道に還る

時代というのは面白いものです。時代というのは、人間の集合意識、そして価値観がそのものが時代ともいえます。その時代の常識とは、その時代の人々の常識のことです。時代が変わったというのは、その時代の人々の集合意識、常識が変わったということです。

例えば、その時代の常識に合わなければどんなに本来の事実であったり真実の事柄であってもそれは非常識として排斥されます。それは時代の常識が優先されるからです。今は、人々や集団がこうだと思っていたらそれに反対するというのは大変危険なことになるからです。それくらい、人間は自然や法則などに反して独善的に世の中を自分たちの思い通りに変化させていく生き物です。

なので時代という言い方をして、その時の人間の都合のよい形を保ちます。しかし、常識というものはある日突然変わっていくものです。不老不死の薬ができれば、それまでの常識は毀れます。他にも想像を絶するテクノロジーを持つ異星人などが到来してそれを享受されたりすればまたまた常識が変わります。他には、地球の気候がまるで地域別に逆転するようなことが起きれば常識が変わります。その都度、人間の価値観が変動し、時代が変わるのです。

時代が変わるということは、それだけ環境の影響を受けるということにほかなりません。

しかし時代が変わるけれど、変わらないものというものがります。それは真理や本質、根源や中心、本来あったもの、元来存在してきた普遍的な道などのことです。そして人間の原点なども変わりません。これは時代とは関係がないのです。しかし時代の常識の中では、それらは非常識になりますから厄介な問題になります。常識からみたら異物であり、異常なことだからです。

おかしな話ですが、時代と共に常識が変わり異物が増えますがそれを大事に細々と守っていたら巡り巡ってまた時代が来ます。時代は、元に戻る性質があるからです。複雑に進化して発展して繁栄しても、そのうち行き着いて戻るしかないのです。地球が円球なのと同じでどこに行っても最後は元の場所に回帰していきます。

だからこそ、今がどの時代であるかというのを見極め、その時代の常識の中でどう立ち振る舞っていくかが問われます。いわば、敵対せず二元論で正誤を分けず、味わうという境地の会得が求められるようにも思います。

心は正直ですからなかなかそうはいきません。修業は、慢心、用心、戒心の連続です。

道を歩んで、道に寄り添い、道を拓いて道に還る。

日々を慈しみながら歩んでいきたいと思います。