歳月の真価

聴福庵の近くで解体している古民家の中には、樹齢数百年の松材が使われていました。梁についてはとても立派で大きく、美しい光を放っていました。これもまたあと数日で跡形もなく壊され捨てられていきます。

もしも今、この松材を手に入れようと思ったら工場で人工的につくる鉄やプラスチックと異なり数百年後まで待たなければなりません。当然、私たちは死んでいますから6代先くらいの子孫になってようやく木が切り倒されそれが材料として用いられることになります。

それまでの間、自然環境に恵まれ虫害に負けず立派に育った場合、また形も整い住宅に適したものだけを選別され利用されます。壊すのは簡単ですが、ここまでくるまでにかけてきた年数、またその木材を運び加工してきた大変な手間を考えると今の時代では非生産的非効率的ということになるのでしょう。

人間が作り出せたものだけが価値があるように信じ込まされ、自然にあるものは古く利用価値が低いとする。こういう教育というものを施され、そういう社会の中に平然と生活していると「暮らし」そのものが消失します。

歳月というものがかけてきた時間というものの真価は、とても尊いものです。それを文化と言います。文化の価値がわからないというのは、今の自分が存在してきた歴史の価値もわからないということです。自分を大切にしていない人が増えているのも、暮らしが消失していく中で発生しているのかもしれません。

自然と共に生きて暮らしていく人間の知恵の中は、親祖をはじめ先祖たちが歳月を紡いでくださったものがあったのです。歳月というものの価値がわかって人ははじめて物のありがたさ、また心のもったいなさに気付けるというものです。

この先、未来を思えば先祖たちはどのような不安を抱くでしょうか。古民家の解体にあるように何百年も維持されてきた暮らしは一瞬で壊されて失われます。文化が失われるということは、もう後戻りはできないということです。壊して捨てた古民家はもう二度と戻ってくることはないのと同じです。

壊さないという選択肢、大切に遺していこうとする選択肢、それを今までの歳月の上に温故知新していこうとする選択肢、つまりは伝承しようとする生き方をするかどうかが、これからの日本人にかかっているように思います。日本の原点を忘れた文明は、歪んだ発展を繰り返し衰退し消失してしまいます。本物以外は駆逐するのが自然の姿だからです。

如何に本物を遺すか、如何に本質を維持するか、それがなつかしい未来のための子ども第一義です。引き続き、真摯に初志を貫徹しご縁を活かして実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちの扱い方

昨日、福岡の聴福庵の近くで古民家の解体作業が行われていました。すぐに訪ねては、ちょうど昔の建具などを使えるものがあれば譲ってもらえないかとお願いしたら有難く了承してくれました。

中に入ると午前中からの作業ですでにほとんどが壊されていて、昔からのゆらゆらガラスや雪見障子、その他のものは粉々に崩れていました。それでもまだ残せば活かせるもので年代が古民家と同じものを探しいくつかを持って帰りました。

聴福庵に戻り夜一息ついて解体の家のことを振り返っているととても複雑な思いがして昨夜はほとんど眠ることができませんでした。今、私は必死に古民家再生をしていて長い年月をかけて手作業で丁寧に直して「なつかしい未来」のため子どもたちの代もいのちを大切にしてもらえるようにと祈りながら再生させ修繕していっている最中です。しかし解体の方は、これとは逆に一気に1日か2日で乱暴に重機を使って粉々に粉砕してゴミとして焼却します。

手塚治虫の「ブラックジャック」という本で天才外科医ブラックジャックという名医と、一思いに患者を安楽死させようとするキリコという医者の話が出てきます。なんだかそのシーンのことを思い出されました。その矛盾を抱えながらもブラックジャックは自分が生き続けるためにといのちの限り信念で患者を救い続けます。そのシーンが今回の古民家に似ていると感じたからです。

