照一隅、目的に生きる人

先日、友人の紹介で中村哲さんのドキュメンタリー映画を拝見する機会がありました。この方は、日本での病院勤務を経て、84年に国際NGO「ペシャワール会」現地代表としてパキスタンに赴任し、パキスタン人やアフガン難民のハンセン病治療などに携わりました。そして2000年にアフガニスタンで大干ばつが発生して以降は、井戸の掘削や灌漑用水路の建設もされました。

なぜ医師が井戸や用水路をと思いますが、中村さんは「ほとんどの病気は十分な食べ物と清潔な飲料水があればかからない。 飢えや渇きというのは薬では治せない」といい、いのちを救うのに必要なのは水だとし率先垂範して水の確保に自らのいのちを懸けました。

本来、医師が土木ができるはずがないという周囲の言葉をよそに独学で学び、実践を通して治水や灌漑を実現していきます。福岡にある江戸時代の山田堰なども参考にしてそれを現地で活用し理想的な用水路を実現していきます。私も甦生を手掛けていますが如何に心身に困難を極めることだったかと尊敬の念がこみあげます。

人はただ何をしているかということでは判断することはできません。大事なのは、その人の目的が何でだったかということが重要です。

例え、世間で評価されていない人であっても、有名人ではなくても、成功者ではなくても、その人の夢が何であるか、その人の目指す目的が何であるかの方がはるかに重要です。

私も色々なことにチャレンジしますから、周囲はいろいろな言われ方をします。分類分けされるのがもともと好きではないですが、好き勝手に評価されなぜかあまり関係がない分野に入れられたりします。

私はそもそも子ども第一義という、子どもの憧れる生き方や働き方を実現しようと会社を起業しました。そして21年目に入り、今では徳の循環の大切さや、故郷の土徳の甦生、または暮らしフルネスといったこの時代の責任者として人間と自然が共に仕合せに生きていくための温故知新の実践を伝道しています。

自分らしく生きるというのは、目的に正直に誠実に歩んでいくということです。それをどのように周囲が言おうが評価しようが大事なのは夢を諦めずに目的を忘れずに取り組んでいくことです。

心は直観とも結ばれていて、頭の理屈では説明できないことがほとんどです。しかし本当にやりたいことは必ず実現しそれは周囲に長い時間をかけて伝わっていきます。

きっと中村さんも、用水路を自ら重機にのっているときは単に土木の人になったのでしょう。しかし果たしてこれは本当に土木の人であったか。そうではなくいつの瞬間も真の医師であったはずです。古語に「小医は病を医す 中医は人を医す 大医は国を医す」とありますが間違いなくこの方は大医です。

二宮尊徳も農業をしましたが、元々は大医でしょう。いのちを守りたいと強く願うからこそ、自然と人間との共生の問題や素直さと謙虚さを愛のことを磨き続けて道を歩んでこられたのでしょう。

私が子ども第一義という理念を掲げたのも、子どもの中にすべてが存在するということに気づき、その未来をよりよくしたいと祈ったからです。

目的に生きることは尊いことです。自分らしく生きていくことを尊敬し合う世の中になるように自らが子どものお手本になるよう照一隅の挑戦を続けていきたいと思います。

 

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には厳しいけれど豊かな環境のなかで恵みに感謝しながら土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

真の建国

建国の理念というものがあります。これはどのような国家にするのかというものです。実際に、明治に入り国家というものが樹立したと歴史では語られます。確かに、国家宗教をはじめ国家教育、法整備などあらゆるものは西洋に倣いその時代に作られていきました。しかし本当に国家というものが誕生したのはいつでしょうか。それは明治ではありません。それは親祖といわれる、古代の日本の神話、古代の先祖がまず理念を定めて子孫たちがそれを実現しようと繋いできた伝統伝承の中にあることは間違いありません。

本当はどのようなクニを目指していたか、それを知ることが心の故郷を甦生することであり、真の日本人を甦生することでもあると私は思います。

歴史にはその真実が残っています。

古代の遺跡にも、また万葉集をはじめその時代を生きて人たちの心のつながりの中に今でも創始の理念があるのです。

世の中や時代が大きな混乱をするとき、人々が大切なことを忘れてしまったその時こそ、その始祖の生き方、思いを思い出すことが必要だと私は思います。私が、かんながらの道を綴るのもまた日々に始祖の理念に立ち返ろうとするからです。

