意思の尊重

人は自分がどうしたいのかというのを、尊重してもらいたいという欲求がある。人間が自立して人格を発揮するには、自分が納得するまで本質を突き詰め、その自分の選択した理由を正しく周囲の理解と同意の上、大人としての正しいやり方で進めることで皆と共生し自立し人々と調和して行くことが必要になる。

今の世は、自分の意思が誰かに押さえつけられどうせ通らないと最初から諦めている人が多く自分が納得もしないまま働いている人もたくさんいる。これは学校をはじめ、今までずっと周囲に自分の意思を尊重されなかったので不貞腐れたり、もしくは何かしらの社会のルールの中でどうせ自分なんてと絶望をしたからでもあろうとも私は思う。

しかし、人間はどんな状況であれ、それはたとえ死の瞬間の選択であれ、自分の人生は最期は自分で決めたいという人間の根柢にある人権尊重の意思が存在する。どのように生きるのか、どのように生きたいかというのは、そこに貧富の差もなければ男女の差もなく、年齢の差もない、これは自分の内面を深めてもよく分かるけれど自分を尊重したいという切なる願望は、全ての人間が生まれながらに持つ人権尊重の願望でありそれは誰にも力技で抑え込むことはできないものだ。

それが自分の意思というものだ。

言論の自由も、思想の自由も、すべては自分というものを尊重されたいという人々の根源的な欲求を保障するうえで生まれたものだ。

ただ、巷を見てみるといざ自由にしていいと何も指示もせず自分の意思でやりなさいといって自由な環境を用意しても、今まで散々他人の命令に従い、自分で人格や品格を堅持するよりも言われたことをただやればいいだけだからと妥協をして生きてきた人は逆にそういう見守られた中で急には何もすることができない。

どのように周囲の理解を得て、どのように自分が納得し、どのような決心で何をやればいいのかなどを考えたことがないので何もできなくなったり、もしくは好き勝手やればいいのだと周囲に多大な迷惑をかけてしまったりして身動きができなくなってしまう。

どんなことも社会の中でで生きていくには自ら自覚し新人のような心づもりで最初から学び直す必要がある。いくら年数働いたからといっても、自分の意思を尊重される会社で働いたことがない以上それは新入社員といっても過言ではないからでもある。

子どもでも、最初はどうやればいいか自分が選択したことが納得できるものかを確かめつつ次第に自由というものを学び、次第に責任や自立というものを学んでいくもの。

社会人であれば最初に学ぶべきは、何のために働くのか、自分はどうしたいのか、そしてどのようにすることが最も全体のためになるのかというような、自分を尊重し人権が保障された社会で自分を活かすための方法を学んでいくのだと思う。

見守られた環境というのは、自分の意思が尊重されている環境を言う。

異なる言い方をすれば、それは自分で選択する自由を与えられているということだ。普通は、自分の選択肢は与えられるものであり自分から選択するものではないというのが今の画一化された社会であろうけれど、私たちのような会社はそうではなく最初から選択することができるようにしている。

どのように生きるのか、なぜ働くのか、これをやる理由はなど全部、本人の意思が尊重されているということは、自分で考え抜き自分で選択し自分で決心し責任を持つというプロセスを必ず通らなければ何もできないということでもある。

そういうことを考えもせず、行動すれば「なぜかいつもうまくいかないんだよね」など最初から本質を確認することもしないから選択もできず、納得もしていないのに「言われたからね」と動くからいつも結果が悪い影響を与えるものになるのであろうと私は思う。

自分のことをここまで大事にしてくれている環境というものが存在することに気づくまでは分からないことなのであろうとも思う。自分を尊重されるという幸福は何よりも代えがたいものであり、選択権を持つというのは自分で自分の人生を決められるという自由を得たということだ。

しかしそうはいっても今まで散々、誰かに意思をつぶされた記憶がある人は人を容易には信じない。それは、見守られていると本人が感じる力が弱いからでもある。

自分が好きに生きていい、自分の意思を貫いていればそれでいい、自分が決めたんだからそれでやりなさいというような、相手の決断を尊重することが私は人間が自分の意思で自立するにはとても大事なことだと思っている。

人は自分を尊重するように他人のことを尊重しなければ互いを信じ合い認め合い尊敬しあうこともできない。その人の意思は何よりも大切なその人の生き方であり、その人の意思こそ、その人である理由なのだからそれを大切にしていることは何よりも私は大事なことだと思っている。

