もったいないの本質

物が溢れすぎてという言葉がある。

よく昔は物が少なかったから心が豊かだったとか言われ、さも今の時代は物が多いから心の方が貧しくなったと思われていることがある。

裕福になると、物を粗末にするようになり、たくさんの物に溢れているからもったいないという感覚よりも無駄だからや浪費や消費といったゴミだから捨てようという感覚になっていくという言われ方もするようになった。

しかし私はこの元々もったいないという意味はそうではないと思っています。

昔の日本は物が少なかったという言い方はこれは西洋人が、自分たちの方がまだまだ持っているという新しい物や価値観がどっと押し流されてきたため、日本人がそれまで持っていなかったものが増えたという意味で物が溢れたということになっています。

事実はそうではなく、単に新しい物が少なかったのではなく物は十分足りていたとも言えるのです。なぜなら私たちはそれまでそもそも無駄のない活用、末永く利用できるような工夫、ちゃんと最期まで遣い切ろうとする姿勢などそれまではちゃんと生活の中に備わっていたといえるのです。

つまり元々私たちの言うもったいないという考え方はすべての物にはいのちが宿っていると思っていることなのです。これはこの世のすべてがまるでいのちが宿っているように接する私たちの生活道の根底に根ずく「いのちと八百万の神々」の思想があるからです。

私は以前、中国や英国などに留学したとき地元の神社の苔や、海で拾った貝殻、その他、幼い頃から出会い共にしてきた物を御守りにしていつも身につけて語りかけるように大切にしていたら外国の方々から変な目で見られたものです。

私からすれば別にその身に着けたものだけへの執着や物欲でそうしているわけではなく、乗る車にも、庭の花々にも、空の雲にも、全部にそれがまるで自分と同じいのちであるように接するという考え方でいるだけで特別なことではないのです。

私の言う「もったいない」ということの本質は、そこにいのちがあるということです。

循環することは別にゴミを再利用すればいいのではありません、本来の循環とはすべての物にはいのちが宿っていると思って接する私たちの姿勢を正すことをいうのです。

よくケチとの違いなども言われますがそのものにいのちが宿りそれを効果的にお役目を全うさせてあげたいかということであり、減ってしまいなくなるのが嫌だからや自分だけのものしておきたいのかでは意味が異なっているのです。

すべてのいのちを大切に活かそうという考え方こそ自然循環の基本です。

カグヤでも私生活でも、心を澄まし、心の眼で観て、子ども達と一緒にいのちを大切にしていくような実践を増やしていきたいと思います。