話の土俵

何かの話を進めるときに、いくら話をしても土俵に乗らないと感じることがある。

例えば、話を聴くというのは心と耳と一緒に行うものであるから見た目だけ聞いているように振る舞っていても心から聴こうと自分からしていなければそれは話ができる土俵とは言わないのです。

話を聴くというのは、自分の言いたいことをわかってもらおうとするのではなく相手のことを通して自分のことを分かろうとするのが本質であるのです。自分のことを知るという行為とは、自分が何を間違っているかを指摘していただいたり、自分が何を修正すべきかを教えていただこうとする心の態度がまず大前提であるのです。

これを変えようとはせずに、いくら話を何時間、何十時間、何百時間したとしても意味がないのは話の土俵に乗らないからです。

話の土俵に乗れない理由はいくつかありますが、一つは頑固に今の自分を変えたくないというものがあります。それは自分が今、苦しんでいること、悩んでいることを分かってほしからそれを伝えたい、言いたい、分からせたいという自分の言いたいことばかりに意識が集中し、相手がそのときどんな気持ちか、相手は何を感じて話をしてくださっているか、そういう余裕を持とうとしない、いや余裕がないという言い訳を持ち言い換えれば自分の思いを満たす方が先で相手に共感することをしようとしないのです。

その理由はいくつかあると思います。

過去のトラウマであったり、自分の先入観や思い込みで在ったり、欲望であったり、自己中心的な性格があったり、ほとんどが人間関係からの隔絶ですが、そこから自分にとって居心地の善い場所へと引き籠るようになってしまえば、相手のことよりも自分のこと、自分から見て相手がどう見えるかしか関心がなくなってしまうのです。言い換えれば、相手の反応ばかりを見る人になってしまい何よりも大切に相手に共感することをしなくなる癖を持ち道理から外れてしまうのです。

これも「刷り込み」というもので、こういう迷いの元凶となるものを取り除くことができなければ同じく話の土俵に乗ることはないのです。過去のそういう刷り込みにいつまでも糸が引っかかりほつれていては進まないのです。だからこそ自分以外に自分を大切に考えてくださっている真心の方の注意や忠告は、まず相手に自分の心をすべて開いて本心から素直に耳を傾けて受け容れる状態になっているかどうかが重要なのです。

しかしそれは残念なことに相手にやってもらおうと期待して依存しても難しく、すべてにおいて自らでなければなりません、つまり自ら心の扉を自力で開けるかどうかなのです。

古今東西、昔からそのきっかけはつくれても、扉を開けるかといえば心なのだから本人でないとできないのです。心理学を学んだ覚者であってもその人はきっかけしかつくれないのです。

きっかけは自分次第でどうにでもなるのですが、他人の親切を誤解してしまっていたり、他人の好意に悪意を感じていたりする人ではやはり話の土俵には乗りません。そんな状態ではまず他人を丸ごと受け容れる事や、自分から裸になることなど、意味も全く気づくことも理解もできないと思います。

相手を思いやる気持ちがあってもどうにもならないやるせなさは日々に募るばかりです。
さらに研究し、どうしたら真心の技術を磨けるか、この悔しさとともに敵討ちしたいと思います。

至高の技術

仕事には技術というものがある。

どんなに経歴があろうがなかろうが、アイデアがどれだけ素晴らしいものであろうが、人格的に魅力的な人であろうが、仕事の世界は大変厳しいものがある。

アニメのワンピース(尾田栄一郎)の中で、私が一番好きな章がある。
チョッパーが医師を志すキッカケのシーンで、父親役のDr・ヒルルクからまず

「気持ちだけでは他人は救えない。知識と技術がいるんだ」という邂逅を受ける。

そして自分が間違った薬草の知識と技術で毒キノコを煎じてしまったとき続けて、母親役になるDr・クレハから

「この世に万病に効く薬なんてモンは ありゃしないんだ。だから医者がいるんだよ!!!いいかい 優しいだけじゃ人は救えないんだ!!!人の命を救いたきゃ それなりの知識と医術を身につけな!!!腕がなけりゃ 誰一人救えないんだよ」