現場ではなんとか100年くらいたった古材の天井板だけでも残そうと業者さんに相談したら、板を剥がす手間よりも次の現場もあるのですぐに壊したいのが正直なところだと話をされました。解体は時間の方が優先だと仰っていました。解体現場を見渡せばその家に住んでいた人たちの思い出の品々があります。ここでは大切に処分するのではなく、あっという間にゴミになって捨てられます。しかし家に思い出と生きた記憶、そのいのちがあると思えば、再生を通して大切に修繕していくことと同じくらい、大切に処分していく必要があるのではないか。家にもいのちがあり、それまでの家族の暮らしを大切に見守ってきた存在、そういうものが再利用されていくというのが本来の解体ではないかと自問自答を何度もくりかえしました。

今は経済消費効果時間効率が優先され新しいものばかりが重宝され、古いものは価値がないように扱われます。古いものにはいのちがびっしり詰まっており、そのいのちは大切に受け継がれ使われる人たちによって甦生していきます。甦生し続けていくいのちは、人々に安心感を与え、先祖からのつながりを結び直して地域のご縁、報恩感謝の絆を強くしていきます。

親切な解体業者の方々は、「使えるものがあればできる限りもっていってください捨てるだけだから。窓ガラスなどをすでに割ってしまったことを申し訳ない」と仰っていました。

これを見てただの私の妄想かもしれませんが本の中で手の施しようのない患者への安楽死をキリコが請け負うとき「命を活かすことと安楽死で殺すことのどちらがよいか?」と皮肉られた時の返答でキリコが「ふざけるな、おれも医者のはしくれだ。いのちが助かるにこしたことはないさ・・・」というセリフを思い出しました。

みんな何とかしたいと思っていても、どうにもならない宿命も現実もあります。しかし、私はこの世に生まれてきたものとして根本的なことを忘れてはならないと思うのです。そこにみんなが気づき、もしも協力していくのなら歴史もまた変わると思うのです。未来はかつての最も優しく穏やかで幸福であった暮らしに回帰すると思うのです。心は痛いですが、この痛みを忘れずにいることこそが古民家再生の要になると私は思います。

最後に、ブラックジャックのメスをつくる琵琶丸という刀鍛冶の遺言で締めくくります。

「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」

引き続き、現実を直視ながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。

 

ゼロベースの大切さ~変化の仕法~

人は何かをはじめるときにゼロベースでやれる人がいます。こういう人は、最初から持っている知識を使いませんから素直に体験しその体験を深堀り、その分野の必要な力を習得していきます。誰でも人は最初からやればいいのですが、なぜかそれができずに体験が億劫になっていきます。これは学校で学んだ知識の刷り込みが邪魔をして体験を避けてしまうということが起きるからです。

人は学校で知識というものを持つことで体験をしなくなっていきます。知っているからやらないという人がとても多く、知識を先に入れてしまうことで結果から物事を考える癖を持ってしまいます。なんでも先に勉強する人は、勉強することでこうなるだろうという思考の癖が沁み付きます。先にわかってしまうと好奇心が減退し、そこに向かって感じるワクワク感というよりももしも間違っていたらどうしよう、もしも失敗したらどうしようといった保身ばかりが気になるものです。そのうち消極的な生き方で評価され成功してしまうと、自分からやるよりはやらないために知識を持つという受け身の悪循環に陥ります。そうなるといわれたことだけをやり、言われていないことはやらないほうがいいという、ついには正直者は馬鹿を見るとさえ思う人になっていくこともあります。これは人生の主人公、積極性を持つということにおいてとても残念なことです。

本来、知識というものは体験する中で深めていくものであるしそこに辿り着くための道具の一つでしかありません。知識一つに体験一つと、知行合一できる人は知識だけに偏ることはありません。体験をしても知識にならなければ人に伝えることができません、大切なのは知識と体験のバランスなのです。単に知識を持ち知った気になり、結局は体験を避けては結果だけ似せていくことを目的にしていたら実力が備わることはありません。

学術の評価の世界、つまりは学校の中だけで生きるのならそういうことも価値があるかもしれませんが現実の世界で自分の可能性を拓き目的を実現するのなら体験して深く学びそれを自分のものにしていかなければなりません。

