安心とぬくもり

社会のあり方というものから考えず、対処療法で経済的な判断ばかりが優先されていけば人との繫がりや絆というものが希薄になってくる。

繫がりが途切れていけば、次第に人は孤独になっていき自分のことで精一杯の人たちをたくさん増産していく。

例えば、居場所がなくなっている人や、存在意義を感じることができない人、生きている意味などを感じない、また共感することができないなど、人と人がかかわり合いの中で築き上げる愛や慈悲、思いやりといったことを使わずにただ生きるために働き生活をすることを優先すれば冷たい世界を開いていることになる。

温かな関係というのは、繋がりの中に存在するもので相手を心配したり相手に与える方や相手を大切にまず配慮したりというように、自分からどんどん相手のためにできることをやっていこうと人助けや誰かのために貢献しようと思うことで強くて厚い深い絆を持つことができるもの。

信頼できる社会とは、いつも自分が安心して人付き合いができるような見守りと助け合いの環境を用意することで次第に出来上がっていくもの。

自分を偽り、表面上で付き合い、いつも不安を感じているようでは、真の意味で心がリラックスして一緒にいて安心できる関係をつくることはできない。傷つけあい、無視をしたり、排除したりと、何か有事があった際に、自分のことは自分でしろと迫る社会というのはどういうことだろうか。

自立とは、確かに自分のことが自分でできることではあるけれど、それは決してすべてのことを自分だけでやるということではない。

自分のことが自分でできるのは、他人に迷惑をかけないためでありそれは他人との間で貢献しあえる関係をいつも築いておくために自分のもっとも能力が高いところでお役に立てるように磨いておきなさいという意味である。

一人で生きていけば、全部自分でしないといけない完璧な人間を目指そうとするもの。しかし皆で生きていこうと決めていれば、できないところや苦手なところは誰か得意な人がやってくれればそれでいいのである。

見守りと繋がり、安心と絆のぬくもりのある家族のような関係を周囲と築いていくことが社会を変えるための第一歩であると思う。

弱さを受け容れ、弱さをさらけだせるよう、弱い方から頑張らせるのではなく、弱いということは助け合えるということだと諭し、さらなるチーム力を高めていきたいと思う。

日本というチームが、世界の調和に貢献できるように子どもたちの模範になれるように実践していきたい。

主体的であるということとは

受け身と主体の違いに、まず何のためにやるのかという本質から考えているかどうかというものがある。

人は、すぐに何のためかということを最初に考える前に与えられた環境の中で与えられたことをすぐにどうしようかということにばかりを先に考えるものである。

しかしその時点で受け身であるということに気づいていない人はとても多い。

まず何かをする前に、その最初に何のためにやるのかということを考え抜くのが自分本来の力を使ってやろうとしているということになるのである。

例えば、会社であれば何のために会社があるのか、仕事であれば何のために仕事があるのか、それをちゃんとどこまで本質的に理解して仕事に取り組んでいるかというのは何よりも正しい成果を出すためには必要になる。

当然、その前に就職する前に何のために生きるのかということを考えていなければそれですでに受け身であるということになる。

よくある矛盾で、如何にどんなに主体的にやっていると自分が思っていてもそれは勘違いでどうしようかということに一生懸命であるのと、何のためにやるのかということに一生懸命というのは天と地ほどの差があるものである。

それに気づかず、最初の根本から考えようとしない人があまりにも多いのはいくつかの理由がある。

それは薄々感じてはいたものの今さら何のためにかというのを考えるのが大変だからそのまま流されて生きてきた人、もう一つに、本当にそういうことを知らなくて気づくこともなく正直に生きてきた人がある。

前者は、気づいてきたけれど今さらそれを知ったら今までのことが無駄になってしまうと恐れてあえて流されておこうと選択したものでありそのまま改めずに最後までいたいと思う心境があるのであろうと思う。