子ども達には、自分の意思で選択し、納得のいく人生を歩んでほしいと願う。

大人が何かいっても、誰かがなにかいっても、最終的には自分が選択するということで自分の人生を切り開き、自分の人生を受け容れ、自分の人生の流れに身をゆだね、自然に溶け込むような生き方を選んでほしいと願う。

まだまだ示すべき手本はたくさんあることにテーマを持ち実践できることに感謝します。

心と体、姿勢と態度

人は心の姿勢を正すことで態度が変わってくる。また態度が変わってくると心の姿勢が変わってくる。どちらにしてもテクニックではできることではなく、思うだけではなく行動に移さなければ何も変わりはしない。

例えば、他人のお役に立とうとし掃除をしようと思うようにする。その際に、いくらそう思っていても具体的な行動に移さなければお役に立てることもない。もしもお役に立ちたいのなら、具体的に毎朝のゴミ拾いや後片付けなどを繰り返し実践してその態度で示していかなければ心はそれをやろうとする姿勢でいられないということになる。

この心と態度というのは、とても密接なもので人はテクニックでそれを補おうとするのは知識ばかりで楽をしようと思う怠けた心がそうするのであり、心が正しく立っている人は決して誰が見ていようがいまいがサボろうとはせずきちんと取り組むことができる。

会社での内省というものがあるけれど、ぱっぱぱっぱとチェックを入れて適当に日時までに終わればいいやという心の姿勢と態度でやる人はやはり怠け心で生きている人である。そういう心の姿勢と態度で一度でもやるならば、悪い方へ積みあがり結果や成果に出てきていつも何だか悪い影響ばかりを与えるようになってしまう。

その逆に誰が見ていようが見ていまいが忙しかろうがそうでなかろうがきちんと内省し、その態度と行動や心の姿勢が誤ったものでなかったかと思いながらやる人は長い時間をかけて一つ一つじっくりと丁寧に取り組み、その善い心の姿勢と態度が次第に積み上がり、結果や成果が表れるときにはまったく前者とは異なった周囲へ善い影響を与えるような素晴らしいものになっているものだ。

つまり誰かが見ているか見ていないかでいちいち行動や態度を変える人というのはいつまでたっても心の姿勢や態度を変えることはできないように、心が自分である以上、その自分自身の心を自分で管理していくことは永遠にできないというものだ。

自分自身を変えたい変えようと思う際、まずどこからはじめるかというと外側だけを取り繕おうとする怠け心でやろうとはせず、素直にその心の姿勢と態度からであることが最優先だというのは以上のことからもわかると思う。

天が見ているとし、いつも自分の心が見ていると思えば、常にその姿勢や態度で自分を自分で知ることができるのだからすぐに変えるべきなのはどこかは誰が教えなくても自分でわかるものだ。

だからこそ、日々の自分の姿勢と態度は常に自ら戒めいつも自分自身をマネジメントし自分に怠け心が出ないように謙虚に素直に自他を尊重する具体的な姿勢と態度の実践が何より自分を世界へ順応させ善い影響を与え貢献できるような適合し生き活かされるということになる。

今の時代は、すぐに知識でわかればそれでいいとしその場しのぎのテクニックで乗り切ってしまおうとする刹那的で軽く浅い認識でなんとなく表面上の繋がりばかりを維持しようとしている人がとても多い。事なかれ主義というか、面倒くさいと思っているのだろうけれどそういう人との心の繋がりに楽をすれば、因果の法則に沿ってそのしっぺい返しは必ず人を介して増大して戻ってくるものだ。

人は自分を粗末にしていては、他人から粗末にされるし、自分を自分で尊重できない人では、他人を尊重することはできない。そして何のため生きるのかと考えきれば、当然、人は心と心を通じ合わせ、体と体を寄り添わせ、ともに持ち味を活かし合い生きていくことは私たちがこの地球の生命の一部として普遍的にいるための生きる知恵でもありそれが自分らしく生きるための道でもある。

だからこそまず人としてもっとも大切な深い絆や繋がりを重んじた関係を構築していくことを、「より強く意識し実践すること」は今の時代にとても重要になっているのだと私は思っている。

