しいことではなかったりするものです。本当に苦しいのは常に自分が変わる方を選択するまでの過程です。

もがき苦しむというのは、変わりたいと願う自分の可能性と対峙するからです。このままでいいとか、変わらなくてもいいとか、人は今の自分に満足しているものです。そこから外れてしまったら、自分には何が残るのだろうかと不安にもなるからです。

しかし、そのようなすがるような過去の自信に囚われるよりも未来へ向かっての自信を育てていこう、身に着けていこうとする方が前のめりに歩んでいけるようにも思います。

人間には常に励ましというものが必要だと言ったのは、ゲーテです。

そのゲーテにこのような言葉が残っています。

「われわれの本性は、怠惰へ傾いている。だが、われわれは活動へと心を励ます限り、その活動の真の悦びを感ずる。」

つまりは、努力次第で人はいくらでも変化する可能性があるということです。

自分が思っている以上の新しい自分に出会えるということです。人がそうなりたいと強く願うこと、そうなると信頼した人が信じることでその人はその人そのものに変化して已みません。

人間の可能性を引き出すのが指導であり、指導者はその人間の可能性を信じるからこそその人を自己実現、社会の共生、貢献と幸福へと導けるのでしょう。

変われないでもがくのもまた変わりたいと願う心の内からの叫びでしょう。そんな時は、心を信じて、心に従って、心から学び直すことのように思います。変わるべきというよりは、変わってみたいと、今度こそ信じてみたいと挑戦を続けていくことのように思います。

私はそのように生きる人たちの励ましになりたいと思います。

これからの世紀は、もっとも人間が自分で自分に打ち克つための真の学びの期間になるように思います。世界は今、時代は今、過渡期を迎えているからです。今、此処に心を籠めてミマモリングの哲学を定め、人類の可能性に挑戦していきたいと思います。

人生哲学と道場

コーチングの大前提に、人生についての哲学というものがあるように思います。短期的に物事を観るのと、長期的に物事を観るのではその指導方法も変わってきます。

スポーツで言えば、試合に勝てさえすればいいのか、それとも人生に克つのかでは意味がまったく異なるからです。もちろん、どちらかが良い悪いという意味ではなく目的が何かということなのです。

人が人を指導するのに、目的がどうなっているかというのは何よりも大切なことのように思います。その人をどうしたいのかということは、その人がどうなりたいのかということがあります。そこには本人の意思と、指導者の意思が交わっているのです。

その人の自己実現をより素晴らしい方向で叶えてあげたいと願うからこそ、何を直さなければならないかということを理解できるものです。

何だか今の時代は、資格を持っているとか、経験があるとか、何か方法論を知っていればコーチのようだと勘違いがあるようにも思います。

常に物事には目的があるのですから、そこから物事を見据えて指導計画を立てる必要があるように思います。教育のためにやる人と、その子の人生と社會のためにとやる人とではそこにも天地の開きがあるからです。

もしも人生道場というもので物事を捉えてみたら、その節目節目にその人が学ぶその体験をどのように厚くするか、深めるか、糧になるようにしているか、得難い財産を持てるようにしてあげるのかは、その指導者の哲学如何によるものです。

その哲学がなければ、指導も根無し草のようになってしまうように思います。その人が長い人生の中で一度きりのこの今に共に歩み、共に学ぶご縁をいただくのだからこそ、ご縁を活かしてより善い自分らしい人生を歩んで見せて、同時にその人らしく人生を歩んでほしいと願うのが共に生きるということを学んでいくことなのでしょう。

育つというのは教えるとか教えられるとかいう前に、御互いに乗り越えていこう、御互いに学び合っていこう、御互いに人格を磨いていこう、御互いに自分に打ち克って自由になろうと、励まし合いながら日々、未来のための投資を積み上げていくことでコーチングまた育つ方法として役に立つのでしょう。