世間を見渡すと、どうやったって変えた方がいいと思うようなことを目の当たりにしても今さらそれをすることは今までを否定してしまうことではないかと仕方がないと諦めている人たちである。

しかし後者の正直に知らなかった人たちは、気づいた瞬間に何のためにやっているのかを学ぼうとし今までの人生を刷新しようとして根本的なところから見つめ直して変わっていこうとするもの。

人生とは、何のためにが何よりも先なのでありそれを考えるのは誰からか言われるからではなく自分の命や魂のところから自分から考えて遣り抜こうと決めることが大前提なのである。

根本からブレナイようにいつも本質から考えるのは、常にどの「今、此処」についても何のためにかということを心が定まっているからできるのである。

会社でも変革期や、個人でも革新期は常にブラッシュアップするために少しずつ刷り込まれズレてしまっている物の見方を換えてしまうような理念の学び直しや見直しというものが必要になる。

今までの自分の勘違いや間違いに気づき、最初から何のためにということを考えることでこそ学び直しということ、その都度、途中までやっていることや今やっていることなどからどうしようかではなく、一度立ち止まって原点回帰し理念を確認していくことが主体的であるということを忘れてはいけない。

主体的に生きていくことが、周囲への真の貢献と自己実現になっていくもの。

一番最初が間違っていないかを見つめて見直すことは温故知新にも繋がっている、常に時代に対して主体的でいるように社業を実践していこうと思う。

個性と自由

教えないということは大切なことである。

その人の自分がもっともやりたいことが、世界のためになったり、その人の持つ最高の個性が人々の貢献になるというふうにしていくことこそ自己実現でもある。

今の時代は、先に答えがあるように教え込み、その模範解答を探して苦しんでいる人は本当にたくさんいることのように思う。

自分らしく生きることが認められず、自分なりにやったことが評価されない。とても不自由の中で与えられた微かな自由を自由と思って生きている窮屈な人たちばかりでもある。

如何に自分らしく生きるかは、社会の在り方として見守る必要があり、そして教育のあり方として余計なことは極力しないという風に、相手を尊重して相手のことを信じてあげるようにしないと安心して発達していくことは難しいのであろうとも私は思う。

子どもであれば、自分がやりたいことを見つけるために環境を用意し引き出したらそれをどのようにしたら喜びとして見出せ、貢献に換えていけるのか、その仕組みを一人一人にあわせて皆で取り組めるようにしていけるか、そこに見守り手の真の実力が光ってくるのだろうと師を見て学んでいる。

刷り込みというのは、最初に答えを教える事であり、何かの教科書によって正しいということを思い込ませることでもある。

こんなことをやっていたら、その人らしさを出す前に間違っていないかが不安で何もしようとはしなくなるのではないか。そしてその教科書通りに生きていこうと必死に周囲の評価を気にしながら恐怖を感じるのではないか。

世界の学校はもう変化している。

この国は、もうすでに相当数刷り込まれあるがままに物事が観えている人たちも減ってきているけれどまだまだそういう人たちは前線で勘違いだと声高々に真実を語りもう一度根本的に見直そうではないかと伝えている。

できれば、子どもたちのためにも大和魂を思い出し早く気づいてほしい。

自己実現や自分は何者なのか、そして生きる喜びそんなものを存分に味わい楽しむことが人生なのだと示せる大人であることが何よりも大切なこと。

自由に生きていいということを自分から刷り込みを取り除き実践することこそ個性を活かすことになると信じるように脚下の道を楽しみ抜いていこうと思う。

勘違い

社会自体が定義しているものにより、言葉の使われ方も異なってくる。そしてそれは刷り込みという形になって個人の人生にも多大な影響を与えるものであろうとも思う。

昔、ずっとこの国でしか生活をしたことがなかったことから一度世界に出て生活してみるとその国々で言葉の定義が異なることに気づくことがある。

つまりその国の根源理念や社会のあり方によって個人の人生観から周囲との関わり方まですべてに固定観念というものを刷り込まれていくのであろうとも私は思う。

その刷り込みにより、個々がたくさんの間違いを起こす。

その間違いとは、その人が間違っていると拒絶することであったり、自分がされたことや育てられ方で得た価値観が正しいとし、そうではない多様な価値観を受け容れないという間違いでもある。