教えない教育や、教え込まない教育、詰め込まない教育、これはつまりは、以心伝心や一期一会といった心と体で共に学び合っていくというお互いが発しながら育っていくような協働の体験ができるような学びの環境が今は特に必要なのだと私は思う。

親子であっても上司部下であっても、友人であっても師弟であっても、大事なのはまず互いの心の姿勢と態度から変えていくようにと示していきたい。

素直で謙虚であることが、純粋な心でそのままあるがままに心を感受することとし、そうした心を通じ合わせて暗黙知を分け合い、真理やコツなどを以心伝心を通じて受け継いでいくものとし、いつも生身の心の姿勢と態度を戒めていこうと思う。

納得と責任

身近な学校教育の弊害に、一斉画一に言うことを聞かせて何かをやらせるというものがある。一つの価値観で人を抑え込もうとすれば、当然反発はある。その反発を抑えるためにいじめを遣ったり、恐怖や圧力をかけようとするのは軍隊を観ていてもよく分かる。

人にはそれぞれ意志というものがある。それは自分がどうしたいのかと十分に考える時間が必要であり、それで納得ができるようにならなければ当然自発的に主体的に自らが責任を持って取り組もうとはしない。

勉強でもそうだけれど、最初から本質的になぜ学ぶのかやなぜ学校に行くのかなどを考え抜いて登校するのとしないのとではその学びの成果に差がついてくるのもよく分かる。

もちろん人には向き不向きもあるので、記憶が得意や、手先が器用などの能力差があったとしても納得をしているかどうかというのはまた別物であると私は思っている。

社会人になり、この自分で納得しているかどうかということを自分で考える力がある人が年々減ってきているようにも感じる。それに責任というものを考えるとき、自ら主体的にどうしたいかということを考え抜かず、ただ指示待ちをし如何に言われたことを必死にやろうかということばかりに躍起になっている人もいる。

人は、納得しているかどうかというのはとても大事なことで本当は何か、本質はどうなのかとまず自分で考え抜かなければ納得するということはない。人がなぜ働くのか、仕事とは何かということもそうだけれど、そういうあたり前のことを考え抜かずに、すぐに動くことばかりに頭がいくのは今までずっとそうやって指示待ち人間で受け身に言われたことをやることばかりで生きてきたから責任を取ることや任されるということが分からなくなるのだろうと思う。

昔、私の通った学校でも子ども達に責任を取らせようとはせずいつも過保護過干渉に学校のルールを押し付けそれを守るようにと教えられてきた。

それを破れば問題児で不良として、別の扱いをうけ、それを守り学校の望んだ生徒であれば優秀な人物として特別の扱いをしていた。進学率や偏差値というものでその人が立派がどうかなどを判断するてらいをもあった。

いざ、社会はどうかというとそれぞれの場所やそれぞれの組織で自分の強みを活かし、自分らしく生きていくことで、善い影響を与え周囲を幸せに導ける人物が活躍していくような環境がある。

その中で、そういう自立した人物はやはりまず自分が納得いくまで考え抜き、自分なりの答えを持ち、自分から事物に参画するという強い意志を持っているものだ。優秀かどうかというよりも、優等生かどうかというよりも、自分はどうあるべきか、自分は何の責任を担っているのかということを正しく考えて行動していくことができるかどうかが大切になっている。

そういうことをしない人は、いつまでも仕事が自分勝手であり納得してもいないから好き勝手に自分流で周囲を混乱させ、会社の将来や、お客様の未来、自社商品やサービスに自分が責任を持とうとしないから単に個人主義の傭兵部隊のようになっていくのだろうと思う。

学校も同じく、そこまで責任を持って学校に来ていた生徒は何人いただろうか?

