生きのびる戦略1

九州の畑に来てみると、鬱蒼と雑草が茂った中に野菜が共に育っていました。

お米などは稲穂をつけ、水草とともに元気に育っています。

他にも元気のなかったオクラやシシトウ、もちきびなども予想をはるかに超えて大きくなっていました。今回は少し長い期間、離れていたのですが彼らの成長の偉大さにはただただ驚くばかりです。

自然農をはじめてから、手を出すのではなく信じるということの偉大さを実感します。以前は、このように予想を超えるようなことはありませんでした。大きさというよりも、生きる体質が強くなることがここまでの生命力を漲らせるのかと驚くばかりです。

やはりこの植物ひとつをとっても、その生き物の持つ生長のスピードはいつも同じ速度ということではありません。ある時、突然大きくなっていると実感するのはこれは生長点から生長点までの速度や幅は一定ではないことを意味しています。

当初の幼い時に、外側に顕われていなかった徳がある時を境に急激に顕われるのです。
つまりは植物の実とはその根の持つ徳の顕われそのものです。

そしてもう一つの気づきですが、人生にも四季があるように、全ての生命にも地球と同じような四季があるように思います。

元々いのちはその四季にあわせて、様々な生きものの四季が働きます。不思議ですが、どの季節に生まれ出てきているかでその生き物の生涯の四季が分かるのです。

冬に生まれるものは、冬から、春は春から、そして夏は夏、秋は秋と、時期からはじまり四季にあわせて育つものです。大きくは、冬から春、夏から秋ということですが、そのタイミングもまたその後の人生に大きな影響を与えているような気もするのです。

人間のタイプも、夏が得意な人と冬が得意な人、それぞれにあります。そしていつが花でいつが実かもある程度は定めの中にいるのです。もともと持っている自分の四季を悟ることは、自分の季節がどうなっているかというものを実感するのに大切なのかもしれません。

秋に実をつけるものが、春に焦っても仕方がないし、冬に困惑するのも意味がありません。今の自分の四季をそこから悟れば、ただ季節が訪れる事を信じて待つ境地に入り、今、遣るべきことに真剣であればいいのです。

それにいくら自分がどういうタイプがいいと他人を真似ても、自分自身の四季があるということを自覚することは自分自身がどのような生きる戦略を持つのかを理解するいい機会になります。

すべてのいのちにはこのそのものが「持って生まれた戦略」というものがありどう生きるかはほとんど定め的に決まっているものと思うからです。

この辺をまたブログでまとめていきたいと思います。

心から入る

相手のことを分かろうとするには共感が必要です。

この共感というものは、頭でできるものではなく心で行うものです。いくら頭で共感しようと思ってみても、心がそこに同化しなければ相手に寄り添うことはできないからです。そしてそれには余裕というものがなければできません。

この余裕とは何かといえば、心を配ることで生まれてきます。

自分が大変になってしまい、自分のことばかりに意識が囚われると心よりも頭で考えるようになり相手のことよりも自分の都合ばかりを思うようになります。

つまり余裕とは、心がちゃんと入っていること、先に心が配れるような状態にあること、日頃からその準備ができているかどうかが問われてくるのです。

その時に急に心を配ろうとしても、頭とは違ってそんなに心は急には動きません。この心というものは、いつも祈り続けて念じ続け、日頃から配慮し続ける事で事象に感応し心が動くのです。

心が動いているときは、全体のことが善く観え、そして繊細に配慮していくことができます。

子ども達を思う心や、相手を思う心、そして世界を思う心、様々な心は日々に育っているとも言えるのです。実践現場ではそういう心が相手に通い合うことではじめて心が全面に顕われそこから余裕というものが観えてくるようにも思うのです。

時間的なものを余裕がないなどと言われますが、それは余裕がないと頭で思っているだけで本来の余裕という意味とは異なるのです。時間だけが余裕があるのはただ暇なだけであることがほとんどだからです。