と人を治す大切な心得についての邂逅を受けます。

そして人を救うには、同じことをしても人を治す技術と殺す技術があることを学び直します。

これはアニメの世界で表現されていますが、手塚治虫のブラックジャックなどでも同じことを言います。
世界最高峰の技術水準と、必ず治すと誓う本気の決意と諦めない情熱と真心。

こういうものこそが、人を救う仕事をしているものに絶対不可欠な要素であるのです。

コンサルティングという仕事はこれと同じです。
自分の技術と姿勢、そのものが他人にどのような影響を与えるのか。

長期的にみても、永続的にみても、すべてに自分の技術・知識・情熱・決心・覚悟がなければだれも何もすることはできないのです。中途半端な技術というのが一番危険なのです。私自身も、それをもっとも戒めなければなりません。

学ぶことは膨大ですが、過去の先人たちが極めた領域と水準までいけるよう至高の場所に身をおいて一期一会に取り組んでいきたいと思います。

躾や指導

仕事を通して何をすることがもっともお客様のためかと考え抜くことは大切なことである。

一般的に、ここを間違っている社会人は多く、お客様のためと言いながら会社に迷惑をかけたり、会社のためといいながらお客様に迷惑をかける人もいる。または仕入先のためだといいながらお客様に迷惑をかけ、お客様のためだといいながら仕入先に迷惑をかける。

つまりは、この迷惑というものは自分中心で物事を考えているからそうなるのです。
会社よりも自分を優先すれば、お客様にも会社にも迷惑はかかります。
同じく、すべて迷惑をかける人というのは、自分中心に考える人なのです。

そういう人は何をやっても迷惑をかけてしまう素養があります、そしてそれは「何でも自分にとって良いようにしよう」と無意識に判断をしてしまう「癖」であるのです。

一般的には、人は自分以外の周りを見て状況を分析し自分を交えずに判断をすることで迷惑をかけないように意識します。しかし、いつも自分を中心に考えてしまう人は自分にとってどうかという価値観があるので周りへ迷惑をかけていることに気づくことがありません。

自分では間違っていないと思ってしまっていたり、自分から気づけることができず指摘されても何のことを言われているのか本質を理解できないのです。そういうことを繰り返していると、人柄や人格とは関係なくその人の「癖」が全面に出てしまい周囲との信頼関係を築けなくなるのです。

そもそもお客様のためにというのは、自分勝手な判断ではできません。

自分中心で言うところのお客様のためというのと、そもそも会社やお客様、社会、関わる人すべて、長期的目線、大局的な視野、そういうものを含めて如何に迷惑をかけないようにできるかと考えていることが 社会人として忠実に働いていることになるのです。

社会人としてまず最初に学ぶべきことは、自分のために働かないということなのです。
もちろん 働くのは自分のためですが、そういう自分の成長がどうかの意味ではなく、会社のために働くや社会のために働くという「私」ではなく、「公」のために働くという自覚がいるのです。

簡単に言えば、自分の我を優先するような仕事はしてはいけないのです。
もちろん経営者は、社会が評価するのですぐにそれは結果で表されます。
社員であれば、それが社内や会社からの評価でもすぐに表されます。

つまりは、我を優先することで自分中心の判断をしなくなることが社会人の第一歩であるのです。自分の存在が公のものであるのだという自覚が、時間を守ることになり、期限を守る事であり、約束を守る事であり、正確に任務を遂行することになります。

会社で働くというのは、社会の一員になるということで自分で一杯にしてしまてはいけません。
滅私奉公のつもりで働く人が最終的には会社でも社会でも一番必要となる人になるのです。

だからこそ、いつも全体を観て判断できるよう正しく仕事を学ぶことだと思います。
指導もそのために必要であるのです。

子ども達にも自分の才能や個性が存分に社会のお役に立てて幸福で豊かな信頼関係を築けるように、私や我を修められるようその躾や指導の大切さを伝えていこうと思います。

 