それぞれが誤った個人主義を教え込まれ、自分さえよければいいという考えでは、責任ということの素晴らしい価値や、生きがいや遣り甲斐、周囲を活かし活かされるという繫がりの中での幸福感や貢献の心など、何も気づくことはないのではないか。

今は、裕福でお金さえあれば何でもできると勘違いし、一人で生きた方が楽ちんだからとあまり人との影響を考えない人が増えている。だからこそ、みんなが同意し、みんなが納得するために、一人一人がちゃんと考え抜き納得し、参画し責任を持つという対話をしていくことを大事にしていきたい。

子ども達にも、一円対話を通して、他人のせいにはしない、自分本位に好き勝手して迷惑をかけないなどという、天地自然の当然の原理を学べる機会を用意していきたいと思う。

人が人を尊重し、認め合い、豊かに信じ合う組織を創造していきたい。

心の友

昨日、韓国の友人が久々に訪ねてきたので会社のクルーと一緒に会食と節分行事を楽しむことができた。アジア圏の国々の人々は、同じような文化や似たような価値観がありすぐに気持ちを溶け込ませていくことができる。

そう考えると、見た目が似ているというだけではなく長い歴史の中でお互いが文化交流したことの積み上げに自分たちが存在していることを思うと、私たちがこの先のためにも築き上げていく良好な関係とは、そういったお互いを大切に認め合う中にこそ存在しているのだと改めて感じることができる。

昨日、会食の中でもう15年前からのご縁でいつまでも友人としての絆が深まっていくのを他のクルーからなぜなのかと質問を韓国人にしていたのがとても印象的だった。

その際その友人は、「私たちは違う国民、違う仕事、違う年齢です、同じところは少しもない。しかし、以前、留学していた際、一緒に暮らしたことがある。そこでお互いの生活体験を通して絆ができた。彼は最高の人です。」と言っていた。

私は、人が人と本心から付き合うのにお互いの心をあるがままにさらけ出して葛藤したり摩擦することを大切な心の通じ合いだと思っている。同体験や同生活を通してみると、お互いの価値観の相違やお互いの個性など見なくてもよかったところまではっきりと顕われてくる。

そのお互いの違いを乗り越えてでも、さらに大きなものを掴み取っていくというのはそういうものを越えた信頼・友情・尊敬などといったものがはっきりとその葛藤や摩擦の中で浮き上がってくるからだろうとも思う。

お互いがそういった同体験を通じて、何よりも自分が大切にしていることをわかり合えば距離が離れても、時間が過ぎても、いつも変わらずにある真心を実感しいつでも昔のように語り合うことができるのであろうと私は思う。

古い友人とは、そういう心の絆をいつまでも暖めあうことができる人のことを言う。不器用なまでに人は人との関係をうまく築けず、それぞれに葛藤があり新しい絆を紡いでいくものでもある。

相手を大切にしたいという思いや、相手が大切に思ってくれていると実感している思いこそ、目には見えないけれど確かに心の中にある友情の証であると思う。

尊重し合い、認め合い、信じ合う。

これからも友人とは、そういう関係を末永く築いていければと思っている。

今は、他人との付き合いに本音や本心をさらけ出そうとする人はとても少ない。お酒の席や、何か偏った場合だけを使ってちょっと小出しにするような人との繫がりに臆病になっている人もたくさんいる。裕福な時代だからこそ、不足することがなくなりいつも満たされることで些末な不平不安ばかりに囚われて本気で生きようとしなくなるのは残念なことだ。

だからこそ、常に本気で生きることや、覚悟を持って歩むことや、他人との関わりに本心で通わせ合うというような人間味のある自分を強く持っていたい。人に熱いだの、真剣すぎるだの言われても、それが生涯の友や真の友との一期一会の絆になることを信じてこれからも自分らしくいようと思う。

どんなに外界でのものはなくなり、すべてを失ったとしても、失わないものがある。それが愛や友情、そして絆なのだと何よりも普遍的に大切に昔からあるものをいつまでも感じている心を基盤に人生を謳歌していきたい。

心の友とは、そういういつまでも変わらない心をもって友としていきたい。

感謝。

養分

植物は大地をはじめ、空や水など自然の環境から養分を呼吸し生きている。木々一つ一つも大地に根を張り、そこから様々なものを吸収して生きている。時に、干ばつのこともあれば、時には、湿潤なときもある。

環境がどうであれ、自らの生きる力と意志で自立し生きることを当然にしているから循環の中で命の光を世代を超えて紡ぎ合わせていくのだろうと思う。

しかしそうやって命を輝かせて生きている植物にも、根腐れというものがある。

なぜ根腐れをするかというとこれは一見、水の量が原因のように見ているけれど実際はそうではない。どんなに水が少量であれ、根がそれを一切吸おうとしなければそれで充分水がじゃぶじゃぶと足りているということになる。