常に優先することは、心配りです。

自分をどれだけ優先しないか、それは自分を気にせずに気配る、自分に構わず思いやるということが「心から入る」ことだと私は思います。

ちゃんと日頃から準備して、自分のことで一杯にならないよう内省をしたいと思います。

今月の会社のテーマは、天才バカボンの「これでいいのだ」ということになっている。

もともとバカボンとはサンスクリットの「薄伽梵」、「婆伽梵」、「薄加梵」と仏陀の尊称から来ている言葉だそうです。これは、自分の観方を自在に自由に換えることができる人とも意味します。

もともと全ての出来事は最良最善であるという考え方は、相手を変えるのではなく自分自身を変えればいいということに立脚しています。つまりは、どんな現実も自分の観方次第であるということを言っているのです。

自分に定められた宿命というものは変えることはできません、なぜそうなったのか、なぜそうなるのかは、生まれる前から何をしたいかと決めてきた一生があるように思うのです。万物は悠久の時間の中で循環しているのだから自分のいのちもまた、同じく循環の中で次がどうなるのかが決まっているとも言えるからです。

人は長いスパンで物が観れないので、どうしても視野狭窄に近々のことばかりに目を奪われますが循環している流れの中では必要な事しか起きていないとも言えるのです。

だとしたら現実は全てにおいて必要なもので、自分だけの問題ではなく全体で観れば必然的なことになっているのです。どうせ取り組むことになるのならむしろ楽しみたいと思うのが人情ではないでしょうか。

そしてそれを実現するのがこの自分の観方を変えることで在り方そのものを換えるということであろうとも思います。苦しみというものはどこにあるかと問えば、それは自分の中にあるものです。自分の思い通りにいかないことや、自分がやりたいことができなかったり、全ての中心は自分というものの中に在るのです。

観えている世界は、その人の観たいものしか観ないし、聴きたいことしか聴こうとはしません。
だからこそ、常に出来事を善いことに転換することが幸せともいうのではないでしょうか。

福というものは、自分がそういう善いことを沢山積んでいけるかどうかを決めるものです。一つでも多くの善いことをしていくことは、積善ともいいこれがまわりを幸せにしていくコツのようにも思うのです。

生き方を転換することは、働き方を転換することでもあります。
子ども達のこの世界を善いものへと転じて、福にしていこうと思います。

自己発信

生きものはもっともやりたいことを信じて発信していると様々なものを引き寄せる。

自然界は共生で成りなっているから、求めていれば与えられるようにできている。

花であれば、花が花を咲かせるという発信を信じて行うことで虫たちが集まってくる。植物や木々は自然を完全に信頼しているからこそ、実をつけては鳥を呼び、土に埋もれても必ず春が来ることを知っているのです。

これは同じく動物も、周囲を信頼して自分のもっともやりたいと思っていることを発信し続ければ必ずその人にもっとも相応しいものが訪れるものだと思います。

それは人であったり、機会であったり、場であったり、道具であったり、様々なものを引き寄せもっとも価値のあるものを手繰り寄せていくのです。

しかしこれとは別に、自分がどうしたいのか、何をやりたいのかが分からず自ら発信することもせず周りに任せていたら集まるのとは逆に離れていくのです。言い換えれば、自分の望んでいないことばかりが起きるようになりより一層周囲に期待するような生き方になるのです。

自分がどうしたいかというものをはっきりと持っていれば、自分がリーダーシップを発揮して周囲を活かしたり周囲と共生していくこともできます。しかし自分がどうしたいかを発信せずに、周囲にどうしたらいいでしょうかといつも受け身になっていたら結局自分ひとりぼっちになってしまいせっかく周囲があるのに周囲を活かしていくことができないのです。

