マネジメントとは何か

「マネジメント」という言葉があります。これは社會生態学者を自称するピーター・F・ドラッカーが発明した言葉です。昔はこのマネジメントの意味を誤解する人が多かったように思いますが時代が追い付いてきてこの「人々の衆知を活かす智慧」ということの大切さが次第に伝わってきているように思います。

人は如何に持ち味を活かし合って協力し、智慧を働かせていくかということの中に真の組織変革と成熟があるように私は思います。この智慧を働かせるという言葉がナレッジマネージメントともいうと思いますが智慧を働かせ続けるには人々が互いに一つの理念に対して協力していく必要があります。

以前、経営か理念かどちらが大切かとある人に問われたことがありますが本来は理念が経営することであり経営は理念を実践する中ではじめて姿を顕すものだと答えました。これはそもそも経営理念という言い方ではなく、「理念経営」という言い方をし、つまりは「理念を優先することではじめて経営が成り立つ」ということで理念経営という言い方をするのです。そしてこの理念経営を行うことがリーダーシップの本質であり、その理念経営を分析して言葉にしたのがマネジメントであると私は認識しています。

もうドラッカーは亡くなっていて私の解釈と同じかどうかは確かめようもありませんが、ドラッカーの遺した言葉の中にはマネジメントをしていく上で何よりも大切なことを記されています。そしてそれはすべて理念経営を実践する中で自ずから発生してくることばかりですから同じことを目指していたように思います。

『組織に働く者は、組織の使命が社会において重要であり、他のあらゆるものの基盤であるとの信念を持たねばならない。この信念がなければ、いかなる組織といえども、自信と誇りを失い、成果をあげる能力を失う。』

『「過去のリーダーの仕事は「命じること」だが、未来のリーダーの仕事は「聞くこと」が重要になる。』

『何事かを成し遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。できないことによって何かを行うことなど、到底できない。』

『これからは、誰もが自らをマネジメントしなければならない。自らを最も貢献できる場所に置き、成長していかなければならない。』

『他人の短所が目につきすぎる人は、経営者には向いていない。長所を効果的に発揮させるのが自分の仕事だと考える人が、有能な経営者になれる。』

『知識労働の生産性の向上を図る場合にまず問うべきは、「何が目的か。何を実現しようとしているか。なぜそれを行うか」である。手っ取り早く、しかも、おそらく最も効果的に知識労働の生産性を向上させる方法は、仕事を定義しなおすことである。とくに、行う必要のない仕事をやめることである。』

『知識労働者が貢献に焦点をあわせることは必須である。それなくして、彼らが貢献する術はない。知識労働者が生産するのは、物ではなくアイデアや情報やコンセプトである。知識労働者は、ほとんどが専門家である。事実彼らは、通常、ひとつのことだけを非常に良く行えるとき、すなわち専門化したときのみ大きな成果を上げる。それだけでは不毛である。専門家の産出物は、他の専門家の産出物と統合されて初めて成果となる。』

経営をするという言葉は、別に利益を出して会社を上手く成長させていくという意味ではないことがすぐにドラッカーの言葉から伝わります。人間がマネジメントとするというのは、本来の崇高な理念に対して人々のチカラを結集し皆を仕合わせにしていくためにどうあるべきかということに焦点を当てているように思えます。人格を高めることや、人々の持ち味や個性を発揮していくことは強みを伸ばすことであり、何をもって強みというか、それは皆の持っている「持ち味」のことであるのは明白です。

そしてこの持ち味を活かすためには、持ち味を活かそうとする人格者、つまりリーダーの存在が必要でありそのリーダーが目指す理想の社會の実現に向けてどう衆知を集めるか、つまりマネジメントが必要なのです。

マネジメントを実践するのがリーダーですから、如何に善い会社にしていくかはその会社の理念にどれだけ真摯に正対して実践を皆で積み重ねていくかに由るように私は思います。

ドラッカーの遺した言葉にあるものは、ほとんど自社内でやり方を発明しすでに様々なカタチにして日々に実践していることばかりです。改めて思えば、経営は経営学が先ではなくマネジメントすることが何よりも優先なのです。

時代が変わっても人間の本質は変わっていません。どんな時も大道や本筋がありますから、それに沿って時代時代に温故知新し経営のやり方も発明していくことで本来の姿を取り戻していくように思います。世の中の経営者はより優れたマネジメントをする人物をベンチマーキングし素直に吸収していくことが何よりも大切になっていきます。