信頼の要諦

昨日、私が尊敬している人のコンサルティングヒアリングを行った。
とても人間的な魅力のある方で、お話をすると私もたくさんのことを学んでいます。

人のご縁はとても不思議で、志高く歩んでいるとやはりそういうご縁が広がるものです。

色々なご縁を引き合わせていく人というものがあります。
間に入った人とのご縁はたとえ一瞬でも、繋いでくださった大切なご縁。
そしてそのご縁を活かして、新たに共に歩み寄っていくご縁もまた掛け替えのないものです。

昨日は、その話の中で「自分のことは自分が一番わからないものだから、すべてあなたの言うとおりです」ということを素直に受け容れられている姿勢に、とても感心いたしました。

これは分かっていてもなかなかできることではなく、特に歳を取って経験や体験を得れば得る程にそういう若い人からの意見や自分以外の人の話に人は耳を傾けなくなるものです。しかし、人を信頼したり、信頼しあっている間柄であればそれをそのまま受け入れることができるのだと思います。

私も本音や本心、自らの真心かということは常に自問自省して事に中りますが、共に学びあい助け合う関係の方が私の言葉に真摯に耳を傾けて信頼してくださっている姿を拝見すると、より一層、心を通わせることができ、使命でやり遂げなければという強い意志が働きます。

モチベーションというものは、常にこういう信頼関係によってできあがっていくのです。

信頼関係ができる人というのは、その人のいうことを素直に聴ける人であり、それはその人の生き方そのものが素直そのものであるからです。人を愛し、人から愛される人はみんなこの信頼関係というものを築き上げることができる人なのです。

しかし一般的には保身や保守という我を守るために、自分では無意識に周りにバリアを張り巡らせて何でもすぐに相手にあわせて素直であるように見せたり、他人の話を自分の都合の良いところしか取りいれなかったり、大切な助言を自分の判断を交えてしまうことで、信頼関係が遠ざかってしまっている人も多いのです。

共に同じ高い目標やゴールを共有するのだから、すべてをさらけ出して見せなければいけないこともあります。それは腹の内までという言い方もします。そしてそれはとても勇気がいることなのです。そういう経営者や人柄の人はやはり魅力的なのです。

そしてそれができるような間柄になっていれば、もうそれでほぼ成功していると言えるのです。
人は信頼関係を結べる人とそうではない人がいます、結べる人はやっぱり素直であるのです。

素直な人はちゃんと相手の言うことを、額面通りにちゃんと聴ける人であるのです。
これがあれば人は誰かの助けをいつも借りて周囲も自他も幸せにしていけるのです。

人を愛するということや、人を信じるということ、実際の社会はそれで全て成り立っています。
信頼されて任されれば、必ず人は誰であってもやり遂げます。
またやり遂げる人は、必ず信頼されて任される人なのです。
任務を最後まで貫徹できる人は、誰かに信頼されるような人であるのです。

これがコンサルティング業を成就させる要諦であることを改めて記しておきたいと思います。

仕事に取り組む

何かを行うときに言われたことを正しく行う人と、そうではないことやろうとする人がいる。

もちろん、世間では言われたことだけをやる人を否定している風潮があるけれどそれは単に言われたことの真意を理解しようとしないで単に作業をしているときに使われます。これは言われたことをやっているだけで正しく行おうとしうているわけではないので批判されるのです。

しかし、それとは別に言われたことを正しくやろうとしない人がいます。

これも同じく真意を理解しようとしないで、自分という我が混入し認めてもらいたいという気持ちから自分の判断や考えを入れて言われたことを正しくしようとしなくなるのです。実際は、言われたことを正しく行えるということは相当な実力が備わっていないとできないのです。

例えば、あるレベルの高い要求があったとします、そしてその人がかなりの実力を備えている人だとします。その人が求める欲求は一般的にはかなり高いものであるのです。それを言われた通りに正しく行えるというのは依頼された人も相当な実力を兼ね備えているからできるのです。