今までの学校や組織の刷り込みのせいか、常に周囲の立場や相手の顔色ばかりをみて自分がどうしようかと決めていたら受信することばかりで自分から発信していることにはなりません。自分自身が一体何をしたいのか、どうしたいのかということを自問し明確にし、納得していけば周囲は必ず引き寄せられその人に力を貸してくれるのです。

自然を信じるというのは、周囲を信じるということで、周囲を信じるには、自分を信じるということです。そして自分を信じるというのは、自分のやりたいことを遣り切るということです。遣り切ることが増えてくれば次第に人は悔いのない人生を歩み出すことができるようになります。

そうなれば、自分を中心に周囲との共生が成り立ち人生を引き寄せることができるのです。まず自ら自らのやりたいことを明確に、自らが発信していくことで世の中の絆や結束、その繋がりを新たに広げていこうと思います。

天の心を学ぶ時機

もともとの自然は待つことを知っている。

花を咲かせては虫たちが来ることを待っている。
呼吸をしては、生きることを知っている。
日に太陽が顕われ、日に月が顕われるのを待っている。
日照りの後は雨が降り、暑くもなれば寒くもなるものを知っている。

あるがままのことを知りあるがままに待つということは信じるということ。

まるで何を知るのかと問われれば、自然に知るのだと言い。
まるで何を待つのかと問われれば、自然に待つのだと言う。

自分以外のものの偉大な働きによって生きているということ。
知らない自分と待たない自分がいつも不自然に連れ出しているのです。

自然と共に生きていくということは、自然と一緒でいるということ。
それは自然の心でいるということでもあろうと思います。

人は情動でバランスを崩し、すぐに魂の故郷を忘れますが日々の暮らしと一体になるとき、
空の雲の流れるのを眺め、水の清くせせらぐのを聴き、風が透き通っていくのを感じ、光がキラキラと眩いばかりに広がって染みていくのを観ていれば自然を知り待つ心と出会います。

嗚呼、不思議で霊妙な自然というものの暮らしに包まれている私のかんながらの道。

新しい季節の音が遠く彼方から聴こえはじめてきています。
今は天の心を学ぶ時機、日々の御慈愛と真心、誠に有難うございます。

 

安心立命

人は誰でも生まれてきたときはやりたいことを持っています。

3つ子の魂というように、幼い頃は魂がむき出しになっているからそれを見守っているとその子が一体どうしたいのかがあるのです。

その子の個性や人格というものは、その子がこの世でやりたいことを証明しているともいいます。こういう生まれながらに持っているものを智慧ともいい、その後に次第に人は知識というものを観に着けて魂が分からなくなってくるものです。

そう考えてみると、やはり幼児期というものは大切でこの時期にどのように過ごしたか、どのように周囲がやりたいことを実現しているかを実感することはこの世で自分も同じようにそう生きることができると自信を持つことにも繋がるからです。

もともと人は自分の力で生きているのではありません。この身体もそうですが、呼吸や心臓の鼓動を含め、空気や水、光などといった周囲の御力で活かされているいのちともいいます。

こういうものを実感し、自分が何をしていればどのようになるのが自然であるのか、そういうものを体験することで子どもたちは後の自らの幸せを得ていくものだと私は思います。

幼い頃に、本物に触れるというものは、その子自身が安心立命できるようにするためにとても大切なことのように思います。

自分がどうしたいかと自問するとき、哲学をしそれを現実に化成するときに智慧が出ます。その智慧を感じることは、自らの魂の向かう先、その使命を実感することになるのでしょう。

常に答えは己の中から出づるものだと気づき、気づきを気づくようないのちの運びを謙虚に味わわせていただきたいと思います。

智慧の出逢い、魂の邂逅に深く感謝いたします。

自然体に生きる力

先日、カグヤの全体会議のお昼ご飯実践の団ランチにて自然農の野菜を皆で食べました。

これは肥料も農薬も水も使わず、種を蒔いて周辺の草を最初に敷いただけであとは一切なにもしていません。一般的には、耕したり水を毎日かけたりといろいろとして育てているのでしょうが、私の実践している今回の自然農の野菜は本当に全く何も手を出していません。