変化の中で変化を機会と捉える感性は理念経営によって養われます。そして理念経営のプロセスの中で新たなマネジメントに出会うことは、正しい物事や正しい判断に近づていく人格経営、社格経営の成熟の証です。

引き続き、子ども達の未来のためにもマネジメントを深めていきたいと思います。

 

人間本来の能力とは何か~持ち味を活かす~

現在は誰かを比べたり誰かの目を意識したりと常に自分を何かに合わせなければならない窮屈な世の中になっているとも言えます。個性のことを障害といい、天才のことを精神病と呼び、人と異なる資質を持つ人のことを奇人変人だと偏見で差別したりします。

本来、みんなが周りと同じ姿であるほうがおかしな姿であり異なるのは御互いを活かし合うために必要な自然の性質ですから持ち味を御互いに出し合って協力して生きていくのがこの世の中の摂理です。

今は一斉画一にすべて同じものを良しとして、同じものを目指され、如何に平均から外れないかということを押し付けてくるものです。学校などは最たるもので、みんなと同じことができないことを恥ずかしいこととし平均の中でもっとも上位にあるものを優秀であると定義して技能を教え込んでいきます。

能力は別に学識や体力だけが能力ではなく、素直であること謙虚であること、また自分らしくいられることも能力の一つです。この能力のそもそもの定義とは何か、それはその人が「もっとも持ち味を活かしている状態」のことを言うと私は思います。そして私は能力の本質は「自分らしくいられること」がもっとも能力を自他に活かしていることであることだと思うのです。

その人がその人らしくいられるというのは、周りもその人らしくいられることです。これは御互いの持ち味が存分に発揮されている姿であり、それらの能力が相乗効果によっ御御いに役立っているということです。

人間の仕合せというものは、御互いに仕い合うことです。つまりは誰も不必要としない、そのままで役に立っている社會の実現のことだと思います。人道の平和とは、御互いが持ち味を活かし合って仕合わせを築くことだと思います。

今のようにこうでなければならないと押し付ける窮屈な社会での中で、その人らしくいられないことで心を病み苦しんでいる人たちがたくさんいるように思います。自分が此処に居てもいいという心地好い居場所があるかないかでその人の人生の仕合せは決まっていくようにも思います。成功か失敗かではなく、金持ちか貧乏かどうかではなく、仕合せかどうかを皆で見つめる世の中にしていくことが道に入っていくことのように思います。

あるがままの自分でいいと思えるためには、あるがままを受け容れてくれる社會が必要です。そしてその社會は徳によって実現することは自明の理です。人が思いやり助け合い御互いの持ち味を活かし合う世の中は、そのままでいいと受け容れてくれる暖かい場を一人ひとりが築き上げていくことに由ります。

引き続き子ども達のためにも子ども達の個性を伸ばし、その個性を受け容れ、みんな違っているからこそみんながいいのだという見守り合う社會を社業を通じてこの世に広げていきたいと思います。

暮らし方と生き方

日々というのは小さな所作の連続で過ごしているものです。起きてから寝るまで、私たちは「暮らし」の中に存在しています。そしてその暮らしは全て小さな所作から成り立っていることに気づけるものです。

例えば、朝起きてどのように過ごしているか、そして日中はどのように過ごしているか、夜中はどのように過ごしているか、その過ごし方の中にその人の日々の生活があり、その生活を通して人は毎日を生きているとも言えます。ある人は、朝起きてお湯を沸かしご飯を炊き味噌汁をつくる。太陽に向かって御祈りをし、その日一日の予習と準備をし心を整えて清々しい笑顔で挨拶をし丁寧に思いやりで一日を過ごし夜に内省をして就寝する。またある人の一日は、朝寝坊してバタバタとしご飯もコンビニで済ませ準備で散らかったままに仕事に出ていき忙しくし、夜は飲み会に出てお風呂も入らずに就寝する。もちろん同じ日ばかりではありませんが、同じような日を何度も過ごしているうちにその人の「暮らし」が習慣になってしまうものです。その暮らしの習慣が暮らし方であり、暮らし方がその人の生き方です。

暮らし方というのは、日々のその人の生き方のことです。心の余裕を持ち、心を穏かに心静かに生きていこうと決めている人の生き方と、心を失い心を亡くし、心せわしく生きてしまっている生き方があるとして、人生は一日一日の集積のことを言いますからどんな人生を送ってきたかは、その日一日の過ごし方が決めてしまうのです。