目には見えませんが確かに存在する始祖の願いや祈りは、すべて徳の中にこそあります。まさに徳樹深厚の実践が今でも私たちに受け継がれていることの中に見出せます。

混迷の時代、終末が近いからこそ原点回帰は今の世代のリーダーたちの大切な役割です。

子孫のためにも、始祖の理念を甦生させ根からもう一度真の養分を吸収できるように挑戦していきたいと思います。

真心を磨く

現在、人間社会が自然を凌駕するような生活に一変しかつての自然との関係は崩れてしまっています。人工的な自然を自然とし、人間の法を自然の法と挿げ替えていることにすらも気づかなくなってきました。教育や環境によってさらに自然という本来の真の自然は遠ざけられ、私たちには人間が作り出している人工的なものを自然と呼ぶようになりました。

都市型の生活においては、自然はほぼ失われ人間の人工的な暮らしが当たり前の日々に代わります。水よりもお金が重要視され、これはいくらくらいかかるものかということが生活の中心になっていたりもします。

本来、人間は自然の中で活かされているそのほかの生き物と同じ立場にいるものです。虫たちも鳥たちも、またあらゆる小さな生命、そして植物のような存在にいたるまですべて自然が等しくいのちを活かしています。その一つとして人間もいるのだから、みんなが循環し助け合い支ええ合う中で私たちは生きることができいのちは輝きます。みんな謙虚に生きて、自然の恩恵をいただき暮らしを充実させていくのです。

それが人間の生活だけで好き勝手していくなかで自然を破壊し、自然を征服していきました。資本主義の本当の問題は人間の問題ですが、もっといえば人間と自然の関係の問題だともいえます。

人間が謙虚になっていかなければ資本主義がどうかとか環境問題がどうかとかの問題ではありません。本来、自然に活かされている人間はどのくらいの自然のおこぼれに肖り生きていくかを問題にしなければならないと私は思うのです。

そもそも暮らしフルネスの足るを知る暮らしというのは、自然との関係の話です。自然の恩恵は人間だけにあるものではありません。これはみんなのものです。ある時は、猪のものですしあるときは鹿のものにもなります。

うちの畑でも猪が入り、掘り起こされました。せっかく種を蒔いたのにとショックをうけておろおろとしますがお互いに生きていますから仕方がないと少しの対策をしたらまた種を蒔き直します。また別のところを掘り起こせるように配慮して、全部を奪わないようにしたりもします。生きているのが人間だけではないのだから、どうやったらみんなが喜ぶかを考えて農業を生産するのです。

つまり自然からいただく生産は、みんなで分け合う生産であるということです。

太古の時代から私たちは徳を循環させてここまで生き延びてきました。みんなで分け合い、助け合うことは徳の循環を促していきます。そしてその方が自然の恩恵や利子をたくさんいただくことができるのを知っていました。

自分が精いっぱい、自然と一緒に生きていけば自分も喜びみんなが喜ぶことに気づいていたからでもあります。人間の世界は、そうではないから傲慢になっていきます。奪い合い、戦争し、悲しいことがたくさんおきます。自然の災害は深い慈愛がありますが。人間の災害は辛い後悔があります。

自然と人間がどのように折り合いをつけていくか。そろそろ本気で向き合う時代に入ってきているともいえます。その中心を私は「徳」であると確信しているのです。引き続き、変わらぬ日々でも自分を変え続けていくためにも実践を真摯に積み重ねて真心を磨いていきたいと思います。

生まれ変わる

日々というものは、体験をすることで新しく生まれ変わっていくものです。一日の体験次第で、人は新しいことに気づき、そして変化していきます。どのような体験をしたかが生まれ変わりとしたら、私たちは生まれ変わるために繰り返し生きているともいえる存在です。

これは一生の人生でも同じです。人生は自分として様々な体験をします。もしも目の前の人や、周囲の人に自分がなったならそれはその人の体験になります。この人生の体験は自分だけのもので、それをしっかりと体験して次にいきます。

時間という概念を超えてみると、私たちは悠久のときに何度も体験を続けているだけの存在です。体験することで何を得るのか、それは生まれ変わりを得るということでしょう。

私は、甦生家としてあらゆるものの甦生に手掛けていきます。これはいいかえれば寿命を伸ばすことですが、もう一つ別の見方をすれば別のいのちを体験させるということでもあります。