その際、何が一番邪魔をするのかは先ほど書いた思考の癖、つまりは正解やわかることを目的にしてしまっている刷り込みですがこれを取り払うことが先決です。そのためには、それまでに沁み付いた癖や思考をいっぺんご破算にして捨ててみることです。

すべて真っさらににしてゼロベースでそれを学ぼうと覚悟し、過去の経験や過去の知識に頼らずに今、目の前にあることを新鮮な気持ちで挑戦していけば自ずと今までの刷り込みが取り払われ新しい体験に出会います。かつてのような古い体験や過去の成功体験に依存せずに、今の自分を自由自在に変えていくことができます。

いっぺん最初からやり直すということに必要なのは勇気だけです。今まで得たことをいつまでもしがみついて手放さないからその人は変わらず成長が止まるだけで、今までのものは通用しないのだと今だけを見つめて素直に謙虚に学ぶ姿勢を大切になんでもやってみる人は確実にその実力が備わり多くの人たちの役に立ちます。

一つの人生で、過去に一度うまく言った事例や成功にしがみついて生きるのはもったいないものです。いろいろなことが天から与えられ、日々は体験に満ちています。それを正解か失敗か、わかるかわからないか、できるかできないかなどといった視野の狭い判断基準だけで生きていくのはつまらないものです。

面白く生きるというのは、常に新鮮、常に知新、常に好奇心に満ちています。学ぶチカラというものは本来は、深めること、本質であること、真理に近づくことでしょう。

常にゼロベースであれば可能性は無限大です。

なんでもやってみる姿勢のままにワクワクドキドキしながら挑戦していきたいと思います。

一和の実践

人は生き方と働き方を分けると自分勝手になっていくものです。実際にどこまでが仕事でどこまでが家庭、どうやって分けるのかと考えるとわからないものです。仕事も家庭もどちらも人生と考えるのなら、どれも分かれておらず日々が自分の生き方次第ということになります。

これを置き換えると、社長と社員というものも同じものです。どこからが社長の仕事でどこからが社員の仕事なのか、どうやって分けるのかということもあります。本来、社長も社員も同じ理念で一緒に働くものであってそれは一家のようなものです。一家であれば、家人は誰がやってもいい気づいた人がやればいい、しかしその中でも家長はその役割を果たし、家人もまた役割を果たす、そこには対立したものではなく調和しているものがあります。

相対するものを調和するとき、そこには平和が生まれます。実際に、平日や仕事勤務時間だけは働き方だけを変えて生き方を変えなかったとしたらそこに生き方と働き方は対立します。しかし平日も休日も人生だからと、志に生きていくのならそれは生き方と働き方が一致して調和が生まれ平和が訪れます。この対立する考え方というのは、自分を中心に対立させているということになります。

人が自分勝手になるとき、我を通して我儘になるときすぐに事物を対立させてしまうのです。一緒にやっている人には対立はありませんが、上下左右と自己中心に相手を分けてしまうとそこに対立が発生します。

如何に相対するものを中和するか、一和するかができてはじめてその人は生き方と働き方を一致させたということになります。自分自身が本当にやりたいこと、その生き方、自分探しではなく、自分に与えていただいた天命に生きること。そういうことができたとき、人は自分に出会います。

今の時代は、自分探しと言いながらいつまでたっても自分から逃げている人がいます。本当はこんなはずではないとか、もっと自分には合ったところがあるとか、そんなものはあるはずがありません。生まれ落ちてくる場所も親も選べない自分、そういう自分が自分探しなどしても無意味なのです。分を弁え自分を慎み、自分に与えていただいた天命を感じれば、この場、この環境、この時、この自分をどれだけ一生懸命に全体のために役立てていくか、ないものねだりではなく今のある自分に感謝して自分を活かし、周りを活かしていくのが大調和になるのです。

