暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。

 

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

帰る場所

人は心が帰着する場所というものがあるように思います。それは安心する場所のことです。ある人にはそれは帰る家があるともいい、またある人は心の故郷と読んだりもします。帰るところがあることは仕合せなことです。人はそれぞれに安心できるところがあるかが重要です。それは仕合せであるかということと通じているからです。

例えば、生まれてきては親という存在があります。自分一人だけでは生きてはいけない存在で誕生し、どうしても親の助けが必要です。自分のいのちを守ってくれる存在に出会うことで私たちは安心を得ます。その安心は、偉大な信頼でもあり幸福でもあります。自分を守ってくれるという絶大的な安心です。これがあることで、私たちは多少不安なことがあっても心配があっても前進していこう、挑戦していこうという気持ちが湧いてきます。守られているということを実感するところが帰る場所ということでしょう。

そういう意味では、私には帰る場所がたくさんあります。気が付くと、私たちは安心の場所を求めては移動して心を守り育てています。私たちは安心の繰り返しで心身が成長していくのであり、見守られたことによって自他自己に対する偉大な信頼が醸成されていきます。一度きりの人生において、守られて生きたということの幸福や感謝はなにものにも代えがたいことです。

人が家族をつくり、仲間をつくり、助け合い、守り合うのはみんなにとっての大きな安心、帰る場所を創造しています。同時に、今まで守られたことを思い出す場所や、今も守ってくださっていると感じるご先祖様や、深い関係性を築いたお守りのような存在も帰る場所です。

帰る場所があることは仕合せです。

人の仕合せを増やすことは、安心基地をその人の心に増やすことです。私が取り組んできた半生はその帰る場所づくりだったのかもしれません。これからも人々の幸福、そして子どもたちの仕合せを創造していき自分がいただいた感謝を多くの方に光を伝承していきたいと思います。

いつもありがとうございます。

思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

カグヤの行事

カグヤでは、継続して行っている行事のようなものがたくさんあります。その一つに、初心会議や一円対話などがあります。これは私たちが、もっとも仕事をしていく上で大切にしていることを振り返る場の一つです。

この場の一つというのは、仕組みの一つという言い方もできます。つまりは、環境や習慣にすることで大切なことを忘れないようにすることや、私たちが日ごろから自然に協力して助け合う風土が醸成されるように配置された知恵のようなものです。

日本では古来より、生活文化の中でたくさんの知恵を配置してきました。その代表的なものの一つに日本家屋というものがあります。玄関にはじまり、床の間やおくどさん、箱庭や縁側、仏間があり奥の間もあります。その一つ一つの家のつくりはまさに見事に自然風土と一体になり、如何に知恵の結晶であるかがわかります。

その中で暮らしていく家族は、使っていく道具も知恵ですが行事がさらに相乗効果を高めています。つまりむかしの日本人の知恵の取り入れ方は、ごく自然に、もっとも大切なものを優先できるような場を用意されていたのです。

この仕組みを私はカグヤという会社に取り入れ、日本的経営を行ってきました。この日本的というのは、むかしの知恵を守る経営とも言いかえれます。老舗の日本の店舗や伝統的な会社が理念を大切にしているように、ごく自然に家の中が治まるための仕組みを行事で実践しているのです。

外から見ると、変な価値観がある会社や、真面目な会社、余裕がある会社とか色々といわれますが実際には日本の知恵を守り、社員家族の仕合せを優先するための大切な私たちの暮らしの実践なのです。

その御蔭で、私だけでなく社員、またお客様にいたるまで皆さんこの実践によって守られていきます。理念や初心を忘れないこと、そしてみんなで和合して調えあって働きやすい環境を優しく包んでいくこと。人は何のために働くのか、それは仕合せになるためです。仕合せをいつも確認し合える環境があること、その場そのものこそ仕合せであるというのが本来の知恵でしょう。

子どもたちには、長くて短い人生の中で上質な生き方、働き方をしてほしいと祈ります。その一つのモデルとして、自分たちが実践していくことが将来を豊かに、今を感謝にしていくことのように思います。

この取り組みの輪が広がっていくのを楽しみにしています。

全体快適と一円対話

世の中には、完全なる善人や悪人はいません。みんなその両方を持っています。なぜならある方向からみれば善でも別の方向から見たら悪になるからです。ただ、自分がされて嫌なことはしないとか、思いやりをもって接するとか、善であることを優先して心がけようというものがあります。自分だけが正しいと思い込むと、そうではないという正しさがまた出てくるものです。だからこそ、人は価値観の相違を超えて協力して助け合うとき有難い徳や恩恵がいただけるようにも思います。

自然というものも同じです。自然の変化である生き物たちは辛いことになっても、同時に別の生き物には有難い感謝になったりもします。自然は全体最適ですから、部分最適なことは循環しているなかでは些細なことです。人間の身体も同様に、意味のない臓器も活動していない細胞もなくすべては調和して内外で全体最適をしています。寒くなれば、それだけのことを活動して熱をつくり健康を守ります。