その人が人生で大切にしている優先順位は、いともたやすく暮らし方によって崩れるものです。日々の暮らしの中の小さな所作は自分が優先しているものを確認する大事なチェックポイントであり、その小さな所作の中にその人の初心が維持できているかを確認できるのです。そして丁寧に丹精を籠めて生きている人は小さな所作を決して蔑ろにすることはありません。掃除や食事、睡眠や日記、身のまわりのお世話をする意識を片時も外すことがありません。なぜなら「いのち」が生き方だからです。

この「いのち」というものは自分が大事に扱えば大事に扱われるものであり、自分が粗末にすれば粗末に扱われるものです。だからこそいのちを大事にするというのは、小さな所作を大切にしていくということです。

どんないのちとも触れ合っている状態を維持するためには片時も心を手放せません。心を手放さずにすべてのいのちを活かそうとする真心の中にこそ小さな所作が活かされます。

暮らしの中にある一つ一つのことに真心を籠める実践を通して、暮らし方を観直していきたいと思います。

透明な信条

佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。

今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。

本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。

『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』

もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。

これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。

結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。

『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』

言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。

最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。

 

『言葉を超えた行動が心魂に響く』

 

ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。

 

 

透明の磨き方

透明さというものは、穢れを祓い清め洗い清める中で磨かれていきます。その透明さを磨くのに私はよく「遣り切る」という言葉を使います。この「遣り切る」ことは一期一会を大切に出し切ることであり、常に心徳を高め魂やいのちを輝かせるための磨き方のように思います。

人は本気になり真剣になればなるほどに明るくなります。この明るさは単なるマジメのもつ深刻な感じから出てくるものではなく、真剣で本気だからこそ出てくるものです。出し切るというのは何を出し切るのか、遣り切るとうのは何を遣り切るのか、それは「本気を出し切り、真剣を遣り切る」ということに他なりません。

佐藤初女さんは、透明さを磨き切った方でした。その磨き方が本人が語る言葉の中に遺っています。

『私はどんな時も自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたいと思っています。何かに取り組む時、ある限界までは、誰でもできることだと思います。けれども、そこを一歩越えるか越えないかが、大きな違いになると思うのです。そして1つ乗り越えると、また限界が出てきます。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長しますし、その過程は生涯続くものだと思います。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴いますし、私は時々自分でも厳しいなあと感じる時があります。『忙しい』という言葉を、私はなるべく使わないようにしています』

最期まで一期一会に遣り切るというのは、最期まで「我」を優先しなかったということです。真心を盡して盡し切ったかということが、御縁に向き合う至誠であるように思います。自分よりも誰かのためにと見返りを求めずに真心を与え続ける人生というのは、常に犠牲を伴います。しかしそれでも真心や思いやりを盡していくことが透明さを磨くということになっているのです。あと一歩で諦めてしまう人や、あともう少しの努力でやめてしまうのは真心までいかないからです。人事を盡して天命を待つという言葉もありますが、人事を盡していないのに天命は待つことはできません。この真心までいくかどうかに、感謝で生きる道もまたあるように思います。

また初女さんは、こう言います。

「『私、苦しいんです』と訴える人に対して、頭であれこれ考えて解決の方向にもっていっても、それは本当の解決になっていないです。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝える時もあります。『初女さんは苦しいと思われることはないのですか?』という質問を受けることがあります。もちろん、私も活動を続ける中で、どうすることもできない心の葛藤が生まれることがしばしばあります。そんな時、私は苦しみを否定せずに、自分の心をまっすぐ見つめます。そしてどんな時も、苦しみを感じきることを大切にしています。苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様へおまかせ』に入るんです」

私の言葉では「選ばない」ということです。逃げないと選ばないは同じ意味であり、全てを御縁の尊さで感じ切る、いただいている御縁に感謝しているかという祈りの実践でもあります。そして人事を盡し切ったならもうできることはないのだから後は天にお任せしようと祈り待つ境地しかないのです。それが「遣り切る」ことだと私は思います。

人間は誰しも出会いによって人生は変化していきます。

そして出会いをよくよく感じて内省するとき、その御縁や出会いは向こうから発見してもらって呼んでくださっていると感じるのです。つまりは「選ばない」ことの背景には、それは向こう側から自分を選んでくださった、自分にこれをやるようにと教えてくださった、自分にもっとも相応しいものをいただいたと自覚しているからこそ「選ばない」のです。