それができるというのは、右腕かナンバー2と言われる腹心クラスだけです。

他はそれができないので自分の判断を入れて、できないとは言わずに言われたことを正しく行わなくなるのです。もしくは、実力不足から結果として言われたことが正しくできないのです。

だから社会で言われたことしかしないと言われたことを正しくしないというのは、どちらも問題でそれは仕事ができないという自覚を促されているのことに本人が気づかなければなりません。

その上で、ではどうやったら自分がそれが修正できるのかを具体的に行動から変えていかなければなりません。

言われたことしかしないという人は、自分が遣ることになっている必要があります。なので、自分から確認して具体的に聴きこむ訓練が必要です。そして言われたことを正しくしないという人は、常に相手の言った通りに正しくできているかを確認し、具体的に実力不足であるのを努力精進し、補てんしていく必要があります。

仕事として取り組むということは、「お役にたてましたでしょうか?」と自分から確認して、どうしたらもっとお役に立てるのか、本当に自分の依頼された仕事が会社や上司に貢献できたのかを自らが掴んでいることで仕事の実力も技術も備わっていくのです。

しかしこれができないのは、どちらも「我」や「私心」「私欲」が邪魔をするのも事実です。

自分と認めてもらいたいと思っている人ほど上記のような落とし穴に嵌るものです。
よくよく用心して、言われたことをやり、言われたことを正しく行い、言われたこと以上に行うという手順はすべてに仕事の貢献と繋がっているのだと覚えておくことだと思います。

仕事の技術は日々の業務の中で磨かれます。

本志業

本業と副業というものがある。

世間では個人や法人が中心に取り組んでいる仕事や事業のことをいい、本業のかたわら取り組む仕事や事業のことを副業というと定義している。

しかし実際は私はそうではないのではないかと思っている。

何かを行うとき、仕事はいくつかの要素に分かれている。

直接的にすぐに成果を必要とするものと、間接的に成果を必要とするものがある。

お客様への貢献も、直接的に現場で問題を解決に導くというような提案と、間接的に社業の実践を通じて共に成長していきながら取り組んでいくという支援もある。

それに他にも、営業のように短期的に結果がはっきりするような業務と、研究開発のように長期的に結果がはっきりしてくるような業務もある。

これと同じく、本業の仕事と副業の仕事はそういった中心か側面かということで語られるけれど実際はそうではなく本業の志に対して、それを実現するためのプロセスではないかと私は思っている。

もちろん、本志を忘れて怠けて他のことに精を出していたら揺れ戻しにあい本業に戻るように促されることもある。それは私心であったり、私欲であったりと、そもそも感情の中で自分が入り込んでいるから離れてしまうのである。

しかし本来の本業とは初志貫徹のために用いるのであるから、どんな仕事をしていてもそれは本業であり、それが世間では副業に見えてもそれは本業を支えるための副業であるのです。

これは別に子どもの仕事をしながら宝石を販売しても本業のための副業だとは言いません。
そうではなく、本質的に子どものためかをとことん突き詰めて正しく本業に勤しむ心があるのであれば必ず本業も副業も一体化した本志業になるはずなのです。

今は、何かとちょっと外れると色々と言われることもあります。
それが視野狭窄にし、柔軟性を欠いていくこともあります。

大事なことは初志であり本志であるのですから、正しく本業を行うのみです。
しっかりと地に足を着けて前進していこうと思います。

真の豊かさ~曲~

農や豊かということについてここ数日の間に大きな気づきがあった。

そもそもこの字の上に配置されている曲がるという字、これは直というものとあわせて理解すると掴みやすいものになる。

自由や宇宙といった、由という字に、縦にもう一本入っているものが曲である。
それに豊かという字は、曲と豆の重なったものでできている。

今年は大豆で学び直すので、そのものの価値に何か古き懐かしいものを感じています。

天候でも環境でも、期限でも、作業でも、どんなことも思い通りにはいかないものです。
それは人間だけではなく、自然の中で生きているからでもあります。

自然の中で思い通りにいかないことは当たり前です、しかしそれを心から楽しめる境地でいられるということはそのものと一体化している達観した人生であると私は思います。

自分の思い通りに無理にいかせようと無理をしても何でも思い通りになるような世の中で果たしてそれで本当に豊かになったと言えるのでしょうか、そしてそれが幸せでしょうか。より質のよくない苦しみが増えているだけで、苦楽を超えた豊かさまでは到達していないようにも思えます。