逆にどれだけ水がじゃぶじゃぶあっても根がしっかりと吸い上げていけば根が腐るということはない。受け身にならずに、いつも自分の根で自分で水や養分を吸い上げていこうとする意志があれば次第に自立していくものだ。

人間でも、同じくこの根腐れに似たものがある。

今のような豊かな時代、恵まれているこの環境を活かそうとすれば実はいくらでも自由に活かすことができる。いつも満たされた中で生きていれば、不足するということがない。そうするとわざと不足するために、無駄な時間を過ごしたり、わざと無理をしなくてはいけないように努力を怠りサボることがある。

不足するものをいくら思っていても、それは実際はあってもなくても別にどうでもいいものであり生きていけはするのだからあまり実は本人が考える程の大問題ではない。

人間は、さらにそれに過保護過干渉の環境があればあっという間に性根を腐らせていくこともできる。

これはある意味ビニールハウス栽培のように、一定のことが保障された環境下では自らの生きる力があまり出てこないように温室で育てられれば見た目は大きくなっても食べるとあまり美味しく感じなかったりすぐに弱るようなものになるのと似ている。

野生しているものは、寒暖の差があり、虫がたかったり、伝染病が流行ったりもする、風も吹けば、色々な災難が降り注ぐこともある。しかし、それをものともせず立派に自分の代々受け継がれた自分の役割を立派に果たしていくのだろうと思う。

人間はどんな種を持ち、生まれてくるかは人次第でもある。

しかし、それをどのような環境下で育ち、どのような意志で生きるかでどのような花をつけどのような実をつけるのかは変わってくる。

自分の種を自分でしっかりと伸ばそうとする心に、自分の生きざまや自分の生き方というものを照らして自分のもっとも強みを見出し活かし、自分らしく真摯にいるところに命の輝きを感じることができるもの。

命の輝きを感じるとは、自分の力で生きようとする力、好きなことで伸びようとする力を自分が感じて生きていることを言う。それを感じない生き方をすれば、すぐに性根が腐りすぐに養分を吸収する力が失われていくものであろうと思う。

人は、自分で決めたことだけで自分で生きるもの。

いつも誰かのせいや、いつも自分の人生を他人のせいにして、自分は不幸だと自分を憐れんでいてはせっかくの生育も素直でなくなりその性根そのものが不貞腐れていくから気を付けないといけないと思う。

今の時代は、裕福でなんでも物に満たされているからこそ自分から積極的な人生を生きようとはしなくなっている人がとても多い。だからこそ、消極的で済むからと逃げずいつも自分を叱咤激励してもっと自分を自分でマネジメントする生き方をしていくことが子どものモデルにもなっていくのだと思う。

長い時間、受け身で流されている生き方はその人本来の生きる力も枯渇させていくもの。もっと、主体的に感じて動く生き方をすることを大事にしていくことを伝えていくようにしたい。

養分をしっかり吸い上げ、自分にしか咲かない花を立派に咲かせるような大人のモデルを示していきたい。

プライドの定義

自尊心というのは、プライドともいう。プライドにはその他に、誇りを言うときに使うものとある。どちらもプライドというものだけれど、善いことを言うときと悪いことを言うときがある。

よくプライドが高い人というのを見かけるけれど、実力が伴わない人であることが多くそういう人が自分の自尊心が傷つきたくないからと他人にそれをばれないようにといつも傲慢ににしていることがある。

よくそういう人は何かを指摘をすると、すぐに不貞腐れる態度を取る。それにいつまでも自分は頑固に変えたくないため、全部他人のせいにする準備を済ませていて結果に対しても善きも悪くも責任は一切取ろうともしない。取り方すらよく知らない場合もある。

厚顔無恥という言葉通りもうそこまでになってくると表情一つ変えずに他人の迷惑になることを平気でできるようになる。そうなってしまうと、自覚したり気づいたりすることもなく、そういう日頃の素直でない捻くれた態度があるから次第に誰も助言もしてもくれずより悪循環になっていく。そうなると、甘えられる人を必死に探すか孤立して好き勝手にやるかしか選択肢がなくなってくる。どちらにしても迷惑な話である。

素直ではない人に素直になれというのは、至難の業であるし他人の話を聴こうとしない人に人の話はちゃんと聴いてほしいと頼むというのも難しいのだから、黙って相手の大変さに共感し、思いやりをもって素直になってもらうように諭していくしかない。