一つの価値観で埋め尽くそうとするのはグローバリゼーションでもある。そんなことをすれば根本的に拒否したいのだから争いは尽きることもない。

中東での宗教戦争なども、国内でも数々の宗派のトラブルも単なる勘違いだと言えないところに時代と人間の矛盾が存在している。

そうではなく、本は同じなのだからそれぞれの理念に照らして勘違いしていることがあることを気づかせ導くことで多様な価値観を受容していくことができるもの。

個々が間違っているのではなく、時と社会のあり方により刷り込まれて勘違いしているだけだと優しく教えてあげるだけでもその人は気づいて変わっていくものであろうとも思う。

本当の間違いは、個人が間違えていると責めたり裁いたりすることであろうとも思う。

今は集団が個を責めすぎることで悲しい争いが尽きることもなく増え続けている。勘違いに気づき、集団が個に優しくなることで平和な社会を築こうとすることが本来のまともなことである。

話を身近に移せばチームという概念がある、これも社会全体から受けた環境から思い込んだりしている先入観を取り除くことであったり、言葉の定義を見直し勘違いだと諭してあげたりすることでそこから本質的な自分たちらしい社会を理念の下で構築していくことからはじめていくのが大事になる。

特にこの国は今まで組織や集団も社会の影響を色濃く受けて上意下達の階層社会で成り立っていて自分から言われていないことをやろうとする人が組織にはとても少ない。

いきなり今までのそのピラミッド型のトップダウンでやって指示待ちの受け身でやっていた人に「言われていないことが本当は仕事なのだ」といくら教えても急には変わることはできないものである。

ボトムアップ型にしても本来仕事とは何か、働くとは何か、会社とは何かなどといった定義がすでに間違っていては何をやっても裏目に出てうまくいかないのであろうとも思う。

根本から学び直すとは、使っている言葉から見直すことであろうとも思う。勘違いをやめて本質であれということでもある。

言葉とは行動すべてを変える力がある。

言霊をもっと大切にし、何のためにということを皆が考え直すことから社会をよりよくしていければいいと思う。社会とは共生し協力しあうチームであることを意味する、皆で循環できるように助け合っていくためにも勘違いであることを実践にて説いていきたい。

心地好さ

人は心の余裕とゆとりがなくなってくると、次第に自分以外の存在に矢印を向けようとする。心の余裕やゆとりとは、相手のことを思いやっていることでいつも広く持ち続けることができる。

その心よりも、頭で考えていることで一杯になりまず心から取り組むという順番を間違えれば次第に忙しくなってきて周囲に迷惑をかけてしまうことがある。

勘違いされることはあるけれど、心の余裕やゆとりは何もかも時間をゆっくりすればいいということではない。それにそう見せればいいというわけではなく、まず心から思いやりを持って過ごしているかということになる。

例えば、お客様が来社されるときに相手のことを思いやれば色々と共感するものがある。遠方からであればご足労していただいたや、外気が蒸し暑ければ冷たいものをお出ししたいや、商談の中身が難しいことであればできる限り準備しておこうなど、相手のことをまず思いやることで仕事はとても心地好いものになっていく。

そうしていると次第に自ら感謝の念が湧きだし溢れ、心の余裕とゆとりをより大きく広くしていくことになる。

もしこの逆になれば、例えば仲間との仕事でも思いやるよりも先に自分が頭でっかちに作業進行上、もっとうまくやればや自分のやり方に固執する方などで相手への心の思いやりよりも自らの頭の理屈や理論上であっているからとやれば保身が生まれ感謝を忘れるから相手はその人へ無神経で冷たく空気の読めない人だなと思い仕事自体もすべて心地悪いものになってしまう。

