心の純度

人間には心があります。しかしその心がどうなっているのかを観察していると、心には純度というものがあることに気づきます。極端にいうと真心のままであるのか、心のように見えて実際には心無いことをしているのかというようにその人物が素直であるかとうかで心の純度は異なっているのです。

別の言い方に、純粋というものがあります。これもまた純度を表現する言葉で混じりけがないことや穢れのなさ、私利私欲や私心が入っていないなどともいいます。そもそも初心という言葉もあるように、人は最初は誰もが純粋な心のままです。赤ちゃんなども純粋です。

それが生きているうちに次第に計算高くなりあれこれと考えるようになります。考えているうちに打算や損得勘定や保身などあらゆるものが混じりこんできて次第に心が曇ってきます。心が曇っていることすらわからなくなってくると、あれこれと誰かの何かをする理由をいちいち考えては評価したり裏を読んだりと悧巧になってくるものです。

そうなると自然とは程遠い姿になり、不自然になっていきます。ある意味、文明というものはそういうものかもしれません。文明人になるというのは、心を誤魔化し利巧に生きていく術を手に入れた人ともいえます。

しかしそこから心の病というものが増えていきます。本心を誤魔化し、純度が失われていくと不自然が重なり病気になるのです。病気でも怖いものは、病気そのものであることがわからなくなることです。みんなが病気ならそれが健康だと思い違いするようなものです。

だからこそ最初の心をいつまでも失わないようにしていくことが大切になります。それが心の純度を保つことです。心はいつも目的に忠実です。何のために生きるのか、どう生きたいのかを常に忘れることはありません。忘れるのは、心ではない自分を生きているからです。

心は常に一心同体で離れずに自分と共にあります。純度が濁れば隠れてしまい、純度が磨かれていけばいつも表に出ています。真心の人たちはみんな心から行動し、そのあとに知識や知恵を活かします。それが文化人というものであり、伝承され続けてきた自然循環の叡智だと思います。

子々孫々のために、何を渡していけるのか。これは今の世代を生きる人たちに託された一世一代の大事業です。大事業こそ心の純度が求められます。

真摯に初心を忘れずに、歩みを強めていきたいと思います。