人生とは誰にとっても一度きりです。

だからこそ、そう覚ることで思い通りにいかないことで苦しむこともでき、思い通りにいかないことを豊かにすることもできるのではないかと私は思うのです。

つまり、紆余曲折してもそれで善いのだ、そういう生き方そのものが豊かなのだと感じるのです。

もちろん難しいことですが、何度も何度も思い通りにいかないときにそこに立ち返り、思い通りにはいかないものだなぁと味わうことこそ、実にその妙味を体得した人生の真の歓び方ではないでしょうか。

スローやゆっくりという言葉よりも、私は人道とはそういうどうにもならないことを受け容れる力、思い通りにいかないことを楽しむ力、苦しいと思うことを味わう力、そういうものこそが今、取り組んでいる「農」の本質ではないかと気づくのです。

農という字は、この曲がるという字と辰という字でできています。

つまりは自然や天候などにあわせながら思い通りにいかないことを楽しむと読むのではないかと私は今、感じています。農的暮らしというのは、豊的暮らしのことで、それはすべてに思い通りにいかないことでも納得して生きている暮らしをする人のことを定義するのだと気づいたのです。

今の時代、人間のみに隔絶された人工的な社会の中での完璧な理想の人生を目指すのもいいのですが、本来はどんなことがあってもまるごとそれでいいと思えるような機会の多い人生こそが理想ではないでしょうか。

そこで人ははじめて智慧というものに出逢うのであろうとも思います。

人の歓びは、思い通りにいかないときに援けてくれる友人や仲間たち、苦しい時に一緒に傍にいてくれる家族や同志、そういうものをひとつひとつ噛み締めながら新たな境地に入れたことに深く感謝しています。

鶏小屋も皆様の御協力の御蔭で無事に完成し、鶏もやってきてますます自然との絆、太陽との繫がりが深くなったと今、ここに感じます。

子ども達に還元する日を楽しみに、私なりの保育、いや「養育」というものを昇華していきたいと思います。

自然をお手本に

ここ数日、天候に左右されながら外での作業を勤しんでいる。
都市化された社会の中で生活していると、改めて天候というものを実感する。

人間は自分の都合の良し悪しで物事を判断する。

世界で起きている様々な問題も、誰が何といおうと実際は自分たちの都合でそれぞれに語られていることが多いのです。環境問題であっても、社会の問題であっても、そのどれもが自分の良し悪しで判断されていくのです。

例えば、人間にとって有益な動物や昆虫、人間にとって有害な動物や昆虫がいます。
人間の身体にとって有効な野菜は大切に扱われ、無効なものは雑草とも言われます。

よく言葉というものを分析してみると、人間にとって良いものと悪いものでそのものの意味はできあがっているのです。

それだけ私たちは自分都合で物事を考え、自分都合で平和も正義も語っているともいえます。

自然の世界ではたくさんの菌が生きています、乳酸菌や腐敗菌なども人間にとってどうかで名前を決められ選別されます。菌類からすれば、人間にそのように仕分けられ名前を付けられていることなど分からないでしょう。他にも、生き物の頭に毒や害、雑や屑などをもってきてそれを呼び人間の都合で殺したり捨てたりと処理します。

もちろん、弱肉強食の世界なのだから自分都合であるのはいいのですがここまで世界に広がった人類はそろそろ全体を観て調和することなどを自然をお手本に学び直す必要があると私は思うのです。

人間が少なく、あまり世界の環境に影響を与えないのであればそれでもいいのですが実際は空気汚染から水質汚染、森林伐採から土壌汚染、等々と、一時的に自然治癒力を上回るほどに堆積して影響を与えています。