そうしていることで非協力的な思いやらない関係にしより忙しくなってしまい周囲も嫌気がさしてくるものだ。

長く続けられる仕事や、ずっと楽しい仕事は生産性も高く質も善い、それに建設的に積み上がっていくのでより良い関係が構築されより貢献に繋がっている。

そうしていくのは「心地よさ」というものがとても重要になる。

忙しさのあまりか、自分の心の不安定さあまりか、感謝を忘れれば次第に仕事が作業的になり他人を傷つける凶器や犯罪のような行為に及んでいるのではないかとその人の周囲への矢印を見ていてよく思う。

周囲にも思いやりがない環境を与えてみんなが余裕がなくなれば、その凶器によってたくさんの人を傷つけてしまい最後には自分が深く傷ついてしまうもの。

そうならないように、自分から思いやる環境を築くことを心がけいつも自分へ矢印を向けていれば助け合い認め合い協力し合うことで周囲を癒すことができるもの。

つまり心地よさとは、心がちゃんと地に着いている、つまり地に足が着いているようにまず心がどっしりと地面に根ざしているかということを言う。心の安定や安心とは地についていることからである。

そしてこれを理念ある経営と結ぶことが地道に仕事で貢献することでもある。

理念なき行動は凶器以外の何物でもない、まずはどんな理念でやっているのかを常に心に抱き、自らの行動のすべてを見直していくことからやっていくことであると私は思う。

カグヤでは、何よりも優先されるのは理念であるのだから心地よさと理念とは常にイコールであることを忘れてはいけない。思いやる心や感謝の心は、自分が地から湧きだし溢れだしていくことを忘れてはいけない。

大地のあらゆる生命と同じく、地から湧き上がってくるものを大切にしていくことが本当のチカラであるのだから。

十文字

昔から循環をしていくなかで、十字の関係を築き上げて取り組んでいくというものがある。

縦の天というものからの一本立っている原則などの普遍的な理念、その足元で横一線に皆が和になり協力していくという調和。

これは理念というあり方に対して、どのような協力というやり方を行うかということになっている。

当然、あり方を示すのは理念の体現者であり組織で言えばそれをもっとも示す信念や信条を持つ人が不動の士魂を持ち取り組んでいく。そしてそれをどのように支えていけばいいか、工夫して皆で協力していくかというのはチームの衆智を集めてやり方を創意工夫して取り組んでいく。

このように縦と横の関係がバランスよく成り立った時、はじめて大きなことが為されるのであろうとも私は思う。如何にバランスを保つかということがここでは大切なことであると思う。

これをよく勘違いしている人たちが多い。

やり方ばかりに固執して、いつまでも理念を省みず形は成しているものの一体何がしたいのかわからないようになっている組織。本当にやりたいことは何だったのかというものも本人たちですらよく分からなくなりやり方という形式知識のみに偏っていればいつかは実現するとまで思っている節もある。

そしてまた逆にあり方ばかりに固執するのは、それを実現するためのやり方には工夫をせず精神論ばかりでいつまでも何も改善されないということにもなっている組織。皆で協力して工夫していくということになっていないから、いつまでも個別の問題ばかりに囚われていて全体が調和しない。

しかし優先順位としてどの時代も、人はあり方や姿勢を示すというのは志や使命で行うものでありそういう人が時代を変えていくのであろうとも思う。時代を変える人は、やり方云々ではなく心から感じて動いているのだからどうしようもない。

かの維新の種因を蒔いた吉田松陰先生も、「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」というように、どうしようもない志から湧き上がってくるこの心の抑えきれない衝動こそが大和魂であるということである。

そうしてみると心のあり方から入るのは当然であり、そこでどのような方法があるのかというのを学びそれを形にしていく過程で時代や成長の真理や真実を垣間見ることができるのであろうとも思う。