天命というのは探して得るものではなく、受け容れて得るものです。四十になって実感するのは、四十にして惑わずではなく、四十にして天命を選ぶのを已めたということです。天命を選ばないから惑わずになるわけで、人はその天命を選ばずに受け容れることでその後の人生の意味をしっかりと学問していくことができるように思います。

初女さんの生き方が、とても透明に徹しているのはこの人生への正対の覚悟、また一期一会に生きる決心の強さのように私は思います。

かつて東京で初女さんの講演を拝聴する中でもっとも強く印象に遺った言葉に『私はメンドクサイという言葉が大嫌いです、どんなことも決して面倒くさいと言ってはいけません』と静かに厳しく仰っていたことが今でも忘れられません。

真心や思いやり、本気や真剣さはこのメンドクサイの反対側にある言葉です。一つ一つを丁寧に丹精を籠めて生きていくことがその透明さがより磨き研ぎ澄まされることになっていくように思います。

追悼を籠めて書き綴っていますが、初女さんの偉大な後ろ姿に改めて学び直すことばかりです。子ども達のためにも、こういう方が遺してくださった真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。

透明

自然のことを学び直す中で、あらゆるもの透明さを知り純粋であること、真に澄むことの大切さをいつも感じます。身近な光や陰、火や水、風や土、木や石などあらゆるものが融け合い混ざり合い一つになる瞬間はいつも透明ないのちを感じます。

この透明ないのちとは、「解け合う」ことで姿を顕します。そしてその瞬間が観えているかということが真心のままであり、その瞬間を捉える感性が直観のことであろうと思います。私のかんながらの道はいつも此処に存在します。

自然が磨いてくださるいのちの尊さの中に、その透明感はいつも存在します。透明なものを感じる感性は自然の心のままに心に寄り添い、自然体で心をおもてなす日本古来の精神の鑑です。天照大御神より八咫鏡を授かってから私たちは透明な鏡に心を照らして自己鑑賞し常に心の穢れを祓い清め、心を磨き続けることを大切にしてきました。透明さというのはこの鑑の心であり、鑑の心は常に自他一体に切磋琢磨、相手と自分を解け合うことで磨き合うものだと私は思います。

佐藤初女さんは、この「透明」であることを大切にされた生き方を貫かれた方です。私も透明であること、いのちを磨くことは人生の一大事だと考えており、その生き方や生き様には本当に沢山の影響をいただきました。

改めて初女さんの文章を拝読していると、日々の暮らしの中で透明さを磨いていた様子が遺っており私自身も改めて学び直していきたいと思います。その初女さんにこんな言葉が遺っています。

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。ですから私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

これは調理のことを語っているのではないことはすぐに自明します。これは透明になることを語っているのです。

生きている間の課題として、如何に心を透き通らせて脱皮するかと言います。私の言葉では心を如何に研ぎ澄ましていくかということと同じです。心を研ぎ澄ましていくことは、人生において何よりも大切なことです。なぜならそれは人生とは魂を磨くことだからです。この世に私たちが来たのは、魂を磨き心を研ぎ澄ますために体験をしているとも言えます。

生きている修行というのは、結果が云々ではなくこの間にどのように生きたかというそのものが問われるように思います。自然界の生き物たちやいのちのように生きていくことが仕合わせであり、彼らと同じように日々に暮らしの中で自然の砥石で心魂が磨かれていくことがいのちを輝かせていくことだと私は思います。

人間の中においては御互いに思いやり真心を盡していくことで心魂は磨かれ高まりより透明になっていきます。透明な感性をいつも持ち続けることは、自然と解け合い直感のままにいて自然体になることです。

憧れた人に近づけるよう、私も持ち場で日々に精進していきたいと思います。子ども達に譲っていく透明ないのちを受け継いでいきたいと思います。

深さとは何か~直感~

物事には深さがあり、深さを持つ人はその深さを人に伝えていけることができるように思います。同じ話をしても、自ら刻苦勉励し体験を通して苦心しつつも掴んだ人の話は同じ言葉を並べても伝わり方が異なるものです。知識と体験との違いは、知識によっていくら文字を並べてもそれは単なる文字遊びにしかならず体験によって得た智慧や知識により文字が並ぶとそれは実行するためのヒントになります。