この逆で、誇りで使われるプライドというものがある。

これは今まで自分が生き方として大事にしてきた、信念、哲学や思想といった生きざまとして一切妥協してこなかった大切にしているものを持っているということでもある。

こういうものはプライドが高いや低いなどということはいわず、絶対的に一番大事にしているものをいつまでも守り続ける勇気と素直な実践がこの今まで歪まずに真っ直ぐに正直に貫いてきたことを意味している。

こういう人は、芯が志が立っていてとても信頼できる。

守るもののない人は、すぐに相手にあわせてコロコロと態度を変えるし、状況次第ではいつも逃げ出すか怒りだすか放り投げてしまうようなことをする。逆に守るものがある人は、決して最期まで逃げないし、いつも向き合っているし、責任を持ってやり遂げる。生き方だからどちらも自覚はないのだろうけれど、周囲の評価は明確なのだから周囲に素直に聴けば自分がどちらなのかはすぐに分かるだろうと思う。

この差はいったい何なのかというと前者は守るものがない人であり後者は守るものがある人のことを言う。もっと異なる言い方をすれば、前者は自分だけを守ろうとしている人であり後者は自分よりも大切なものを守ろうとする人のことを言う。

よく仕事をしていると、自分の身を守るために平気で嘘をついたり平気で他人のせいにしたり平気で無責任になったりとすべて自分を守るために周囲の環境も関係性も利用している人もいる。こういう人は、周囲に甘えても迷惑をかけていても自分自身だけは守れているのだからそれでもいいのだろう。

しかしこれとは逆に誇りを持って働く人は周囲に誠実であり、嘘はつかず、全ては自分の責任だとし受け止め、いつも自分のだけではなく皆の大切なものまですべてを自分が守るために労を疎まづ努力精進する人がいる。こういう人は、周囲を活かしピンチをもチャンスに変えていく力がある。

同じプライドと呼んだとしても、これだけ異なればもうこれは同じ言葉の定義ではないのはすぐに分かる。

変われるや変われないという議論を前に、本気で変わる気があるかどうかはその人の傲慢さを観ればすぐに分かる。それに、素直であるかそうではないか、プライドを聴けばそれもすぐに分かる。

もっとも大切なもののために生きる人は、大義のために自分を使うことができる忠義の人物。それぞれが大事なものを持っているというのは、最高のチームワークを引き出すための一つの基準でもあるように思う。

ミッションに妥協しない人は、いつの日か必ず辿り着く人だと私は信じている。そういう人に寄り添い、見守りつつ、私自身も何よりも大切にしているものを守るためにより優しさと強さを磨き歩んでいこうと思う。

大変な人たちが一杯いる今のような時代、いつまでも鏡に映る自分をも偽り騙すのではなく、「謙虚と素直」という両輪で生きていくことを私から示していこうと思う。

甘え

仕事は、なんとなくというような情緒的でやっていてはプロフェッショナルとしての一流の仕事にはなりはしないのは誰もがわかるところであると思う。

よく仕事に甘えているといわれる人がいる。

これは、どういうことかというと結果に対して甘い気持ちで取り組んでいることをいい、無責任であることを言う。

スポーツで言えば、アマチュアであれば自分のプレーや試合の結果、プロセスなど責任を持たないから、できなければできないでいいし、やれればやれたでいいというような曖昧なままでも誰も責めない暗黙のルールの中で刹那的に日々を一喜一憂している大学のサークル活動のようなものでいい。

だからそういう組織は、報告連絡相談確認もなければルールも優しく、時間も厳守ではないし、期限もない、さらには自分のことだけ一応問題がないというところを維持すればチームに対して貢献しているよと思っているのでそれでいい、つまりは甘えの主は「まあこの辺でいいか」というあれである。

プロフェッショナルはとてもそうはいかない。

スポーツで言えば、プロの世界とは結果責任を確実に持つことは当然であり、その結果だけではなくプロセスで人を感動させたり、チーム皆を鼓舞するようなリーダーシップを発揮したり、さらにはより完璧を目指してこれでもかとギリギリの厳格な自己管理を持って微細な仕事にまで全力を惜しまず徹底するようなもの。