このままではとのシナリオはどれもよくなく、人類だけではなく様々な生き物に影響を与えているのです。人間は智慧をカタチにする技術を持っています、その智慧は決して自分たちだけの世界を満足するものに使ってはならず、それは私たち地球で生きているものを満たすように使うことが力を持つ者の責任であろうとも私は思います。

だからといって何をすべきか、それは自然をお手本に学び直すことです。今こそ、本来どうであったのかを学び、子ども達と一緒に未来を創造するために一人一人ができるところから改善していくことこそが大切であろうとも感じます。

自然を身近にしていると、当たり前である日々への感謝に気づくことばかりです。
これからも寄り添って智慧を学んでいこうと思います。

道の御蔭

そのものの自然の姿に近づけるように栽培し、養育する。
これが自然という名の人道的な進め方である。

もともとすべてのものはお借りしているという理念から考える。

そもそも自分の都合よくいくものは何一つなく、万物は自然であるのだからその一部としての自分たちもそれを享受し、共生し、互いに貢献をすることでそのいのちのめぐりを生きるのが私たち生命体であろうとも思います。

そんなあたり前のことですら、今の人間優先の世界では気づけないものなのです。

そもそも自分だけで何かを創りあげることはできません。
どんな小さなことですら、たくさんの見守りの中で可能となっているのです。

まるで何か偉大な存在が手助けしていただいているような感覚。
そういうものを自然の中では感じることができるのです。

野生を自然と呼んだり、何か人間以外のものを自然と呼びますがそうではなくそれがいのちの道、かんながらの道、 人の道、この道というものなのです。

道を忘れて今はありません。
道が失われても今はありません。

今あるのは、すべてにおいて道の御蔭であるのです。

何より大切な私たち本来の姿に回帰して心の故郷を充実させていきたいと思います。
子ども達もともにこの道を歩んでほしいと願います。

自然体

ここ数日、自然養鶏を行うための鶏小屋を建築している。

結構、大掛かりな準備が必要で発酵床の土壌を山へ取りに行き平飼ができるように配置を構成し、また空気不足にならないようにと風の通りに配慮しつつ、出来る限り鶏にもともとあった環境を用意しようと試行錯誤しながら準備しています。

何でもそうだけれど、新しいものを設計し、新しいものに取り組んでいると、最初の思っていた通りのようには進まず、資材から部品、その他の既存の制約の中でどこまで当初の設計図通りにできるかというのは大変難儀なものです。

鶏小屋一つをとっても、知識が足りず何度もビスを打ち間違えたり、作りながら改善するところや、やってみると工夫して追加したいところなども増えてきてなかなか前に進みません。

それに天候の影響も受け、ここ数日は雪や雨ばかりでそのことにも対応が必要です。
短い期間に創りあげてしまおうと思えば、かなりの綿密な設計と調査が必要です。

しかし実際は、この期間に仕上げなければ色々な諸事情で間に合わず短期間で進めていかなければならないのです。

本来、自然養鶏や自然農と言われる人道的なものは基本的には会得している生き方としてゆっくり、スローにといった、「急がばまわれ、案ずるより産むがやすし、 悠々自適、泰然自若、積小為大」といった自然体での姿が何よりも大切だと学ばせてくるのです。

若さや性格の上でせっかちであることは、この自然体をいつも遠ざけてしまいます。
せっかちをしないということは急がないことや焦らないことではなく、「最期や細部まで丹誠を籠めて手間ひまをかける」ことをいうのです。

この教訓にもなる自然体は実際はどのことにも言えることで、急げば事を仕損じるのです。

何かを行う際は、ゆったりとして平常心で取り組むことが何よりも大切なのだと感じます。そしてこの自然体でありながら、なおかつ時代の流行にあわせ変化対応する技術を備えていることがバランス感覚なのであろうとも感じます。

一見、矛盾しているようですが真の自然体とは平常心で期限通りに変に達するというような心力と能力の両輪の調和を持ち合わせていることが大切なのです。

鶏小屋ひとつからも学べることは偉大に存在するのです。
いつも自然体に、心の命じるままにかんながらの道を歩んでいこうと思います。