素直に真摯に取り組むということは、どちらにも偏らないように取り組んでいくことでもある。今日、あり方であれば明日はやり方、今が姿勢を語ればこれから方法というように、それをいつも往来しつつ取り組んでいくことが協力し調和を取り持つリーダーの資質であるようにも思う。

相対論ではなく、矛盾や絶対という比較しない場所に自らの布置を定めてこそはじめてこの十字の交わりの理が実践できるのであろうとも思う。

苦は楽の種、楽は苦の種ではないけれど、どちらもまた善しと思えるまで苦悩は続いていく。日々の実践に置いて、子どもたちにもっとも相応しい環境とは何か、学び続けられることに感謝していきたい。

大好きになる

何かを好きになるというのは、好きなところをもっと好きになることを言う。

しかしこれを勘違いして、嫌いなところを無理をして好きになろうとしている人がとても多い。

例えば、幼いころの食事ではピーマンが食べれないのを無理をして何度も食べようとして食べれず吐いてしまうようなことがある。その都度、自分がなぜ食べれないのかと責めたりするのは周囲がもっと食べてとか、なぜ食べれないのかと好きにさせようとする力への抵抗からでもある。

幼いころに無理に嫌いなものを好きにさせられたり、好きになるように仕向けられたりすると反動でいつまでも好きなものをもっと好きになるよりも嫌いなものを何とか好きになるように努力しなければならないという刷り込みを持つことがある。

自分のことが好きか嫌いかということもこれに似ている。

自分のことを真に好きな人は、自分の好きなところをもっと好きになり嫌いなところは無理に好きになろうとはせずそれは次第に嫌いなところも好きなところからすればバランスが取れていてとても良いというふうに自分のことを丸ごと好きになることができる。

このように嫌いなところも含めた自分を丸ごと好きになれる人は、他人の嫌いなところを含めて好きなところをもっと好きになることができる。

よく考えてみると、好きになるというのは嫌いなところが気にならなくなるということであり、誰しも価値観で自分と合わないと思える人は存在するのにそれが合わなくてもそれ以上の善いところがあるから好きでいるのであると思う。

嫌いになるというのは、好きなところよりもどうしてもその人の嫌いなところばかりにフォーカスし気になってしまいそのためにどうしても丸ごとを好きになれずいつまでも好きになろうと嫌いなままでいるようになる。

つまり何かを好きになるのも、誰かを好きになるのも、これは仕事でも恋愛でも何でも好きな方をどれだけよりもっと大好きになれるかということが大切なのであろうとも思う。

自分の嫌な部分ばかりを見て自分を責める人は、やはり他人からもそこを責められる。そのことでもっと自分のことが嫌になるから自分の好きなところよりも嫌いなところを直そうと必死になっているうちにより嫌いになってしまう。こうなると半永久的に、自己嫌悪の感情に振り回されてしまい周囲や他人に嫌われいつまでも迷惑をかけ続ける事にもなる。

そうではなくて、もっと自分の好きなところでもっと貢献しようと決めたり、周囲から自分の好きなところだと言われる部分でもっと周囲の人たちのお役に立とうとしていくことである。そして周囲は、その人本来の素晴らしいところを見出し、他の嫌いな部分に寛容になってあげることでもある。その素晴らしい部分をどれだけ引きだし伸ばしそれを大好きになってあげるのか、それが丸ごと愛することでもある。

すべての生命は、自分たちにとって好きなところと嫌いなところというのはあるのでありそれは長所と短所があわさっていることと同じく、善いも悪いも使い道次第なのであろうとも思う。

せっかくなら、自分との付き合い方や周囲の付き合い方を丸ごと見直し、どれだけ自分が好きなところをもっと好きになる努力をするかということが自他を活かす上で重要になる。

