生きざまを学ぶ

長い歴史の中で様々な宗教寺院や建造物、史跡まで消失せずに残っているものがある。

歴史には過去に生きてきた人たちの生きざまが詰まっています。

例えば、ある人はとても崇高な理想を掲げて歩んだ至純の心の人物が存在した証であったり、徳が高く、聖人のように人々を思いやり行動した慈愛の人物の存在であったり、もしくは自分の欲望や野望のために権力争いをして盛衰を味わった改革の人物の存在も、または長い年月をかけて同じようにその土地に暮らし、生活が一体となった共生の人々の存在も、今に繋がる生き方を見るのです。

歴史を感じるとき、私たちは生きざまを感じるのであり、そして歴史の今に出逢うとき、自分の今の生き方に出逢っているのです。

歴史を学ぶというのは、つまり生きざまと生き方を学ぶことなのです。

一般的な学校では、何か年号や人物、その他のことを知識として記憶するような授業が多く、テストのためのもになり、その人物の生き様や生き方から自分を見つめるようなところまでは考えさせません。

しかし本来は今の自分の生きざまの選択肢も、過去の人たちが実験してきたからこそ存在できているのです。過去の人々がいなければ私たちは存在すらもないということに気づいていない人はたくさんいるのです。どこか切り取られているのは、そういう歴史の誤認があるのだと思います。

歴史を正しく学ぶ事は、その時代時代にあわせてどのようにその生き方を貫くか、如何にその生きざまを遺すかということに繋がっているのです。時代も歴史もそこから感じられるのは、今であり、その今が途切れていないことと繋がりが途絶えていないことを報せるのです。

そしてそれを人生の軌跡である一本の道の報せであるのだと思います。

自分がどのような道を歩んでいるのか、自分がどの道に惹かれているのか、また自分の今の道の前に誰が歩いてきたのかを知ることは自分の生き方に気づくことでもあるのです。

生き方は身の回りの人たちからだけではなく、今までの人たちからも感じられ、その中で憧れまた自分をそれに合わせていくのです。見た目の形は時代と共に変わってきたとしても、生き方のカタチは変わらないままに歩んでいけるのです。

この今に紡いできた人々の思いを胸に自分の生き方や生きざまを学んでいきたいと思います。