何をするにもそこにどのような人生哲学を持っているか、その哲学を具体的な実践でものにしているか、そこがあってはじめて誰かを導くということができるようになると思います。

どうせ人生道場の中では、常に自分との怠惰、惰性、怠慢とは常に向き合い続けなければならないものです。人生を善くしていこうとするならば、決して避けることはできないのが努力精進と勤労真摯に生き切ることです。

やらねばならぬものはどうせやらねばならぬとしたら、誰かに嫌われようがどうしようが気にせずに構わずに、強くしてあげたい、実現したいと願うものです。

日々を一期一会に遣り切って歩んでいこうと思います。

 

問題の元

昨日は、大阪のある園へ訪問し保育の書類についての話し合いを行いました。書類が煩雑になっていき、書くことの意味や目的というものが分からなくなってくるものです。どんな方法で書けばいいかを議論する場は沢山ありますが、なぜ書くのかということから考えなければならないように私は思います。

本来、問題というものは問題の元があります。それは、基本というものかもしれませんがどのような目的があるからどのような問題が発生しているのかをよく洞察しなければなりません。

問題の元とは、その問題が発生する原因のことです。方法論を議論しているときは、すでに脳が楽をしたいから逃げている状態とも言えます。人間というものは、楽をしたいから方法論にいくのであってそもそも楽をせずに意識を改革しようと思うのなら方法ではなく根本論になるのです。

人は何かを継続するときの意識の持続というものがあります。それをやっているうちに最初の意識から外れて基本の技術もつい忘れて入れなくなってしまうものです。

意識を一点に集中しなければ、最期まで遣り切り遣り遂げるということは難しいのです。一つには、意識しなくても基本の技術は欠かさないでいられる状態までになっているかどうか、もう一つは意識そのものの質がどうなっているかがあるように思います。

技術の方は、先ほども書いたように基本を忘れない程に習熟している、自然にできるまでに技術が上がっているということです。そこに意識の質を変えていくということがあります。この時の意識とは何かといえば、怠惰かどうかということです。意識が怠惰であれば、楽を選んでサボるばかりでどんなことをやろうとしても言い訳を先立てて方法論にばかり逃げるのです。

二宮尊徳に、「勤労」、分度、推譲、至誠があります。この勤労とは、勤労意識のことであろうと私は思うのです。

そしてその意識を付けるためには、書くということ、書くことで意識付けするという意識の勤労もいるのです。保育でいえば、如何に発達段階を意識付けするか、発達に照らして子どもから保育を学んでいくのか、それが基本となるのです。

スポーツの基本に、走り込みがあるように、それが当たり前のところになっていなければどんなスポーツもできないように応用から入ってはいけないのです。

常に基本を鍛錬しつつ、応用を行うということが真の技術になるからです。真の技術のためには、その技術を磨くための意識付けがいるように思います。それが実践とセットになって繰り返し磨かれていく中で、応用の技術もまた展開されているのです。

話を戻せば、根本に合わせて基礎を訓練することが何よりも先に意識付けられることで応用の時の基盤になるということです。

意識付けのための実践の一つとして、この書くということはとても効果があることのように思います。自分の意識改革ができれば、現実が変わってくるのだからまずは意識を変えるという根本を外さないことが基本の技術であろうと思います。

理念があるからこそ、何をやることがもっとも楽ではないかを確認していくことで減らせるものと減らせないものが自明してくるように思います。理念を優先するということは、楽な方を選ばないで挑戦を已めないということなのでしょう。

安易な方法論の議論にならないように、姿勢の方を常に省みていきたいと思います。

 

当たり前 元土

以前、ブログで大人びてくるというのは世渡りがうまくなるということを書いたように思います。

例えば、考えるということ一つでも、当たり前のことが観えなくなるのも世の中に合わせていく方が楽だからと選択したことでそうなっていくのです。そしてこの当たり前ということが分からなくなるから、問題が観えなくなっていくとも言えます。それは「常識的には」という名のものであったり、「一般的には」という名ものであったりしますが、そう割り切ってそこは語り合おうとはせずに話はその当たり前を飛ばした応用の方法論を学んだ知識人たちのノウハウばかりに依存してしまうのも自分自身がこの「当たり前」が分からなくなるからです。