本来、ある役割や役目をもって生まれてきてその役目が一つの節目になります。それを終わらせるのではなく、まったく別のものとして生まれ変わらせていく。これは別の体験をしていくということです。簡単に捨てるのではなく、永遠に生まれ変わる機会をつくるということでもあります。

私がなぜそこにこんなに興味があるのか。一つは徳の循環に気づいたからです。もう一つは、体験したいという好奇心がすべての存在にあるからです。私たちはどのようなことも体験したいという思いがあります。これは体験を顕現するということです。私たちが感じる森羅万象はすべてこの体験の顕現です。

そして私が昨年から甦生している宿坊や修験の甦生で感じるのもまた、この験のことです。この験とは経験ともいい、体験することで得られる境地を表現しているものです。

つまりは私たちは起きた出来事の良しあしではなく、重要なのはその験によってどう生まれ変わったかということ。どれだけのいのちを甦生し循環させていったかということに重きがあるのです。

自然の摂理や自然の循環、地球も宇宙もまさにこれを行っている存在なのでしょう。

子どもたちにも普遍的な生き方を伝承し、生まれてきた喜びや仕合せを感じられるような環境をととのえていきたいと思います。

丁寧な心

時間を経て、あった出来事を振り返っているとそれがどのような思い出であったかが分かってきます。いろいろな人がいて、人間関係は紆余曲折、悲喜こもごもありますが真実は変わりません。

節目にあれは何だったのかと思い出すのはとても豊かなことです。

出会いや別れも同じように時を経て関係が変わってきます。あの時、お世話になった人もいなくなりまた新たにお世話になる人もいます。同時に今度は、自分もお世話する側にまわります。役割を交代しながら、巡り廻って助け合い存在するのです。

自然の循環も等しく、私たちはつながりや結びつき、その循環によって生きています。私のやっていることは、土づくりに似ています。土は間接的です。炭も間接的。触媒のように表には出てきません。しかしそれなくして循環を豊かにしていくことはできません。

時間をかけて土を醸成させていくのは、手間暇がかかります。しかしこの手間暇があるから、育つものたちの行く末を見守ることもできます。この見守るという行為は、間接的です。

でもよく考えてみるとこの間接的というのは、ご縁の網羅する世界であることは間違いありません。まるで神様がお導きするかのように、目に見えない世界は常に間接的に結び合ってつながっています。

そういうものに結ばれている人生を思う時、心はとても静かです。

今でも先人や先師は心の中に存在していて一緒に生き続けています。心が静かになるとき、関係の中に入っていくように思います。この世のすべては網のように関係していないことはないという事実。

それを受け容れ、受け止めて大切に歩んでいきたいと思います。子どもたちにつながっていると思い、丁寧に取り組んでいきたいと思います。

流行り廃り

世の中には、流行り廃りがあります。人は感情がありますから目新しいことに興味を持ち、周囲がそれに取り組むのに乗り遅れないように流行りを追いかけていきます。そしてある程度、流行ったらそれが飽きられて廃ります。もっと良いものがあると、また目新しいものが出てそれが流行ります。

普遍的かどうかではなく、流行り廃り的であるということです。

人間の本質とは何かということを考えると、普遍的なことがわかります。誰しもが幸福になりたいと思うし、健康であることも、心の平安も等しく必要なものです。しかし普遍的であることよりも、何よりも消費することや欲望を満たすことに意識が向けられると普遍的であることよりも流行り廃り的であることが優先されていくものです。

だからブームの去った後に残ったものを見つめると、ゴミが散乱したかのような廃墟が残ります。人間の浅ましさや短期的に奪い合った場所のように乱れ汚いものがあります。

現在、テクノロジーも似たようなことが起こっていないでしょうか。

核兵器にしても持った方がいいと世界には14000発以上の核ミサイルがあるといいます。また新たな核よりも良いという兵器が出たら、流行になって今までの核が廃れるのでしょう。しかし、その廃れた核はいったいどうするのか。責任も持たないままにわれ先にと流行を追いかけた先に人類の未来はありません。

かつて、先人たちはその責任において正しくテクノロジーと向き合ってきました。短期的な目線で短絡的な流行には目もくれず、普遍的であること、時代が変わっても価値が変わらない大切なものを優先してきました。