自分が嫌いな部分を好きになるのではなく、好きな部分が嫌いな部分を受容し丸ごと大きく覆ってしまうような「大好き」になることが「好きこそものの上手なれ」の本質とコツなのであろうと私は思う。

もっと私自身、子どもたちのためにもイキイキと豊かに人生を歩めるよう好きなところをより大きく好きになれるように楽しんでいこうと思う。

自然との間

日本の伝統の中には、様々な動物や植物、その他の身近な自然から洞察し学んだことが文化の中に存在してくる。

神道でも神様の御遣いに、キツネやニワトリ、ウシやウマ、シカ、カメやイヌやハト、カラスなどこれらを眷属とし様々なお役目を持つことがある。

人間を見守り、神様との間を取り持つものとして自然との教えや繫がりをそこから感じ取っていたのかもしれないと思う。

不思議なことに、天変地異や気候変動、その他の境界線で起きうる出来事に自然にすべての生命は反応しようとする。

自然にある動植物たちは、雨が来ることを知っているかのように伸びるタイミングをいつも計っているし、動物はどの時期までには食べ物がどこにあるかというのを知っているかのようでもある。

自らで数を調整しながら、必要最低限で生きようとするのはそこに調和があってはじめて成り立つのであろうとも思う。

人間が一部だけのものを切り取って自然と勘違いしている今の時代は、どうしても不自然なことが起きそれを究明すればするほど対策も後手になっていくもの。

本来の自然というものがどのようなものであったのか、それを知る手掛かりは神話や眷属との関係性を通して元のものを見出すことができるもの。

私たちは、太古の時代から普遍的に繰り返されてきた命の営みの中で循環しつつ役割を果たしてきた。役割をその命から取り上げれば、その命は輝くこともない。

その人がその生き物が一体、どんな命の目的があり、その役割を見つけてそれを深く引き出してあげ見守ることが教育や保育の本義であると私は思う。

その生き物がもっともやりたいことを引き出していくことや、その役割を果たせて差し上げることが自然との調和を取り持つための真の鍵であると私は思う。

子どもの頃から今のような不調和不自然に役割を無理やりに押し付けられ刷り込まれる時代、これをどのように還元し自然と調和を新たにするかこれは我が道の志根でもある。

まだまだ私は歴史や伝統から正しく学べていないし、日々の自然に気づけていないことばかり、、さらなる感性を磨き、変化というものを感じ取っていきたい。

子ども達はそれをいつも私たちへ教えてくれる、この仕事の本当の醍醐味を味わって学びつつ心から楽しんでいきたい。

役割に自ら由る

久遠の流れに身を委ねるような自然と出会うとき、時というものを止めて観えるものもある。

生きているととても短いサイクルで生涯を感じて、様々なことを短絡的に悩み感情的になり朽ちていく儚さや老いていく虚しさなどに心を奪われるものもある。

自由に生きるというのはどういうことか、自由とはそのままでいるということを感じることかもしれない。

とても長い長い時間の中、それは数億年、数百億年という時間の中でそのすべてを感じて委ねるようなものであろうか。

人はそういうものを感じるとき、無心に何かを覚えるのではないか。

目の前の今に集中することも久遠を感じ、万物自然の姿に畏敬を抱くときも同じく悠久を感じることができる。

時を同じくし、時と共にするということは、その自分というものをどの観念に委ねるかということを定めているようにも時折感じることもある。

日々に意味を感じることや、今に繋がりを感じることは、万物が流転することを知ることになり、その知覚する場所で全体の一部としての役割を覚るのが命なのかもしれないとも思う。

かの空海の足跡を辿れば、霊地巡回の旅にて人々にそれを如何に伝えるか、そこから如何に苦しみを取り除けるかという実践において私たちが自然の一部分に過ぎないことを様々な自然の叡智と一体になるものを刻み試みた。