真理やシンプルなものを、自分のものにするにはこの元の当たり前のところからやり直さなければ応用などはできはしないはずなのです。当たり前のことができてから応用というのは、万物の基本の技術だからです。

まずこの「当たり前」に気づくというものは、素朴な疑問を持つことだとも言えます。子どもはみんな不思議がりますが、あれはまだ世の中に合わせず自分の問いを持っているからです。それが大人になればメンドクサイから考えるのを避けようとして大人になるのです。

これを逆さにするには一般的には、そんなことを考えても意味がないと人々が仕分けるような問題をいちいち自分が考え続けているということに似ています。世の中がこうなっているのだから、別にそれでいいではないかと言いだすときはすでに当たり前のことを見失っているともいえるからです。これはとても苦しいことかもしれませんが、それだけ考えることを避けるように生きているから本質と急に言われても分からないのです。

また言い換えれば世の中の常識に迎合するというのは、自分で意味を考えなくなるということです。

こうなっているのだからと諦めてしまえば、当たり前であるはずの「これは変だ」という発想を持つことができなくなります。言い換えれば、これは問題だということに気づかなくなるのです。つまりは問題が分からない人になっているのです。与えられた問題を解く人と、自ら問題を解く人とでは天地の開きがあるように私には思います。

世の中をそうやって洞察すると人間はとてもおかしなことばかりをしているものです。

少しまわりを見渡していても、世の中に合わせるための方法論ばかりに満ち溢れているともいえます。例えば、食糧に化学薬品を入れることも、時間を道具にあわせて人間があくせくしていることも、パソコンを打ちながら仕事をしたと思っていることも、言いだしたらキリがないですが、この自分がおかしなことをしているということが気づけるかというものも問題を発掘する力の一つであろうと思います。

例えば、物事を考える時に土や水、光や音というものから考え始める人たちは当たり前のことが分かっているということです。この当たり前というのは、本質が観えるということです。

常に物事には本質があり、それを維持しようとすれば特異なところにばかり目を向ける前に何が元かと考え抜いたものを実践していくことのように思います。

それは当たり前すぎて世の中で上手に生きている人たちには見えないことなのかもしれませんが敢えてそこに取り組むことが根本治療につながることだと思います。医の本質とは、土から見直すということであろうと私は思います。

元というもの、それは土がもっとも当たり前の傍にいるのだから、この元土というものをもう一度、自分なりに深めていこうと思います。

 

問題直視力

今のような情報化社会の中で、最も重要な生きる力に問題を解く力があるように思います。これは学校でやっているような、問題を解く力のことを言うのではありません。言い換えれば、問題が何かを発掘して意味づけしていく力のことです。

本当の問題とは何かと考えてみると、それは答案の中にあるものではありません。それに問題があったから問題を単に解けばいいというものでもないのです。それは問題というものの奥にこそ真の問題があり、その真の問題を解き明かすなかでそこから見出したもの、そのメッセージともいえるものを自分なりの意味と答えをつけていくことが大事なことのように思います。

例えば、歴史というものを考えてみます。歴史といっても、自分の人生の歴史をはじめその人がどのような過去から今までを過ごしてきたかは年号で表現できるものです。しかしそれがどんな意味があり、何のメッセージをいただいたかというのはその人が答えを出していくものです。

また他にもご縁というものがあります。これも、なぜこの人と出会ったのか、このご縁は一体何とつながっているのか、何を意味するのか、それはその人がずっと点を線にし、面にしていく中でつながりの中にあるものを深く見つめて答えを出していくものです。