だからそういうプロフェッショナルが集まる組織は、日々の業務のメリハリがはっきりしており、小さなミスも許さない緊張感がみなぎっている。議論は常に真剣勝負であり、全員が自分のすべての能力を発揮してチームの成長や貢献を真摯に考え抜き行動している、プロは常に自分に厳しいということ。ここでの厳しい主は「まだまだ高めていける」というあれである。

人は本来、本気で真剣であるときだけ自分の持って生まれた真の能力を発揮することができる。これは別に、身体を壊すほど頑張ったことをいうのではなく緊張しすぎていることをいうのではない。本気真剣であるとは、没頭するほどに徹底して強烈な意志の力で向上心を持ち仕事を科学し、より高みを目指すためにさらに自分をどう磨けがいいか、さらにこの仕事をどう効果的に仕上げればいいかに、周囲の顔色や周囲のレベルにあわせるのではなく、世界最高のレベルで仕事をしようと心に決めることをいう。

今の時代は、善い仕事をすることくらいは当たり前であり、その上に何の自分らしさを乗っけられるかが本質的な個性を表現するということになる。

それぞれが自分の個性も出せないくらい、レベルの低い仕事をしていたらいつも抜けを正され、いつも弱いところを指摘され、いつも何をやっているかよく分からない、これはどういうものかみんなよく知らないなどと甘えたことをやっていたら、一流のプロの仕事とはいえない。

甘えはすべて捨て去れることが、プロフェッショナルの入り口である。

それは、どんな些細なことでも決して言い訳をしないことをいう。

プロは、言い訳をしないからこそ徹底してこれでもかと資料を見直し、これでもかとプロセスを振り返り、これでもかというくらい勉強し、仕事を科学する。それを芸術の域まで高めているからこそ仕事の「コツ」を掴んでいるのだろうと私は思っている。

私の師も、飄々としているけれど広告業界にいけばきっと名立たるマーケティングのプロであろうし、経営コンサルタントになればきっと世界有数の敏腕コンサルタントであり、ITでSEの世界でも、最優秀の合理的なSEになれる方だと簡易に想像できる。

なぜそうなのか、それは師がプロフェッショナルだからである。

そのプロフェッショナルが過去に通過してきた、これでもかという自分を高め究めたところで仕事をしたことを周囲は気づかないだけで本当はプロはその陰に他人にはわからない非常に高密度の自分との闘いをしているのだ。

常に、誰かのせいにできるような仕事は甘えでありそういう甘えた状態で協力を頼むのはただの依存関係、つまりは仲良しクラブになってしまうから気を付けることだと思う。

本当にみんなと協力し、豊かで幸福なチームを目指すには皆が本気でなければらない。そしてそれは、皆がプロ意識を持つことでもある。甘えを許す土俵は、必ず自分の甘えを許してもらおうとする真の甘えが存在する。

甘えを捨て去るのは、真の思いやりだと思い、本来の正しい仕事を見つめ再構築していくことを自らの会社を通じて業界へも伝播していきたい。

思考の罠

仕事を観察していく中で、よく気づくことに新しく考えて進めなければならないことを「またいつもの癖で」とか「また同じように」などといって毎回あまり変わり映えのしない結果になる事がある。他にも、いつも何かをやった後に次はこれをしたいといつも「何かをやることの方ばかり」をいつまでも考えている人がいる。

これは以前の仕事で身に着けた指示を遂行するという「習慣」で仕事をしている人のことを言う。

これは別の例にたとえれば、日常の中での生活でも髭剃りや歯磨き、シャンプーなどいつも通りの流れにそって無意識に体を動かし取り組んでいるのと似ている。そういうことをするときはいちいち考えていないし、では次は歯磨き、では次はうがい、次は手洗いなどと、動作的なことを考えても本来の意味はもう何も考えてはいないけれど体は動く。

仕事も同じように単なる習慣の惰性でやっている人がとても多い。これは考えてから取り組んでいるのではなくて、取り組むことを考えていることになる。

本来、仕事とは考えてなければ生産性も効果も効率も善くならないものだし、さらに言えば責任を持つ仕事はどれも考え抜かれたものでなければ最終的に望ましい成果が出るということもない。

つまり、私はこの「考えながら動く」ということはとても大事なことだと思っている。

もう一つ念のため例えれば、営業の仕事があったとする。これも考えてますと言って何を考えたかと尋ねればスケジュールやトーク、段取りなどのことばかりを話されることがある。しかし当然考えたかというのはそういうことではないのはお分かりになると思うけれど、本来考えるとはそういう動くことを考えるのではなくそれ以前に何のためにということを考え抜いたかということを言う。