自分の視野をどのようにととのえるのか。この実践の中に逆転の発想や、禍転じて福にしていくような知恵があります。なので自然界ではほどほどがよく、足るを知るものがいいともいいます。しかし人生を色々と体験したい、味わいたいと思っている人は極端になり強欲になることもあります。どれもが完全ではないのです。不完全であるからこそ、全部を持っているからこそ全体快適を目指そうというものです。

私が一円対話で大切にしていることは、この全体快適です。森信三先生はこれを「最善観」ともいい、中村天風先生はこれを「絶対積極」ともいいました。つまりは、自然の中心と共に一体であれば善悪が消え一円のように丸くなるということです。

この丸くなるというのは、日本では「和」ともいいます。和とは、調和の和です。調和の調は、言葉を周るという字で形成されています。これは言葉に神経がゆきとどくという意味でもあります。物事というのは、なかなか全部にはゆきとどきません。しかし、みんなで和合して協力し助け合えばそれを補完しあうことができます。これが一円融合です。

みんながそうなるような「場」をどれだけ醸成してきたか、そこに自然の妙法や智慧があります。今は、個が歪んで歪な関係になりやすい場が増えています。今一度、場を調えることの大切さを子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

私の一つの使命ですから、これは復興、甦生の大事業の一つです。

同志や仲間と共に、世の中を明るく全体快適にしていきたいと思います。

創造主と一体

いのちというものの本体はどこかと探求していると、それは宇宙や創造しているものの主体と一体であることに気づきます。私たちが生きている、活かされているということは、何かしらの存在からそのように一体になって創造しているということだからです。

創造しているというのは、私たちの身体が無駄なものが一切なく働くように地球と一体になって生きていることと似ています。この自然界も、量子や素粒子といわれるような元氣もどこからやってくるのか。それは創造している存在と一体であるというのは間違いないことです。

日々の暮らしも、太陽を浴び、雨も降り、風が流れ、呼吸をする。そのすべては創造のなかで行われています。星の運行も、海の流れも山の循環も一つも常に創造を已みません。

その創造と一体になること、それに逆らわないようにすることで元氣は漲るという方がいました。それは中村天風さんです。私は若い頃、中国に留学していたとき毎日、この中村天風さんの本を読み、そこに書いている元氣の出る言葉の句を声を出して詠んでいた時期があります。自分というものの生き方を見つめた最初の機会だったかもしれません。

どのようなことがあっても、人は生き方は自分で決めることができます。これがまず主体であり積極性であり創造主と一体になっている意識です。その自己意識をどこまで磨き上げるか。それが人生の醍醐味であり、天命を拓く生き方であろうと思います。

思い返せば、今の私の生き方や仕事に大きな影響を与えてくれたのはこの積極思考というものでした。心の持ち方というものをどのように高めるか。それは味わうこと、そして受け容れて反省すること。そのうえで前に進むことというシンプルなものです。

人間は物事をそのままにしていたら転じて福になることはありません。よくよくその不安、怒り、恐れ、すべてを味わいじっくりと受け容れるからこそそれを成長や進化の養分に換えることができるのです。そしてそのこと自体を丸ごと天命だとしたとき、それは福に転じて運気をさらに高めます。真の自己に向かっていくのです。

創造主の存在と一体なるというのは、自分の状態を不自然ではないものにするということです。言い換えるのなら、自然というものの心と同じ状態のままであれば至上であるということです。今、此処を生きる禅にも通じ、一切空といったあるがままの姿に近づくことにも似ています。

暮らしをととのえるのは、生き方をととのえることです。

子どもたちにも、生き方という知恵が主体性や創造性を発揮させることを伝承するためにもまずは自らが絶対積極の実践を味わっていきたいと思います。

人生の味

人は病気になることで健康の有難みがよく深くわかります。人は何かを深くわかるために、その陰陽の二つを同時に折り畳みその中で混ざり合ったものから味を感じ取るものです。

本来、その両極のものは同質のものです。健康を深く味わいたければ病気の味を知り、病気を深く味わいたければ健康の味を知る。このように味というものはその両方を感じる中で複雑な妙味を感じるのです。

他にも年数というものがあります。経験もあります。時間をかけて何度も振り返ることで、その深い味わいの意味やその理由などがわかります。人生というものは、深く味わうなかで様々な体験を通して感覚と記憶を直観するためにあるのかもしれません。

コロナに感染して、臭いや味がなくなると今まで如何に臭いや味があったことが有難かったを知ります。食べ物がおいしいのは、もちろん体全体が調和して美味しいと感じるのですがその感覚が一つ、二つ失われるだけで味わえなくなります。この味わえなくなることの辛さは言葉にできないものでした。

以前、私がイギリスに留学しているとき親友からある言葉を教えてもらったことがあります。その中には、苦しみを避けて通るのではなく苦しみは味わうことができるというものがありました。いやだなと思うのではなく、その苦しみはどのような味かを感じることができるという選択肢があることで人はその苦労の味の深さを学びます。

苦労というものは、例えば人格を磨きます。そして愛を学びます、他には感謝ができます。それをさらに時間をかけて忍耐強く正対していたら、苦労の醍醐味というか得難い体験をさせていただいていることに気づくものです。