このように出来事が起きることに意味があるのではなく、その出来事に意味があるとどのように感じるか。そこには理念があれば、出来事は理念に添って起きるのだから流されずにこれは一体何なのかと常に答えを導きだすのは自分の主体性であるのです。

流されるというのは、一体何なのかを感じなくなり点は点にしか見えず、線にもできず、日々に一喜一憂しているようなものです。それでは、せっかくの貴重な体験をもったいないことにしているようにも思います。

日々というのは、一期一会であるのはそこに確かな意味が存在しているからです。その確かな意味を紡ぎながら一反のかけがえのない貴重な織物を仕上げていくのが人生だとしたとしたらそこで何よりも重要なのは問題を直視しそれを解く力なのです。

問題を発掘する力、問題を発見する力、問題というものを解明していく力、つまりはこの力は真の問題を直視しそこに毎回テーマを抱き、今、ここを意味付けすることを忘れるなということでしょう。初心を大切にしていくには日々の意味づけを丁寧に実践していくことが何よりのように思います。

自分にしかない問題を、理念を主軸に仲間と一緒に解き明かしていく有難い日々にはその問題を直視する歓びにも恵まれた日々のことです。

そこに人生の面白さ、醍醐味もまたあるように思います。ひとつひとつのことを感情に流されず、これは一体何なのかと自問自答を楽しんでいきたいと思います。

寄り添う

相手に寄り添うには、相手を理解しないとできません。

相手のことをまず理解して、どうしたいのか、何をしたいのかを自分が把握してそこに一緒に向き合っていく中ではじめて寄り添うことができるように思います。

そして理念に寄り添うや、目的に寄り添う、その人の自己実現に寄り添うこともそうですがまずはその本質から考えなければなりません。

つまりはその意味は何か、その価値は何か、共に真摯に学びを已めずに共に前進し続けるのです。前進とは単に前に進むだけが前進ではなく、信じていくということです。

今はまだ分からなくても必ず分かるようになると信じる事や、どうすればいいのかを共に学び共に実感していくのにも似ているように思います。

言い換えれば、必ず善くなると信じ続けるということです。

相手を見るというのは、相手の何を見るかということです。相手の信じたものを時折相手が見失いそうになったりするものです。そういう時にも、観ていてあげることや見守ってあげることで相手は大切なものに近づいていくことができるように思います。

理念の大切さというものは、まるで海上にある灯台のようなものです。そこを常に観続けるからこそ少し気候が荒れても霧で見失っても、そこに辿りつけると信じて寄り添う存在を実感し、本能を発揮して到達していくことができるように私は思います。

人は寄り添っている偉大な存在を実感するとき、確固とした自信を持てるように思います。また寄り添っているものを実感しないときは、不安になり焦り、学べなくなるようにも思います。

学び続けることが人生なのだから、学び続けるための環境に寄り添いというものはとても尊い実践であろうと私には思うのです。自分に寄り添っているものは何かを自分の中に抱けることが自立の鍵になるのでしょう。

大自然、大宇宙、人間愛から万物のいのちに至るまで、すべてのつながりの中で寄り添ってくださっているはずです。もう一度、人が自らの生き方を学び始めるキッカケづくりについて考え直していこうと思います。

心を入れかえる

昨日、ある面談の中で懐かしい体験をしました。

人は、何がキッカケになるか分かりませんが自分の心に向き合って心を入れ帰るという体験をして変わるものです。人生の醍醐味というものは、新訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」ではないですがその人が望んだ高さや求めた強さに応じてその人に価値のある機会やご縁が結ばれるように思います。

機会やご縁を活かすのはその人次第ということですが、どんな出会いがその人を変えていくのかを思えば人は自分の狭い視野で計るのではなく、その人自身が素晴らしいご縁に恵まれていることに感謝して成長を祈る方が真実のようにも思います。