では考えながらとは具体的にはどのようなことかいくつか紹介すれば、私ならそれは本当にこれをやることは全体のためになるのかを持ち続けること、この今、取り組んでいるものは本当に全体にとって最優先のものなのか、これは自分にしかできないことか、さらにはいつまでにどのようにやり遂げることがもっとも価値のあるタイミングなのかということなど沿考え抜くことを言う。

それの共通理解を図るものに企画書があるし稟議書がある。

他にも考えながらには、根本のビジョンや理念に沿っているかや相手や周囲が心地よく感じているか、独善的ではなく総合的に取り組めているか、先々の展開はこの方向で間違いないかなど、「考えながら」は非常に多岐に及ぶ。

それを社員一人一人が考え抜き会社全員で侃々諤々とディスカッションをし、納得がいくまでやっているからはじめて考えながら仕事をしているといえるようになるものだ。

しかし通常は、人はそういうことをしたくないから怠けるしいつまでも考えようとはしないもの。過去の習慣でやった方が直近の一応の結果も出せるし、何もしないよりはましだと妥協している方が何かと必死にやれたという実感もあるし一応の評価ももらえる。

その陰に潜む一時的な楽に乗っかれば、実は思考の罠に陥ることになり、そうなればいつも習慣で惰性で働くことが癖になってしまうので注意がいる。常に考えないで仕事をいつまでもやっていたら本当に価値がある最高の成果を出すことは永遠に不可能であると私は思う。

早めに自分のその思考の罠ともいうべき、「考えない」癖を直す必要がある。

では具体的にどのように直すのかと言えば社員一人一人が真剣に考えることだけれど、日々ではまず言われたことだけをしないことだったり、本質的に取り組めているかを常に確かめながら進めたり、プロセスに責任を持つことや、経費よりも数倍以上の価値の高い成果を出すことや、会社の問題を自分の問題にすることなど、これもいくつかあるけれどシンプルに言えばサボらず怠けずちゃんと「考えればいい」だけなのである。

サボりや怠けは、動くことを言うのではない。努力の方法とは、ただ闇雲に必死にやりましたというのは正しいやり方ではない。本来、サボりや怠けとは会社のことを考えないことを言い、努力の方法とは、如何に本質的に効果がある方法で取り組んだか、つまりは創意工夫するこが正しい方法なのだ。

会社も仕事も年々、変化していくし進化していく。昔の習慣ばかりを使って流されていては同じく年々考える力が衰え、気が付くと無機質に繰り返しているだけの指示を待つ作業員になってしまう。

一番恐ろしい思考の罠は、以上のように動くことのことばかりを考えていることを考えていると勘違いし本来、その前にきちんと仕事とは何かを考えてから動くということすら麻痺し意識することもなくなることであろうと思う。

常に現場は変化想像を繰り返しているし、時代のニーズも転々と変わってくる。会社は、いつもそういう変化の中で成長し続けなければ永続的な発展をしていくこともできない。

そして会社は生き物だからこそそれを全社員の一人一人が意識して取り組まなければ、大切な自分の生きる場所であり自らの道縁で得た無二の環境や本来の価値を守ることもできないと私は思っている。

トップダウンとは一見、とても強固な組織に見えるけれどその実はそうではない。誰か優秀な一人に依存しているというだけでありそんな優秀な一人に頼るようではその人次第でどうにでもなってしまうということでありそれは企業文化とは言わない。

本来、主人公は社員一人一人であるのだから一人一人みんなが本気で自ら考えなければ会社は正しく運営していくことはできないというもの。

常に、自分が考えているのかどうか常に自問自答しそして自分はどうするのかを明確に持つことこそ動く前の準備であることを知るべきだと私は思う。

ルーティンワークこそ考えて動いているものとそうでないものは長い積み上げにおいて結果がまったく変わってくるから特に注意しなければならないと思う。

どの職場でも起きやすいことだろうけれど、私たちカグヤはそういう会社ではないので特に一人一人がやってから考えるようなことにならないよう、考えながら動くことを重んじていきたい。

思考の罠に気づき、すぐに自らを刷新してほしいと思う。