自分探しをやめて、自分を見つめ受け容れること。その方が、自分自身を直視でき自分にもできることがあると本来の努力や苦労を味わっていくことができるのです。

相対するもの、この世の中にはたくさんありますがそれを自然に回帰するのも人間の知恵です。自然は分かれたものは一切なく、分かれていないから自然体なのです。自然体というのは、人生そのもので調和しているということです。自分自身の人生なのだから、悔いのないように日々は人生だと思ってやりきっていくことです。

引き続き、生き方と働き方のモデルを示し子どもたちに自分らしく自分の人生を歩んでいけるよう分かれているものを一和して実践を続けていきたいと思います。

自分らしく語る文学

アメリカのロック音楽界の重鎮、ボブ・ディラン(75歳)が、2016年度のノーベル文学賞を受賞しました。音楽家としてははじめての文学賞の受賞で、世界では賛否両論あるそうです。文学と音楽は別のものだと思うのは大きな勘違いで、そもそもすべての学問は分かれるものではなく一つのものです。

今回の受賞の理由は、選考にかかわったサラ・ダニウス事務局長から古代ギリシャの詩人・ホメロスの名を引き合いに出しながら、ボブ・ディランは「口語で表現する偉大なる詩人」と評されたそうです。これはかつて日本でも尾崎豊のように弾き語りをしながら即興で音楽を詩に乗せていたのを私も覚えています。言葉を語り文字を紡ぐというやり方は、そのままその心のままに綴り文を磨くことに似ています。

いろいろと言う人もいますが文学とはそもそも誰かの主観で独占できるものではなくみんなのものですから、それぞれの見方があることはいいことだと私は感じます。十人十色あってこそ、その解釈が新たな文学のエネルギーになっていくからです。自分らしくあることこそが、伝統に根差した学問であろうと私は思います。自分の中にあるボブ・ディランがあっていいと思います。そのうえでブログで紹介します。

ボブ・ディランにはこういう言葉もあります。

「あなたの心に従ってゆきなさい。そうすれば最後にはきっとうまくいく。Boy, go and follow your heart. And you’ll be fine at the end of the line.」

心のままに弾き語る、その姿から生き方や実践からのメッセージ性を感じます。他にもこういう言い方もします。

「私が自信を持って出来ることは、自分自身であること。たとえ自分という存在が、どんな人間であろうとも。」

「僕にはヘンな癖があるけど、捨てなかった。それがぼくの個性だから。」

自分自身であることを大切にしました。そして自分らしくあるものと向き合うためのチカラを伝道してきました。

「最低の犯罪者とは、間違ったものを目にし、それが間違っていることに気づいたにもかかわらず、そこから目を背けてしまう人たちだ。」

「僕はよそ者だった。ますます疎外感を感じた。違うのに道づれにしようとするんだ。」

「ヒーローとは、自分の自由に伴う責任を理解している人のことだ。A hero is someone who understands the responsibility that comes with his freedom.」

そして行動すること、自ら変化を促すことを語ります。

「やらなきゃいけないことをやるんだ。そうすればうまくいくさ。You do what you must do and you do it well.」

「朝起きて夜寝るまでの間に、自分が本当にしたいことをしていれば、その人は成功者だ。A man is a success if he gets up in the morning and gets to bed at night, and in between he does what he wants to do」

「日々生まれ変わるのに忙しくない人は、日々死ぬのに忙しい。He not busy being born is busy dying.」

「泳ぎ出したほうがいいよ。そうしないと石のように沈んでしまう。」

「私は一日の中で変化する。朝起きた時はある人で、寝る時は確かに別人だ。」

理想を求めて歩んでいくことの大切さを語り綴ります。

「すべての美しいものの陰には、何らかの痛みがある。Behind every beautiful thing there’s been some kind of pain」

最後に、いろいろな賞があろうがなかろうがずっとボブ・ディランさんの歌は普遍性を持っているように私は感じます。

「どんなレッテルを貼られてもかまわない。歌うためなら。」

志を定めて生き切る方の背中には勇気をもらえます。どんなレッテルを貼られても構わない、子ども第一義のためならとやりきっていきたいと思います。

 

