被災地と震源地~心がけの妙~

先日、問題の本質を見極めるのに身体で考えてみるという機会があった。

自分が凝り固まっているというのは、どこかに自分でも気づかないような不自然になっていること、つまり偏って力んでいることをいうのは先日のブログで書いた通りです。

この力むというのは、自分の我が強くでてしまい保身やメンツ、その他の不安からどこかに力が入り過ぎているからバランスが取れずそこの筋肉が収縮しそれが凝りになっていくのです。そしてその凝りだけをいくらほぐしてもまたそれがまたいつも通りに凝りはじめるのは、水たまりだけの水をいくらほぐしてもそのうちに元の水たまりにまた水がたまってしまうかのように部分最適ばかりやってもいつまでも解消されることができません。

身体で言えば、全体最適というように凝ったところだけではなくその震源地がどこであるかというのを見出していくために身体全体を調べていく必要があるからです。震源地と被災地の違いではないですが、どうしても余裕がなくなると被災地ばかりに目がいきますが本来の震源地はどこにあるのかを正しく見出していくことが対処療法ではなく根源治癒になっていくように思います。

身体でいっても、肩こりの問題が足元にあったり、頭痛の問題が内臓であったり、実際は全体をよく観てみないと分からないからです。自分の中で治ったといくらいっても、震源地が其処に在る以上、また時間が経てば同じところが出てくるのが世の常だからです。

先人たちの地震の対策に色々と思うことがあります。

どこまで津波が来るのか、過去の人達がどこまで体験したのかそれを神社を設置し語り継ぐことで子々孫々へ同じことが起きた時の対応を示しているのです。決して津波が来るからと下流に住まないというわけではなく、そういうことが必ずあるから日頃から怠らないようにと伝承していくのです。

これは長く深いところで出来事を洞察しているからこその根源治癒法の一つであろうとも思います。西洋的な対処療法もいいですが、何が根源治癒なのか、考えてみる必要を感じます。

そう感じても、やはり機会をどのように活かすか、その活かし方にその人の心がけがでてくるように思います。自分の状態を正しく知るには、まず自分から肩の力を抜いてリラックスして心を開いて委ねるというような良心が出ている状態をつくるのが先決です。

最後に、ちょうど安岡正篤氏(東洋人物学・致知出版社)の言葉に学びとりたいと思います。

「日本では、観音信仰に次いで地蔵菩薩の功徳がいろいろ説かれておるが、「多逢(たほう)勝因」は心掛け次第で可能である。自分一人ではなかなか結ぶことが出来ないけれども、逢うことはできる。いや、自分を取り戻すためには、逢う必要がある。つまり、人間は出来るだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物、そういうものにバッタリ出くわすことを考えなければならない。これを「多逢勝因」という。」

人は心がけを重んじていけば、様々な機会に回り逢いその機会を活かすことでより深く学んでいけるように思います。路を歩む中で、同志に出会い、師に出会い、友に恵まれることこそ人生の幸せや福を味わっていく機会の兆しのように思います。

日々の心がけ次第では、多くの人達の思いやりの中で安心して暮らしていけるように思います。足ることを知るのも、感謝をすることも、それが活かそうという心がけから来ているからです。力むときはどこか不自然であるとき、そういう時は心がけから立て直し出会いを重ねて歩んでいくことが処世かもしれません。

智慧は、心がけからはじまり心がけに終わるように思います。

日々修練できる場があることに感謝いたします。