それでもとても立派に味の濃い、個性が光る素晴らしい実をつけてくれました。

最初はこんなにも楽でいいのだろうかと心配するほどでしたが、次第に周囲の草が生えすぎたり虫がたくさんつくとこれはこのままではダメなのではないかと心配になり、心境としていろいろと手を出したくなるのですが、それをぐっと堪えて信じて待つのです。

すると不思議なことが次々と起きて、竟には自然が色々な奇跡を見せてくれるのです。

一見、何もしていないと思われがちなこの自然農ですが何もしないで育つことはありません。自由放任と、見守るのは外見上は似ていますが内容はまったく異なるのです。

そもそも何か余計なことをしたがるのは、そのものの存在を丸ごと信じようとしないからです。

昨日もある園長とのお話の中で、園のある子が遺伝的に障がいがあり実際の年齢よりもゆっくり育つそうなのですが、保護者が「御蔭で子どもはこのように発達するのかと本当に子どもの発達が良く分かります」という話をお聴きしました。遅い御蔭で、親も長い時間、健やかに発達していく子育てを存分に楽しむことができ、発達を観て学び楽しむことができているのです。つまりその子はゆっくり育ちたい親もゆっくり育てたいと思って互いに生まれてきたのです。

つまりは、それにはそれの善さが必ずあるということなのです。

しかし人はつい不安からこうでなければならないと、否定的に物事を見たり、まだまだだと過小評価するのは、それでは善くないという考えに縛られているからのように思うのです。

そしてこれこそ真の刷り込みとも言うのです。

自然に育ててみると、如何に余計な事をしない方がいいということは善く分かります。余計なことというのは疑うということで、それは知識の先入観や自我欲があるからすぐに人は疑おうとしそれが余計なことを考えて問題ばかりを招いていくのです。

つまりこれで善いではないか、これが善いではないかと、自らの心が実感しているとき、そのものの善さが自然に光ってきます。言い換えれば万物の生命が必ず持っている徳そのものが、顕われてくるのです。そしてそれが自然体に生きる力というものではないでしょうか。

自然体に生きる力というものは、そのものを丸ごと信じる事で湧き出てくるように思います。
自然を観ていたら大切なことは生きる体格よりも、生きる体質を善くしていくことです。

自らの魂心体が健全であるかを内省しつつ、太陽や月や地球が余計なことを私たちにしていないように自然と同じ実践を重んじ、その先生から学びながらこの世で生きるという歓びを謳歌し味わっていきたいと思います。

自問自答と今

自分がどうしたいのか、自分がどう生きたいのか、そういうものを自問自答という。

人はすぐに他人に自分がどうすればいいか、どう生きればいいかと先に聞こうとするものです。それを考えるには、自分の人生に向き合う必要があり時が流れるたびに今というものを自分がどう生きているのか、どうしたいのかを考えなくなれば次第に受け身になっていくものです。

常に今というものを生き切るというのは、自問自答を続けるということでありそれが本来の考え続けるという意味なのです。ここでの定義は、今を味わうのが考えるということなのです。

つまり、人はつい未来に思いを馳せたり、過去にしがみ付いたりと今というものを生きようとはしません。未来や昔のどこかのポイントに自分を置いては、今というものから遠ざかり現実逃避をしてしまうものなのです。

