石の魂

私はよく石を拾います。特に深く共感するものは、いつまでも持っていてあちこちに身に着けて旅をします。他にも旅の友はたくさんいて、貝であったり手帳であったり、お箸であったり、扇子、香りであったりもします。

私はもともとそこまで収集癖があるわけではありません。古民家甦生をしている関係で、古い道具たちなどを集めますから骨董屋のように思われますがむしろ集めるのは好きではありません。あまりに集めても、そのお手入れや配慮が必要なので持たないように気を付けて増やさないようにしているのです。

どうしても深いご縁があるものだけは、一生の責任を持つつもりでご縁を結びます。そうしているうちに、いくつかの大切なもの、そして仲間が増えていくのです。

もちろん、物も人もそれぞれのいのちがあり生き方もあります。最期まで一緒にいれるものもあれば、生きているうちに別の道へと歩んでいくものもあります。別れがきたとしても、大切にされた記憶とまた大切ないのちと結ばれてほしいといのります。

石の話に戻ります。

ネイティブインディアンに下記のような言葉が残っています。

『あなたはいつでも奇妙な形をした石のかたまりとか石ころとか化石とかを拾いあげながら、自分がこんなことをするのはそうするのが嬉しいからなどといっているが、実はそうではない。私にはよくわかる。あなたは、自分の中の奥深いところで石の力の存在に気がついているのだ。石の中に入っているスピリットの存在がわかっている。そうでなければ、そんなふうに石を拾い上げて、いとおしそうに触るようなまねなどしないだろう。』

これはとても共感します。奥深いところで存在をわかるというのは、岩や石、無機質のものは深いところに存在しています。表面上は、単なる固形物ですが深層には意志もあり個性もあり、そして魂もあります。

これはスピリチュアルな話ではなく、そのものに宿る力があるということです。お墓や石板、石碑などもですが深い願いや祈りや思いが宿ります。つまり魂の記憶装置こそが石なのです。

これは宇宙の隕石なども同様です。

だからこそ、その力を引き出すためにも自分の波動をととのえて、石と対話ができるような低周波を磨いていく必要があります。それは深夜の3時半ころの感性ともいってもいいし、禅僧の深い瞑想の時ともいってもいいかもしれません。

そのうち量子力学などで解明される日もくるかもしれませんが、私たちは表面を見すぎることでその奥深さを忘れてしまったのかもしれません。

子孫のためにも、私の感覚を可視化して体験できるように色々と工夫していこうと思います。宗教などではなく、暮らしの知恵として伝承していきたいと思います。