正しいよりも楽しいを

人は対話をしていくのに正義というもののぶつかり合いによって対話ができなくなっていくことがあるように思います。この正義というのは、正義か悪かと二極思考に陥ることで勝ち負けになっていくからのように思います。世間では、よく両方勝つというようにウィンウィンを目指して交渉する人もいます。これも勝ち負けや二極思考にならないような工夫の一つのように思います。

結局、自分の正義を押し付けると相手の正義は受け入れないという発想になることで争いはなくなりません。特に日本の社会、いや世界は多数派が正義だと思い込まされているものです。あるいは絶対的な権力者や伝統の権威者が正義と決められていたりもします。その価値観の中の正義においては、既得権益が正義でそれ以外は悪だとも断罪されるものです。

そこにいちいち立ち向かっていても力の差がありますし、守っているものが異なりますからより強固に頑なに正義を振りかざしてきては最後には悲惨な戦争にまで行き着くものです。

しかし歴史をよく観察すると、これは何度も発生していることでそれを何とかしようと時代時代の為政者たちが努力して取り組んできたことでもあります。

日本は、和を以って尊しとなすという和合という理念を持ち歴史的な出来事においてその理念が何度も活躍してきました。唯一絶対という存在よりも、八百万の神々というように全てを受容し共存共栄する道を模索してきました。どの存在にも徳があり、その徳を活かしあう世の中にしていこうと対話を諦めずに場を創造してきたのです。

正義は、正しいかどうかであり楽しいかどうかは関係はありません。しかし和は、楽しいかどうかが大切で調和することを優先していきます。つまりお互いに譲り合って仲よくできないかという仕組みを円くなって考えてきたのです。

どちらかが正しいかの証明ではなく、相手の言い分にもよく耳を傾けて心で聴きそれも一理あると道理として受け容れるのです。その上で、どこが折り合いなのかをお互いの心に尋ねて問い続けます。

どうしようもない時代もあり、価値観もあり悲しい出来事や理不尽なこともたくさんあったように思います。時が流れ、その事実はのちの人たちが冷静に鑑照らし真実を見極める材料にもなり成長の糧にもなります。

子どもたちの未来を鑑みて今を生き切る以上、長い目で観て楽しいかどうかを選べるような選択をしていきたいと思うのものです。

聴福人の実践を積み上げていきたいと思います。