今の自分の状況が変わっていくことを嫌がるのは常に楽ができないと感じるからです。しかし本来人生とは楽しむもので味わっていくもののように私は思うのです。

そうだとすれば、今というものを嫌がるのではなく、今というものを受け容れ今に全力で在り続けるということこそ生き切っているとも言えるのではないかと思うのです。

そしてそれをするには、常に流されない今、つまりは自問自答を続ける事です。
自分がどうしたいのか、どう生きたいのかを自分に問い続けるように思うのです。

人生はあっという間です。

気が付けば、あっという間に人も流れ時も流れすべては移り変わっていきます。
だからこそ一度しかない人生、何よりも自問自答し味わっていきたいと思うのです。

恵まれすぎると人は時に傲慢になり、自分が流されるようになっていきます。
自問自答を繰り返しつつ、この今を愛しむように生きていこうと思います。

自立=共生

この世の中は、共生の原理があり成り立っているともいえます。どんな生き物も、もしも自分の力だけを頼りに生きていこうとすると、すぐに共生から外れ独善的に陥り天敵が顕われ破滅へと向かうものだからです。

このようになるのは、幼い頃から何らかの理不尽な権力に従ってきたり、学校をはじめ大人たちの権力などを見ては自分の力が必要なのだと刷り込まれてきたからともいえます。また、もともと歴史を観ていても徳のある政治を行う人は、常に謙虚に衆智を集めて平安の世を築いていきますが時の権力者は自らの力に驕り不遜になり乱世を呼び込み身の破滅を招いていくものです。そしてこれは、生き方次第では個々単体でも同じようなことが起きるのですが今の時代はそのように歪んだ自立を目指すことで生き難く感じている人たちが増えています。

しかしなぜこのようになるのかには、やはり刷り込まれたものがあるように思うのです。

時代時代にその形は変えていくのだと思いますが、力関係というものはどんな仕事であってもどんな人間関係であっても生じています。例えば行政から補助金であれ、大企業からの発注であれ、会社からの給与であれ、上から下へと降りてくるようなものはそこに力関係が生まれるのです。

お金という力を持つことで対等ではなく、お金の力で権力を持っているかのようになるのです。

高いお金を出せば、それだけ高いお金を持っているかのように接され、お金がなければそれ相応に接される、サービスというものもそうですが世の中はお金を基準に力関係が確実に存在しているのです。まるでお金があれば、自分一人でも生きていける、お金がなければ誰とも生きてはいけないのかとさえ勘違いするような社会を構成してしまっているのも事実です。

しかし、子どもを観ていると本来は人と人との関わりとは思いやりで成り立つのが本筋でお互いを尊重して共に生きていこうとしていることは感じます。役割がどうであれば権力で抑えつけるというのは親子でも兄弟でもその関係は破たんしてしまうのを生まれる前から知っているからです。

お互いがどんな気持ちで取り組んでいるのか、働いているのか、共に生きていくというのは相手の心や相手の気持ちをよく汲みとって通じ合うことで成り立つようにも思います。気持ちの通じ合いには、立場や権力を超えたものが存在していなければそうはなりません。

本音や本心で語り合うことは、周囲を信頼しようとする自らが共に生きようとする実践であり、その姿勢が謙虚さを生じ、衆智を集めることになるようにも思います。素直さというものは、自分ひとりの力を拠り所にするのではなく、御互いの立場や肩書など表面上の関わりを捨ててまず自分らしくいてもいい、自分らしくいることは認められていいのだと感じることからがはじまりなのでしょう。

社会で自立して生きていくためにやってきた大人の刷り込みは、つい自分を信じるために早く一人前になろうとしましたが、本来は周囲を信じる事、周りの仲間を愛すること、関わる人たちを尊重することを大事にしていくことが何よりも刷り込みを取り除く方法のように感じます。

私もかつてもっと力があればと自分を責めて、自分の力不足でと傷ついた自分をより一層傷つけて力を得てきた過去があります。それが刷り込みになり、当たり前の関係を築くことを恐れさせるようになったようにも感じます。

同じように一人で踏ん張っている立場の人たちが多い世の中のようにも思うのです。そうしているのは自分に自信がないからです、そしてこの頑張りこそが自信を喪失させているともいえるのです。