暮らしの室礼

先日、埼玉県にある日本国登録有形文化財会席料理の二木屋にお伺いするご縁がありました。これは郷里の古民家再生の中でひな祭りの行事を実施している方からの紹介でした。

ここはHPに「懐かしい味、本物の味、日本の代表食材・和牛、家に伝わる味・・・お茶時の料理である”懐石”はあえて名のらず、楽しく集まって食べる”会席”を選んで、伝えるべき日本の味を模索してまいりました。そして十年。この節目に私のするべき日本料理の仕事をまとめ直しました。”過去という未来”に向かって走っていく二木屋の”温故知新”です。」と書かれています。

訪問してみると、遊び心満載な室礼が空間の美を活かして配置されていて私たちを魅了します。座席に着くまでの道のりが近いはずが遠く、どうしても何度も振り返ったりするほど好奇心がワクワクします。

私もおもてなしの定義を遊び心だと思っていますから、共感するところが多く本当に学ぶことがたくさんありました。

料理が出てからは、明治の曽祖母のレシピを再現したものが出てきたり、かつて先祖であった方が発明したもみ殻を使った竈のご飯が出てきたり、歴史や御恩を感じました。特に盛り付けやお皿、すべての空間が「装飾」されており「飾る」ということの素晴らしさを改めて再認識することができました。

人生というものも同じく如何に日々を「飾る」かというのはとても大切な心掛けです。お祝い事やハレの日には、それまで何もなかったシンプルなものにその悦びや感謝を飾るのです。私にとっての飾りとは何か、それは真心の尊重です。

人生は出会いに満ちています。その一つ一つはかけがえのない一期一会の出会いです。どんなものとも、どんな人とも、どんな時とも、どんな場ともすべてに出会いがあります。それを真心のままに感じるのは好奇心がいつも活き活きとそこに息づいているからです。そういう出会いの哲学を持つ人には、この年中行事が素晴らしい躍動をもって演出されるように思います。私の座右、一期一会にこの「飾る」遊び心は常に表裏一体です。

最後に二木屋ご主人の「日本の室礼 二木屋の作法」に記されている言葉で締めくくります。

「演し物は季節と年中行事です。
部屋が舞台です。
室礼は大道具です。
器は衣装です。
料理は演目です。
演出家はあなたです。
今月はどんな気分で部屋を飾り、料理をつくろうか。
あなたらしさで、
暮らしをしつらえて下さい。
家とは劇場です。
お客さまがいらして、
家族が楽しむ劇場です。」

暮らしの室礼を楽しみ味わい、深めてみたいと思います。聴福庵にて出会う一期一会の人たちを最幸の遊び心で迎えてみたいと思います。

変化の源泉

宇宙や自然を含め、私たちが生きているということは循環を已まないというとです。円転循環・万物流転するこの流れは、日夜已むことなく行われ変化がないことはありません。変化というものは、何もない日々のように思われても必ず何らかの変化が起きています。

そしてその変化を見るとき、「摩擦」が生まれることを感じます。この摩擦とは何か、お互いが相互にこすり合わせることです。人間関係でいえばわかりやすく、お互いにかかわりあう中で摩擦しあうことでその関係に変化が生まれます。変化は摩擦であり、摩擦こそ変化の兆しであるともいえます。

その摩擦を嫌がり変化をいくら避けていても世界は〇であり万物流転し続けますから変化は必ず何らかの形になってやってきます。いつも自分を守り何もしなくていい安全圏にいたいと思っていてもじっとしていたら変化は已みませんからそのうち危険地帯にはいってしまっているものです。だからこそ変化は迫られる前に自ら変化するという自らの歩みを一歩一歩進め、そして挑戦を続けて革新していくしかありません。

つまり変化というものは、進化であり、人が摩擦をするとき、それは進歩になるとも言えます。

そして変化とは発達のことであり、発達するから発展するのが万物造化の真理でもあります。変化を恐れるのではなく、変化を如何に楽しむか、そこには「健全な危機感」が必要になります。