昨日、かねてから尊敬していた森のイスキアの佐藤初女さんがお亡くなりになりました。講演で一度だけお話をお聴きしたことがありますが、その時の御話もまた深さがありました。子どもがお菓子ばかりを食べて困っているという質問には、「ご飯を美味しく作ればいいのです。」とただシンプルに回答するのですがその言葉の間には真心を籠めて子どもを育てることや、食に命を懸けて取り組むことの大事さなど言葉の背景に膨大な暗黙智慧が語られている深さがありました。

この方もまた日本古来の大道をこの世に受け継ぎ、次代へ繋ぎ紡いだ有り難い道徳人でした。魂や大義は失われず、人々の心の中に生き続けて実践によって伝承されていくと思います。瑞々しい透明な心を通じて出会った有り難いご縁をいつまでも心に刻み忘れません、ご冥福を心からお祈りしています。

話を戻せばこの深さというのは、その人の体験によって深まっていきます。深さを持てる人とというのは常に理想を求めて一生懸命に苦労を厭わずに努力精進していくことで深まっていくように思います。深さの中には、つまり理想までの距離のようなものがあるのかもしれません。自分の目的や志の高さに対して今の現実があり、その間が深さになっていくように私は思います。

深さを持てる人になるためには、まず理想を定めて自ら覚悟決心する必要がある様に思います。そして自問自答し、本質は何かを求め続ける胆力や道を歩み続けて内省し続ける継続力も必要です。

求めている理想が大きければ大きいほど、世のため人のための祈りが広ければ広いほどその深さはますます奥深く深淵な深さになります。またその深さは五感や全感覚を通して感じるもので、到達している深さは観えないほどですから互いの直感でしか感得しえません。西洋ではそれをシンクロニシティともいいますが、本当の深さを求めている人はいつもご縁によって導かれるように思います。ご縁の世界に生きる人々は深さを持ちます、そしてその深さは直感と導きと道中の閃きによって開拓されていくのでしょう。

日々に何を最も優先するのかを忘れずに、自分の持ち場を掘り下げて道を歩む人たちに恥じない背中をみせられるように文字遊びを戒め深く精進していきたいと思います。

 

場と場所

日本の古来からの文化に「場・間・和」があります。これは心の世界を表現する三文字であり、日本人が常に大切にしてきた真心が此処にあるとも言えます。一つ一つは全て日本の伝統文化を顕しており、歴史を観ても、身近な文化の中にも息づき入り込んでいるものです。

今回はその「場」を深めてみようと思います。

場とはただの場所のことではありまん。場所というのは、その指し示す環境一帯のことでありそこに営みがあるかどうかはあまり関係がありません。しかし「場」となると、そこには確かな営みがありそこに集う人たちの思いや願い、心が存在します。

場が発生してくるというのは、そこには場を創ろうとした人の理念や初心があり、そこに集うものたちはその思いによって引き寄せられて集まる仲間たちです。これは例えば、山林にある雑草が生え人が全く手入れをしていなかった休耕田があるとします。そこに一つの思いをもった人が自然農法を行おうと独りで田に立つのなら次第にその田には野菜や作物、稲をはじめ虫たち、動物たち、周りの人たち、そして思いを共にする仲間たちが次第に集まってそこに「場」が産まれるのです。

この場が産まれれば、そこには空間が産まれます。この空間の「間」とは、時間を超越した間合のことです。間とは心のないところには産まれず、忙しさとは時によって行われるものですから忙しくない時、つまりその時そのものが無くなって「間」は産まれます。これを無の心ともいうのかもしれませんが、間合の中には時を超越した心が存在します。

そしてこの間があるところに「和」が存在します。この和とは、言葉で表現するのなら全てが調和し中庸になっているということです。和になれば心が安住する居場所が産まれ、居心地が善い場が誕生するということでもあります。これは次回、事例で深めて書いてみようと思います。

話を戻せばこの場と場所の違いは、理念を持った人がいるかどうかに由ります。そして理念を共にする仲間たちがいるかどうかに由ります。場と仲間というものは、常に隣り合わせであり、仲間づくりをしようと思えば場づくりをしようとなるのです。

今年は「場」の面白さに気づき、その場を子どもたちの環境の中に広げていきたいと思っています。場から学び直し、和の持つ有り難さを味わっていきたいと思います。子どもに一つでの譲り遺せるものを日本の文化から発掘し開発していきたいと思います。