きみたちはどう生きるのか

情報化社会で世界中のあらゆる場所の出来事が、日々にアップロードされていきます。特に、もっとも影響のある国家間の均衡などは自分の国を中心に情報が集められます。私たちは、そこからどの国家連合に所属しているのか。どのようなメリットを分け合っているのか。何がもっともデメリットで危険なのかも推察できます。

誰に聞かなくても、大局的に観たら世界の覇権をかけてそれぞれの地域で虎視眈々と経済戦争を含め、現実的な武力闘争まで行われています。

振り返ってみると、その範囲が現在は世界を巻き込む広さになっているだけで小さな地域での出来事が発展しているだけです。尊重しあわない、譲り合わない、和の精神とは程遠いことをそれぞれの場所で行います。例えば、平安時代や戦国時代などはどうだったか想像してみます。

今のように情報が往来せず、範囲も限られていましたから山の向こうで起きたことを一喜一憂しながら準備したのでしょう。あるいは、どこか遠くの場所から突然やってくる脅威に備えたのでしょう。

生き物は、もともと自分の与えられた範囲というものがあるように思います。縄張りともいいますが、その縄張りのなかで食べて生きて子孫を残します。自然界も、日々にその縄張り争いというものを繰り返しています。個体数が増えると、それだけ縄張りの奪い合いもありますから大変です。

広い地球ですが、縄張りでみるとそんなに広くありません。自分勝手に縄張りを広げて強奪するのか、あるいはお互いに折り合いをつけて共生をするのか。それはどちらも意志で選択できます。それを繰り返してきた歴史で、私たちはその経験から学んだ知恵をたくさん持っています。

それを活かせるかどうかは、歴史に学ぶかということです。

結局、縄張り争いでお互いが滅ぶほどの兵器を使ってしまえば縄張り自体が崩壊してしまいます。そのとき、縄張り争いは終了するのでしょう。人類は、一体何がしたかったのかと、生き残った人たちが途方に暮れて歴史に学ぶのです。

つまり真の意味で歴史に学ぶというのは、机上の教科書の歴史ではなく実際に実体験して結果がそうなっているときにこそ学ぶということになっています。現実に発生した実体験から、過去の歴史を学ぶのです。それでもまた同じことをやってしまう。これはある意味で歴史を学んでいるともいえます。

大事なのは、その学んでいる最中にどのように判断し決断していくか、その瞬間瞬間こそが歴史ですからそれを知恵で選択するときにこそ役にたつ学問になるように思います。

いま、まさに真っただ中の歴史においてこの瞬間に歴史の知恵から判断できるリーダーが必要です。子孫のためにも、どのような生き方が必要か、どう生きるのか、それぞれが問われています。