その御蔭さまで、今の私も時代が変わっても大切なことを伝承され徳に恵まれ生きていくことができます。

そもそもブロックチェーンのテクノロジーも、流行り廃りが出ているのがわかります。web3なども同様です。そのうち、we4,web5,web10など出てきてはその前のテクノロジーは廃れます。それが流行りであれば、さきほどのような廃れはやってきます。

先日、ある方と技術史について話をしてきました。私の住む筑豊というエリアは古代から銅や鉄の技術が誕生し発展してきた場所です。現在も、工業が盛んなのは先人の伝統が今も普遍的に受け継がれているからです。

私たちが取り組んでいるのは、流行りではないのですが世間ではどうしても流行りとして取り上げられます。流行りが悪いといっているのではなく、流行りだけではなく普遍的であることに関心があまりないと思うことです。その証拠に、文章や動画だけで分かった気になり確かめに来ることもありません。流行りそうなことには興味があっても、廃れることには興味がありません。廃れることを先に考えて、何をすべきかをよく見定めてから流行をコントロールすることもまた政治の役割だと私は思います。

本質から改善することや根源的に治癒していくためには、人間そのものと向き合う必要があります。そんなことはお坊さんやお医者さんがすればいいと思うのかもしれませんが、本来は一人一人に責任があるように思います。それは世界はつながっているからです。

流行は感情を伴いますが、日々に修養し、心を落ち着けて本来のあるべき姿を追い求めていきたいと思います。

真の農家

今朝、友人の歩くラジオに出演して話をする機会がありました。この方は、東北岩手の方で宮澤賢治の故郷で育った方です。話をしながら宮澤賢治のことを思い出しました。

もともと私は賢治の残したメモの「雨にもマケズ」の文章がとても好きで、シンプルですが憧れる自分像を追いかけて歩んだ生き様に深く共感していました。私も子どもの憧れる会社をつくるということで今のカグヤを起業しましたがこれは童心を守り、道心を結ぶという取り組みでもあります。

童話や童謡、そして童心は、人類の遠い先祖であり未来の子孫の心を示すものです。ラジオの中でも「子どもは人類の先生」と言い方をしましたがこれも童心に由るものです。

宮澤賢治の中でもう一つ深く共感している言葉は、「農民芸術概論網要」のなかに出てくる「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というものです。

これは私が「徳」の話をするときによく用いるものです。徳も網の目のようになっているもので、その網の目の中に自分たちは存在しています。その存在している網の目は徳で結ばれています。

私たちは一物全体であり、全体は私でもあります。自然や地球、宇宙など言葉では文字にできますが実際には分かれたものではありません。分かれていないからこそ、もともとは一つです。その一つとは、網羅です。網羅する世の中では、自分だけの仕合せを追及しても意味はありません。

自分の仕合せがみんなの仕合せになるという、自他一体の境地を目指す必要があります。それはお互いを尊重し合い、お互いを喜び合うという繋がりや関係性の間に存在するものです。これを別の言い方では、場や間、そして和ともいいます。

日本人の先人たちは、それを自覚していてその境地をもって世界を真に豊かにしていこうと試行錯誤してきました。それが先人の暮らしの中に知恵として伝承されています。そこには偉大な思いやりと、経験や体験を遺してくださった恩徳があります。

そういうものを大切にお手入れしながら、子孫へどのように生きたらいいかを各世代が真摯に挑戦してきた御蔭様で今の私たちの暮らしがあります。そのどれもに向き合い、深く対話をし、どうあるべきかを体現させていくのは今の世代の本来の責任であり使命です。

私も農的な暮らしをしている人といわれます。暮らしフルネスは農の実践が多く、周囲から見ればそう見えます。しかし、私は徳が先でありすべての生き物たちが喜び合う世界を実現したいと願い真の農を実践しようと答えを生きています。

人類を愛し、全体を愛しているからこそ気づいてほしいと気づきを生きる。

今の時代を善く観て、何が必要でどれを活用して徳治の世を顕現させるかが真に遣り甲斐のある世代の事業でしょう。真の農家に憧れながら同じ世代を生きる仲間や同志たちと、宮澤賢治が農で実現しようとしたサンガを創造して挑戦を続けていきたいと思います。

巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。