この健全な危機感とは何か、それはきっと善いことになると信じること、好循環していくことをイメージできること、人間万事塞翁が馬、禍転じて福になるということ、運がいいと信じることなど、その人の生き方が与えられた天命に対して素直に活かしていくような健康で安全な危機感を持てるかということです。

この健全な危機感とは、決して自分都合で自分勝手に物事を動かすことが人生がうまくいっていると勘違いすることではなく、与えていただいたこの場所、この今、この環境、このご縁、この役割、この時、このいのちを感謝して分をわきまえ有難く全身全霊で全ての今を引き受けるという捧げ全体の変化に協力する自分の人生の態度を持つということです。

人生の態度というものは言い換えるのなら「生き方」というものです。

その生き方が人生の循環の流れを決めています。どのように生きたいか、その問いこそが運命を左右するのです。自分で好循環を創る人と悪循環を創る人、それはその人の今の生き方が決めているのです。

そしてどのような生き方をするかで、その後の未来は変化していきます。変化とは決して忌み嫌うものではなく、変化することは発展しているのだから怖がるばかりでそれに逆らうのではなく、その変化を楽しみ、摩擦もまた味わうといった人生の妙味を感じることが変化進化進歩成長を自然体で取り組むということかもしれません。

健全な危機感、その信仰心ともいえる感謝を土台にする心は変化の源泉になっています。不健全な危機感はそこにはないものねだりと不平不満が土台です。本当の自信もまた、その生き方の態度によって自分に誇りが持てるかどうかに懸っています。だからこそ変えるのはその心の態度を健全にすることが先なのかもしれません。

引き続き、子どもの憧れる生き方と働き方を実践していきたいと思います。

大切なものを守る人々

昨日は秩父神社に訪問し権宮司さまから祭礼についてのお話をお伺いすることができました。秩父という地域は、とても神社と氏子たちとの絆も強く、様々な祭りや地域活動が今でも大切に実践されています。長い時間をかけて経てきたその地域の真心の伝承は今でも色濃く残っている風土美を持っている地域とも言えます。

自分がその土地に有難く住まわせていただいているという感謝の気持ちをいつまでも忘れず、神様に対して畏敬敬虔の念でその初心を守ろうとする宮司と氏子たちによって大切な文化が守られていることに感銘と感動を受けました。これは本来は当たり前だった日本の真心ですが秩父神社のその深さと質に偉大な歴史と伝統を感じたからです。

今の時代は、かつての日本人としての徳目実践を怠る人たちが増え先祖たちがなぜこれを続けてきたのか、何のためにやるのかということを考えず、ただ形だけを見てはなんとなく意味も分からず続けているような事物が増えてきているように思います。何かが行われるのはその理由が存在し、その理由を忘れずに実践を続ける人たちによって理念や初心といった物事の本質や「いのち」はいつまでも活き活きと甦り続けて生き続けます。

しかしそれを忘れてしまい、本質からズレたことをはじめてしまうと途端に本物ではなくなり現実味が消失していきます。私たちは常に理念や初心というものを扱っている自覚、つまりはいのちをそのまま扱っているという自覚がなければそのいのちは消えてしまうのです。

よく考えてみると、そこに神様がいらっしゃると慎み過ごすことや、そこに神様の導きが入っていると感謝すること、そこに神様がご鎮座してくださっていると畏れ敬うことは自分自身の姿勢が決めるものです。自分自身がそういうものであると心の中で決めて、そのために自分の都合や自分が優先されないようにと自戒をし実践を怠らないからこそ神様が観えていきます。自分自身の方がズレていることにも気づかず、自分の都合で物事を動かすほど不敬虔なことはありません。

神様が次第に観えていくということは、自分が神様にどれだけ真摯に仕えるかということであってその仕え方によって神様は顕現しそのいのちが次第に観えてくるということでしょう。そして自分自身の心の姿勢が真摯に実践を伴い想念が磨かれ澄まされなければ何も観えることもないのです。

