時間

先日、地層や地質のことを調べていたら1億年前や5000万年前などといった悠久の歴史を刻む姿に色々と思うことがありました。時間というものの長さ、時間の持つ意味、今回は時間というものの認識について深めてみたいと思います。

そもそも時間とは一人一人、その生きているものによって認識が変わります。例えば大都会で生活する忙しくしているビジネスマンの持つ時間、どこか田舎や島で暮らしている人たちが持つ時間、他にはまだ幼い子どもや老人、他にもその時の心情によって時間は変わります。

つまりは時間というのは、時計で過ぎていく平均的な1秒や1分と違い、人それぞれによって流れている速度は変わっているのです。

その時間の密度が濃い人は、同じ体験をし同じ時間を過ごしていても決して同じではないのです。その人の思う時間というものの哲学によってそれは異なるということです。

時間には悠久というものがあります。

これは地層を観ていて思うのですが、何億年という歳月を地球の大変動の中でその歴史を刻んできた証に心を寄せて観ます。すると、そこには魂というような生き物の中に流れているものを感じずにはおれないのです。

寿命は長くても100年、昔はもっと短かったのです。そしてそれは多様化した他の生き物たちも同じです。それをずっと繰り返して今に至るまでの道のりに、時間を思うのです。

何をもって死とし、何をもって生とするか、地球の中に生きているものたちは時間を持ちます。時間の中で、巡り循りて魂が生き続けているのです。魂というと宗教的だとか言われそうですが、その場合は意識といってもいいのです。

意識は時間を語ります。

意識を何億年も前からの時間に合わせてみると悠久が観えますし、意識を地球の数百倍の大きさの星々に合わせてみれば偉大が観えます。そうやって小さな自我の意識ではなく、それを凌駕する意識でもう一度時間を眺めれば私たちの人生はその広大無辺の時間のたった一瞬であることに気づくのです。

その一瞬の光が続いているのが星々だとしたら、途切れるものではないのが時間であることに気づきます。ここから時間を捉えられれば途切れていないものが魂ということになります。

不思議なことですが、生きているや死んでいるという感覚は途切れていない時にこそ本来実感できるものなのかもしれません。

時間は途切れませんから、同じように時間を感じれば時間は意識することができるのでしょう。悠久の歴史、そのものが時間だということです。自分の魂もまたその悠久の歴史に合わせて大切なお役目を果たしていきたいと思います。