コミュニケーションの真意

言葉というのは分かれていくようにできています。最初は大きなシンプルな言葉であっても、具体的に伝えようとすると細分化されてしまうものなのです。

「生まれた」ができれば「死んだ」ができ、「どのように生まれた」かでまた細分化されます、「明るい」と言えば「暗い」ができ、「どのように明るいか」がでれば、「このように暗い」とでます。そうやって、拡がりが組み合わせにより無限に細分化していくとも言えるのです。

よく何かの研究資料などを観れば、よくもここまで細かくしたものだと分析に感心することもありますが言葉を使って説明しようとすればいくらでも細分化できるし、広範囲のことまで調べ上げていくことはできるのです。

しかし実際はその言葉という大変j細かく細分化された媒体を通して私たちは具体的に何かを体験もせずに脳で理解しようとします。それでは本当のことはそれぞれ人が勝手に細分化された通りのものに理解してしまいます。

昔の人は、五感をフル稼働してそのものの理解をしました。子どもの頃の確認の仕方のように、触ったり舐めたり、感じたりしながら味わうようにです。それだけゆっくりできた時間もあったのでしょう。

しかし今の社会で大人になれば、短い時間でそれを言葉のみで表現していかなければなりません。特にインターネットなどという媒体が広がれば、余計に眼だけで追う情報に溢れてしまっているのです。

昨日、ライターの方との打ち合わせでもどのように言葉を取り扱うかということの難しさを実感しています。どこまでの道具でどこまでを行うかというのは、私たちのIT技術の専門性ともいえます。私が、よく情報の絞り込みや限定を行うのはそういう道具への定義がはっきりしているからなのです。

言葉というものもこれは道具の一つです。そしてもともと記憶媒体としてつくられたものがこの道具なのだから同じようにどこまでの役割で限定するかを定めなければ活かせません。

実際は伝統寺院などと同じく、その場に足を運んでそこにある建造物や遺品を観たり触ったり感じたりすることで言葉で学んだことのすり合わせをしていくのです。

そう思うとき、如何に言葉や写真だけでは限界があるのかというのを感じるのです。そしてそれが思想や哲学、または考え方というものであれば余計にそれを言葉などで伝えようとすることは難しいのです。

だからこそ実践というものが光るのです、どれだけ言葉で語り尽くしても一つの実践には敵いません。それは真心と同じく、どれだけ綺麗に着飾ったとしても心を籠めた一つの実践の前では色あせてしまうのです。

そしてその実践から語られる言葉や文字はやはりシンプルで重厚感があるものです。
なぜならそこには、言葉に何かが入っているからです。
この何かとは、人生観であったり生き方であったり、根底に流れる思想、魂ともいうものです。

そしてそういうものを感じるとき人がその実践を通して何を伝えようとしているか、その実践を通して何を気づいているのか、その実践そのものが持つ深淵な意味を感じることができるのです。

私たちは言葉というものを使わなくても、他人に大切なことを伝達していくことができます。そしてそれはすべてに置いて自分の「心」を使うことで行います。自分の心がいつもむき出しに世の中に素直にオープンであれば次第に色々なことは人づてに伝わっていくものです。

そしてその伝わっていくのは、自分の人格であるのです。
人格が感化していくことで理念や思想、その人そのものが人づてに浸透します。

生命はとても神秘的なもので、動植物も同じように繋がりや絆の感化を通じて成長しあっていくのです。まだまだ、道具としての言葉をどのように活かすか、コミュニケーションの在り方を実践を通じて深めていこうと思います。