自立は、自分ができることよりも周囲を信頼することで自立、つまり=共生となります。真実は共生してはじめて自立であるのだとし、改めてこの権力を優先する今の人間社会の強烈な刷り込みから子どもたちを守るためにも自信を皆が持てるよう自分らしい日々に挑んでいきたいと思います。

善転回天

人は自分よりも相手を変えようとするとき、よく自我の感情の中に入り込んでしまうものです。それは自分の思い通りにならないと思うとき、気分がわるくなることを避けようともするからです。人は気分があるから感情のバランスをとれますが、それが時と場合ではバランスがどこにあるのかを見失ってしまうこともあるのです。

先日、ある園で先生から子どものことを考え過ぎて病的に悩んでいることを相談されました。その子どもの発達を観てみると特におかしなところはなく先生が一方的に子どもの何かの行動が気になり子どもを変えなければと思い込んでいるようです。

しかし本来、そういう時こそ自分の観方、自分の姿勢そのものが間違っているのではないかと気づくチャンスであろうと私は思うのです。私たちのソフトを使えば、子どもの方の問題ではなく自分のチェックするときの心境や観方がおかしいということはすぐに気づくのです。

しかしそういうことをせずに、日々に追われ何かの拍子に余裕を失うと、相手に求めすぎ不信や不安から自分は間違っていないのに相手はおかしいという視点に囚われているとも言っていいのです。そしてこの余裕がなくなる理由は、自分本体を主体として変えようとしなくなるからであり、周りや相手を変えようと思うその発想そのもの自体がとても受身で流されている行動であるからなのです。

そして本来、人はどこを中心に考えるかで考え方というものは生まれてきます。

自分を中心に考えるのか、相手を中心に考えるのか、全体を中心に考えるのか、極端に言えば、人間を中心に考えるか、自然や宇宙を中心に考えるかで、そこの基点、つまりは軸がどこであるかということに気づくのです。

その軸をどこに定めているかを原点ともいいます。

それを自分を常に軸にして物事を観ていたら、如何に全体がどうなっているかというよりは自分にとって正しいか間違っているかというその時の状況や気分で視野の狭い範囲の感情の中に入り込んでしまいます。

しかし、軸を原点に設置し、その原点がもしも全体、自然や理念といったものにすれば特にそれはおかしな起きていないと気づき、果たして自分がどうなっているのかと外側から客観視していくこともできるのです。

相手のことを信じるということは、丸ごとの世界そのものを信じることに他なりません。

例えばそれはいくら自分の中で受け容れ難いことがあっているとしても、それでもきっと世界は正しい、きっと周りは正しい、言い換えれば必ずこれは全てで丸ごと善いことなのだと、物の観方を転換し、それを福であろうと信じ転じることこそが原点のままでいることのように思います。

そしてこの原点のままでいるということを本質のままであるとも言うのです。

相手を変えようと思う前に、軸を転換すれば自分の方が変わった方が善いと思えるようにもなってきますしブレたことに早めに気づくことでブレをすぐに修正できるようにもなってきます。

閉じこもってしまえばなかなか難しいことでもありますが、周りを信頼して手を握り合い、共生の中で自分を活かそうと自分の姿勢を変えれば今まで自分の中で間違っていると思い込んでいたものが自分がゆとりや余裕がないのだと気づき自分よりも相手や周りの方が困っているように観えてもくるのです。

軸を何にしているのかで世界はそのみえ方を一変します。
どのような世界に見えるのかは、常にその人その人の生き方の転じ方で調整できるのです。

この世が善い世界なのか、それともよくない世界なのか。

それも人によってどうありたいかでいくらでも世界そのものを変えていくことができるのです。どうしようもない世界のようにも観えて悲観することもありますが、そういう時こそだからこそ自分の尊い役割があるし、いのちを輝かせて人生の醍醐味を味わい尽くそうと思える自分が存在できていると思えば、子ども達の住みよい世界にしていくためにも、 常に明るく善転回天していこうと思います。