虚無虚空の音楽~共鳴~

インドに訪問し、ラビ・シャンカールのことを思い出して深めてみました。

昨年の12月に亡くなっていることを知り、その偉大さを改めて再認識しました。このラビ・シャンカールさんとは地球交響曲の映画ではじめて知ってから何回かインドの音楽に触れることがありました。

ちょうせ先日からのインド訪問で、そのインドの風土や気候、人々の生活の中に流れるものに触れて改めて音を聴き直そうと思ったのです。

このラビ・シャンカールさんの奏でる音楽は虚空の音といい、かのモーツァルトに共通するものがあるように思います。今世紀の楽聖とも言われ、音楽というものの本質をシタールという楽器を通じて世界へと弘めて改めて音楽というものを刺激した方ではないかとも思います。

このシタールは、ギターのように、おおきな瓢箪と、弦からなる楽器です。その弦は7本あり、そのうち4本は、演奏用で残り2本でリズムをきざみます。さらに、その下に13本の弦があります。これを共鳴弦いい、この共鳴弦があるからこそ音に揺らぎがうまれます。もともとはこのシタールの原型、ヴィーナにはこの共鳴弦がなかったそうです。それをシャンカールさんが言うには昔の人は、鋭い耳をもっていて自分の力で、共鳴弦を聞くことができたのではないかとありました。

つまりはこの揺らぎの音を奏でることができる手と耳、そしてその虚空の音「アナハタ・ナーダ」を知覚する手を耳で行っていたということでしょう。このナーダという言葉は、もともとは「流れ」のことをいい目には見えないような確かな自然の流れを観てとり、耳で聴きとり、それを顕現させているものを音だと定義しているようです。

この音間の中にある無中の無、有中の有、つまりは有無を超えた無の音を奏でることができたというのはその流れを心がいつも捉えることができたということに他なりません。何もないように観える中から実際は確かに存在しているそのものの音を聴きとることができるということでしょう。
これを私は一瞬の閃きとも呼んでいますが、ある瞬間に降りてくるような感覚があるものがそのままに掴み抜き、流れの記録記憶にアクセスするようなものがあったのではないかと推察します。

自然に入れば、静寂の中にも確かに流れるいのちの音のようなものがあるように思います。それは五感を研ぎ澄ませていくことで次第に実感できるようになります。それが今の現代では、あまりも生活が偏り乱れバランスを崩し、自然ではない音を聞き、自然ではないものばかりを視て、自然ではないものを食べ、自然ではない香りを嗅ぎ、自然ではない光を浴び、自然ではない言葉を交わし、自然と離れすぎた生活をする中でそのかつての五感も六感もバランスも消失してきているのでしょう。

こういう本物の音に触れることは、自分の感覚を呼び覚ませていくとても貴重な道具の一つであろうとも思います。神社でもそうですが、かつての音楽、自然で奏でる音楽を聴くことで私たちの中に確かに流れる本物の音、虚無の音を学びつつ畏敬を感じて一体感を味わったのではないかと思います。

インドには確かに流れている真実の文化や道が存在していました。

その聞えない音や見えない光を正しく視て、正しく聴いていく修めることが今後も課題になっていくように思います。仏陀の八正道ではないですが、それは私にしてみれば「流れ」を感じる力を養う道のように閃きがありました。

今後も自然の音を、虚無、虚空の音を聴ける真心を磨いていこうと思います。