例えば、家の道具一つにしても道具というのは人生の道を助けてくれるものだからこそ道具とし昔の先祖たちは大切にそのいのちを壊さないようにと丁寧に扱ってくれていました。こちらが道具をただのモノのように扱い使い捨てばかりしていたら単なるモノになってしまいます。物を大切に扱い、物の御蔭様で助かっていると感謝の心があればその物は語り始めその物との関係性が築かれお互いの物語(いのちのつながり)が発生してきます。

これと同じく、自分自身の実践する姿勢が全体の世界観を決めていくのが「生き方」でもあります。神社や宮司の生き方や、そこに仕える氏子たちの生き方は実践に現れてきます。秩父神社にかかわる方々の実践をお聴きしていると、日本の原点を感じ、また日本人らしさを感じ、さらにはその生き方をしている方々に誇りを感じます。

自分たちが誇らしいと思えることこそ本来の自信であり、そこが地域の最大の魅力になります。自分たちの魅力が減退するのは、理念を蔑ろにし実践を怠るからです。そうしているうちに地域の魅力が消失していくのです。大切なものを守ろうする人々の真心に触れて、改めて自分自身が取り組んでいることの意味を学び直しました。

今回のご縁で自分たちが実践するということの意味、理念を大切に本物を譲り遺していくことの意味を深く感じ取りました。私の信じる神社のかたちもはっきりと再確認でき、有り難い思いでいっぱいです。今、実践をさせていただていること、それを深め積み重ねながら沢山の方々のつながりとご縁、そのすべてに感謝しながら子供第一義の理念を丹精を込めて今日も実践していきたいと思います。

色々とご教授いただき感謝しています、引き続き御恩返しの実践をしご報告していきたいと思います。

物事の見方~人生の道~

物事というものはその見方というものが存在します。同じ出来事があったとしても人によってその受け止め方は様々です。私たちは生き方と働き方の一致を実践していますが、実際はそこが分かれてしまっている人が増えていろいろと生活が大変になっている人が多いように思います。

よく公私混同の話がありますが、本来は公私ではなく人生で考えれば公私などと別に分ける必要はありません。しかし実際は、これはプライベートだからとかこれは公だからとか一つの人生を自分の都合のよいように分けてはかえってバランスが取れずに大変になっています。

人生というものの尺度を物事を測ってみれば、どれも自分の人生なのだから正直にやっていくことがもっとも道に相応しくなっていくように私は思います。物事の判断基準というものは、一般的には自分というものを中心に左右に分けていきます。自分にとって損か得かと考えるということです。自己実現などという言葉も、自分というものを中心に考えれば自分の思い通りになったことが自己実現ということになります。しかしそれは単なる自己満足であって自己実現ではありません。

ではどうすれば自己実現になるのか、それは全体の中で自分が役割を果たせたり、全体とのつながりの中で自分自身がその循環の一部になっていくというように自然の一部として自分が周りから活かされる存在になっていったとき自己が実現されたということになるのでしょう。常に思い通りに人生を人生と呼ぶのではなく、思う通りではないけれど思っていた以上のものがあったというのが人生の醍醐味だと思います。

そして実際にその判断基準を転換していくためにも「物事の見方」を換えていくしかないように私は思います。小林正観さんに「見方道の家元」という言葉があります。本来は家元というのは一人なのでしょうが、正観さんは見方道はたくさんの人たちが家元になれると言います。その一つに「ありがたい」と感謝で観るという見方の話がでてきます。

そこでは私たちが住んでいる国は、三つに分かれていると言っています。一つ目の国は「悲帝国」(ひていこく)「悲しい」は「非ずの心」と書きます。非ずの心とは「そうではない、そうではない」と思う心です。コップに水が八分目まで入っていても「八分しかないじゃないか」と否定的に考える人たちの国です。

