暮らしフルネスの場

音には波動というものがあります。正確には空気を振動しているのですが、ここには単に振動させるだけでなく何か別のものが合わさってきます。それを反響音とも言いますが、これもまた波動の重なりと響きです。

例えば、単に音を出すのと心を練って音を出すのは異なります。これは調理と同じで、マニュアル通りにつくるのと丹誠を籠めてつくるものとは異なります。それは何処に出るのか、調理なら味に出ます。舌先ではなく、心の味が伝わってきます。音であれば単に聞こえるのではなく、聴いています。これは感覚の方のセンサーで察知することができるという意味です。

そして場というものにもそういうものがあります。場にも心は宿ります。単に場所があるのではなく、その場にいくと心が落ち着いてくるのです。それは単に日々に忙殺されて業務をしているのではなく、場をつくる暮らしをしているのです。これが私の実践する暮らしフルネスです。

心で生きている人は、いつも心の方を観つめ感じています。頭で処理をするのをやめて、耳は心を傾け、目はあるものを観て、舌は余韻を味わい、風の薫りを感じ、手触りで物事を感受してご縁を結んでいます。人はこの感覚を使うとき、多幸感に包まれるものです。そして同時に深い感謝の気持ちがこみあげてくるのです。

この世にいて生きていると実感するのは、きっとこのような感覚を生きることです。それがなくなることを人は忙しいというのでしょう。今では忙しいことが当たり前、猛スピードで自転車操業することは普通のこと、時間がないことを自慢しあうような風潮のなかではその感覚はみんな失われていくように思います。

感覚というのは不思議で、感謝のように継続的に日々に磨いている人でないとセンサーが閉じていくように思います。閉じたものをたまに開けるではセンサーは磨かれません。

だからこそむかしの人たちは、日々の暮らしのなかでセンサーが鈍らないような工夫を凝らしていたように思います。私の言う、暮らしとはこのセンサーが働き続けていることをいいます。単に非日常のことや、道具をそろえたり、好きなことをやることをいうのではなく日々を磨き続ける実践のことです。

私の中で暮らしを通して当たり前を変えてからは、場がより磨かれてきたように思います。場道家として恥ずかしくないように、真摯に実践をして子どもたちに場を調え、場を譲り伝承していきたいと思います。