雄大な自然に抱かれて生きるものは、自然のあるがままを体現するもの。

どんな役割があるのか、自分にしかできないことを思い出すのは自然に生きることを思い出すことでもある。

因果応報の摂理に添って、自ら由るように歩んでいきたい。

大いなる上書き

今、「手塚治虫のブッダ」というタイトルで映画が放映されている。まだ見てはいないのだけれど手塚治虫原作の漫画の中でもブラックジャックとともに私がとても好きな内容にこのブッダがある。

仏教というものに出逢うには、苦しみというものを感じればすぐに身近に辿りつけるというのは私たちはそれだけ同じように時代を超えて生きるということや死ぬということを常に正面から向き合っているのであると思う。

いくら意識を避けて忘れようと努力してみても、必ず訪れる様々な苦しみを身近に感じることにより生死の感情や不合理を受け容れることが難しいと思えるのであろうと思う。

私がブッダの物語の中で特に印象深いのが、苦行断食を続けても尚悟れぬ中でスジャータという村娘との出会いによって気づき悟りのキッカケを得たシーンがとても共感できる。

実際に目で見たわけでもないのだから、共感だときっとこうだったのではないか。

このスジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうで、漢訳では”善生”という。

この村娘が、悟ろうと必死に無理をし苦行を続ける骨と皮だけに痩せ細り今にも死んでしまいそうなブッダに、心から純真にそんなに心身を痛めつけては本当に可哀そうだと思い乳粥の一椀のスープを差し出した。

苦行中のブッダはスープは飲めませんと拒否するだろうけれど、無理することで悟れるわけがない、無理をするのは馬鹿みたいだとそんなことをするなんて本当に自分が可哀そうときっとスジャータは言ったのではないか。

その真心で純粋な慈悲の言葉が心に沁み渡り、差し出したスープがそのまま体に沁み渡ったのではないか。

そしてその後、沐浴をし清めるブッダの傍でスジャータがインドの民謡を詠っているのを耳にした。

「琵琶の弦は、強く締めれば切れてしまう。
 弱く締めれば音色が悪い。
 琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい。
 弦に合せて、踊れや踊れ。
 弦に合せて、踊ろや踊ろ。」

きっと、これもスジャータは先ほどのスープの時と同じく何も考えずに子どものように無邪気に天真爛漫な様子で無意識に歌っていたのだろう。

この一連の出来事により、すべてをあるがままに受け容れる準備ができたブッダは、何かを悟るのは方法論ではなく在り方の方、つまりはどのように生きるのか、つまりは避けるのではなく偏らないで中道でいる、つまりは全部丸ごと善いことであるということに悟ったのであろうとも私は思う。

このスジャータの天真爛漫な様子に自然に生きる姿を体現したものを覚ったのではないか。

これが良いやこれが悪いという概念的なところで生きることを考えるのではなく、全ては善いのであることが大前提で自然に応じて従い受け容れさらに善くなるような生き方をすることで苦を楽にし、楽もまた楽となると。

私の言葉では、これを「大いなる上書き」ということをよく言うけれどそういう心境に至ったのではないか。あくまで自分の些末な経験値からの妄想かもしれないけれど、私ならそのような体験をしたことがありこのブッダのシーンは特に今は印象深い。

このシーンの年、ブッダの年齢は35歳である。

人間は、内なるものに神性や仏性が誰にしろ備わっているとある。

同じように純粋に生きれば、時代や環境は異なってもブッダと同じように悟ることができるのかもしれません。人生というのは、ひょっとすると同じように生きているだけで周囲の方法論はどうにでもなるのではないか。

そうであれば、生きるや死ぬという絶対的なものは私たちの使命にとても大きな影響を与えているのであると思う。子ども達には、どんな時代であったにせよ、これからどんなに過酷な未来があったにせよ、同じように生きてきた人たちの歴史や言葉をできる限り遺し、これからの生きるものへの大切な生き方を示していけれればいいなと思う。

ブッダの生き方から私たちは学び、そのご縁から自分の生き方を見つめる素晴らしい機会になる。

感謝