そうするととても逆説ですが、苦労は嫌だけれどもなぜか苦労をしたくなってくるというように味をしめてしまいます。苦労の味を知ってしまうと、わかっているはずなのに苦労をしたくなってしまうのです。

大変な方を選択したり、苦労する方を選択する、他にも自分にとって困難だと思えるような道を選んでいく。それはどのような味が体験できるのだろうかと、人生を味わう方を選択していくからです。

一人一人の人生はそれぞれに天命があります。どのような天命かは、その本人にしかわかりません。しかしその天命をどう玩味するか、妙味を味わい尽くすかはその人次第であります。

どんな意味があるのか、なぜこの時機なのか、そしてこの環境なのか、この出会いか、一つ一つを深く丁寧に味わうと善悪正否を問わず人間はいただいているご縁の味に触れて感動するのです。

味を学び、意味を知り、その人生の最幸の味付けをするのは自分次第です。

初心と原点、一期一会に触れながら日々を味わっていきたいと思います。

士魂の場

志というものや魂というものは受け継がれていくものです。自分というものだけではない存在、何か自分を超えたものの存在を感じることで私たちは志や魂というものを実感することができるように思います。

例えば、ご先祖様という存在があります。これは、今の私が産まれるまで生きてこられた存在ですがその先祖がどのような志で生きてきたか、どのような魂を持って歩んできたかは目には観えなくても自分たちの心や精神のなかで生き続けて宿っているものです。不思議なことですが、長い時間をかけて先人の生き方を尊重し子孫がその遺言や生き方を受け継ぎ、さらなる子孫へと譲渡していく。その生き方こそが志や魂にまで昇華されてご先祖様と一緒に今も生きているのです。

他にも考えてみると、志を生きた人や魂を磨き切って歩んだ方との出会いは自分の人生を導いてくれているものです。道を教えていただき、道を実践するようになったのもまたその志や魂に触れたからです。そういう先輩や先人、仲間や同志に触れることで志や魂はまた多くの方々に受け継がれていきます。

この志や魂は自分のものですが自分のものではありません。何か偉大なもの、繋がって存在しているものです。そういうものを実感することで自分の中にもあり自分のものではないものと結ばれ一つになります。

離れていても、身が滅んでいても、この世に存在していないようでも意識をすれば目に見えないところで一緒に歩んでくれているのを実感するものです。

徳は孤ならず必ず隣有りというのは、この志や魂のことをいうように思います。自分に与えられた場所、そして境遇で如何に平時から志を立て、魂を磨く実践に取り組むか。

毎日、一期一会に出会い続ける士魂に勇気や愛を感じるものです。

子孫たちにさらに精進したものを譲渡せるように、日々を大切に過ごしていきたいと思います。

野性との共生

池の周囲には大量の白鷺(シラサギ)が飛来してきています。この白鷺は、夏は田んぼでよくみかけ川の畔にはアオサギなどをよく見かけます。結構、印象深い野鳥ですが当たり前すぎて気に掛けることも減っています。

むかしの日本は、これに鶴などの野鳥がたくさんいたのでしょう。鶴はもともと江戸時代までは北海道から関東地方でも見られたようです。しかし明治時代になると乱獲され、さらに生息地である湿原の開発により激減して今では絶滅したといわれます。葦などの湿原が多くあった日本の土地も、今ではほとんど失われています。

まだ白鷺などの方は、田んぼやサギ山といった林や森があるので生息地が確保されています。野生動物たちの生きる場所や生活の範囲を奪うと、生きものたちは行き場を失っていきます。

むかしの人たちは、敢えて杜をつくり生き物たちが生息できるような境界をもうけて見守り合っていました。自然というものをみんなで分かち合い生きることに真の豊かさを感じていました。生き物が次第に減っていく姿をみていたら、本当の貧しさとは何だろうかと向き合うことに気づけるようにも思います。

現在、鳥類の8種に1種が絶滅危惧になっているといいます。そのうち、ツバメやスズメも絶滅するのではないかといわれています。日本はこの150年で3分の2以上の野鳥が絶滅及び減少しました。

鳥が減っている理由には様々ですが、人間が原因であることは間違いありません。人間の生活が、ほとんど野生の生き物を無視しているところに起因しています。都会の人間だけの生活に憧れ人間以外を無視してきた生活が田舎の隅々にまで広がっていきます。

実際には鳥の鳴き声で癒され、魚や虫たちの多様性に花も実も支えられている私たちがそういうものを無視して排除してきたことで生き物は減りました。一度、絶滅してしまった生き物は復活することはなく永遠にそこで失われます。

あと100年後の日本、及び世界はどうなっているのか。子どもたちが未来に生きるとき、その時、野鳥をはじめ野生の生き物たちはあとどれくらい残っているのか。心配になります。

子どもたちの未来を思うと、まだ今の世代の責任を果たすチャンスがあります。身近な小さな一歩からでも、野性との共生をはじめて伝承していきたいと思います。