自分だけの影響力などちっぽけなものですが、何が繋がって何と結ばれているのかは天のみぞ知るのだから見守ることの大切さを改めて実感することができました。

人が変わるというのはどういう時に変わるのかをもう一度考えてみると、それは心を見つめることのように思います。

自分の心がどうなっているのか、自分の姿勢がどうであったのか、それに向き合った時、自分の心を深く正面から受け容れようとするものです。そしてその心がこれは違うと思ったならば、思い切って心を入れかえることで人は真に変化していくように思います。

自分の心を見つめるということは自分の心と対話していかなければなりません。自分はどんな生き方をしたいのか、自分が何を信じて生きていきたいのか、自分がいのちを懸けたいのは何かと、自分の心に素直になって自分の今の心がそれに対してどうなのかを正対していくように思います。

そうやって心を見つめて、心を入れかえることができるなら人は自然に変わるように思います。今までのことを反省して、日々に定めた心の場所で内省する。

こういうことを積み上げていく中で人は変わるように思います。

自分の心を見つめることというのは、向き合いたくないものもあるでしょうから実際は大変なことであろうと思います。しかしその先に、新しい自分が待っていると思うならその先の未来を信じて取り組んでいくことに価値があるように思います。

思い込んでいた自分から、新しい自分へというのが変化というものです。

自分の観えている世界も変わるし、周りからの世界も変わる、新しい世界が待っているのです。人は変わりつづけることで自他の世界を変えていくことができるのですから、不思議さというものもまたその中にあるのです。

心を入れかえる人は、頼もしくそして美しく感じます。
子どもたちにもそういう体験をたくさん用意できるような大人のモデルになりたいと思います。

本質で考える

一般的に人は判断するときには、右か左かという思考に囚われることが多いものです。

例えば、良いか悪か、正しいか間違いか、できるかできないかという二者択一で判断していることがほとんどのように思います。しかし本質を捉えようとすれば、そのどちらかではなく真ん中や間、中庸のように右でも左でもない芯を捉えていかなければならずなかなか判断力が磨かれるのには時間がかかるものです。

それは人間が、自分の都合のよい方ばかりに囚われてしまうことだからだと私は思います。

自分にとってどうかというのは、一番考えやすいものです。もしくは相手にとってどうかと思う時でさえ、その時の判断は自分の都合側の相手のことを考えてしまうからです。

ここを本質で考えるということはどういうことかを少しだけ深めてみます。

本質で考えるというのは、その右も左もないものです。だからこそ、何が本当かということがまず理解できなければなりません。そのためには、本当は何かということを突き詰めて考えてそこがまず観えてこないと分かりません。

そのためには、思考の訓練というものが必用であろうと思います。まず本質とはどうなっているのかを考えるという練習のことです。

例えばその具体的な練習方法は、毎回どのような小さな判断であっても目的や理念から考えるという習慣を持てるようになるということです。

仕事で言えば何かの資料作りから営業企画、また多様な業務に至るまで面倒でも毎回理念や目的に照らしてこれは何か、なぜやるのか、何のために行うのかを常に意識して取り組むことで本質を捉える力というものは育ってきます。

本来、本質というものは心が観ているもの、捉えているものを欠かさずに現実の世界で調和させつつ取り組んでいくことに似ています。

実践が多いところの方が本質的であるのは、その中心を捉えているからに他なりません。何のためにここまでするのか、その何のためにがしっかりしているからこそ本質的に働いているということになるからです。

思考の訓練というものも一朝一夕に出来上がってくるもものではなく、自分の狭い視野を乗り越えて、目的や理念からの視野で取り組むということが身に着いてきてはじめて為せるように思います。

せっかく取り組むのであれば、砂上の楼閣を創るのではなく、盤石な土台に立つ理想の宝閣創りに近づいていくような努力をしていきたいと願うものです。

本質を理解すれば、二者択一ではなく「近づいている」や、「ものになってきている」、「実践している」「シンプルになっている」というような言葉に変わってくるように思います。

理念や目的を定めることで、協奏し和する文化を拡げていきたいと思います。