「悲帝国」の住民は目が見えているだけでも十分に幸せなのに「もっとどこかに幸せがあるはずだ」と満たされない心で生きているそうです。

これはないものねだりであるものを探そうとしない、自分探しはしているけれど自分にあるものを見つけられないこれらはとても否定的であるということです。

そして二つ目の国は「好帝国」(こうていこく)この国の人たちはどんなことがあっても「嬉しい、楽しい、幸せ」と肯定的にとらえる明るい人たちの集団だそうです。

これはあるものを見つけて感謝する、なんでも前向きに受け止めて前進するといったポジティブで肯定的な人たちということです。

そして最後の三つ目の国は「ありが帝国」(ありがていこく)。コップに三分目までしか水が残っていなくても「誰かが三分だけ残してくれたありがたい」と感謝の心でとらえる人たちの集団だそうです。

この「ありが帝国」の住人は自分以外のものにも手を合わせ笑顔で「ありがとう」を言い続けている人たちですから謙虚に穏やかに生きて楽に、楽しく生きている人たちになるそうです。

これは私が言うと「どんなことがあっても好いことへと転じている生き方」の人たちです。禍転じて福にしている生き方、どんな人生であっても自分の人生なのだからと感謝で生きている達人たちのことです。今ここにあることが感謝、今生きていることが感謝、今、活かされていることが感謝と、感謝感謝が人生そのものになっています。

私はこの見方ということが充実した人生において何よりも大切だと思っています。なぜなら人生は一度きりであるし、二度とない天与の人生です。その人生をたいせつに味わうには生き方を変えていくしかありません。生き方を変えていけば自ずから働き方も変わっていきます、そうなれば公私混同しても公私一体になっていくだけですからそのうち生き方と働き方は一致して丸ごとの人生なっていくのです。

つまりは方程式のように書けば、人生=生き方+働き方×見方ということになるのでしょう。

どの国に生きていくかはその人が決めていますから、自分がありたい方へと素直に舵を切っていくのは、「分けない」という実践を続けていくことで実現していきます。いろいろと周りは言いますが私は信じる人生の道を歩み、「ありが帝国」を子どもたちのためにも広げていきたいと思います。

 

つながりの再生

昨日、地域の再生についての話し合いに参加する機会がありました。地元のことについて改めて話を聞いてみると今までいろいろな方々が町を愛し、様々な取り組みをしてきたのがわかります。地元への愛着がある人が減って若い人がいなくなっていくのはとても寂しいものです。

私たちはもともと自分が育ってきた故郷というものがあります。その故郷には様々な思い出があります。その思い出を守りつつ、新しい町にしていこうとするのはそこで育ってきた、いや育ててもらったという恩があるからです。

私たちは町で暮らすとき、そういう先祖の恩や地域の御蔭様を感じるものです。今では、地域のコミュニティや御祭りなどの行事も失われ次第に先祖の恩や御蔭様などを感じることが減ってきたように思います。自分たちのことだけをやればいいという考え方というのは、「つながり」を断っていく行為です。

そうやって組織にいる人たちも自分のことばかりを考えて全体のことを顧みない人が増えてきているようにも思います。常に自分たちのことだけに終始するというのは、自分勝手になったわけではなくつながりが切れているという自分の感覚に気づくことが必要なのです。

誰の御蔭様でここまで生きてこられたか、どういうつながりで今の自分があるのか、なぜ今の自分がこの環境の中で存在しているのか、そういう一つ一つを勿体ないと有難く感謝できるからこそ人はつながりを感じながら生きていくことができるのです。

つながることで人は安心し、よりつながりの絆を強めて厚くしていこうとしますから御恩や御蔭様の中にいることに気づけます。つながりが消えると同時に、人は自分自己の心配ばかりをはじめますから我慾に呑まれてしまうのでしょう。

己に克つという徳目は、先祖への御恩、感謝の心を忘れないということです。地域の再生はつながりの再生なのです。

なぜ自分が地域へのご恩返しをはじめたいと思ったのか、そこに御蔭様の実践の導きを感じます。引き続き、子どもたちが安心して暮らして町を好きになってもらえるように自らが小さな実践から積み重ねていきたいと思います。