心耳

最近は、テレビの影響とかいう言葉も聞かなくなってきました。

一昔前は、テレビを見る事で考えない子どもになるとか、テレビの影響で洗脳され脳が働かなくなるとか言われていたことがあります。これは、一方的に聞くとか見るとかを続けていることで、情報量の多さで心頭が麻痺してしまうようなことであったように思います。

そのせいかどうかは分かりませんが、聴聞ということが分からない人が増えたように思います。

聴聞というのは、聴くという字と聞くという字が入っています。聞くというのは、情報をそのままに感じ取っていくときの聞くで日々に様々なことを聞いては知るというように情報を処理していきます。もう一つの聴くというのは、自分から疑問に思うことを質問したり自分の思いを相手に伝えたり、その瞬間瞬間の自他の心を感読しつつ通じ合うことをいいます。

心耳という言葉があるように、聴くというのは心が行うことであるから同時に自他の間にある真心を通じ合わせていくのです。その聴くというのは、単に聞いたから分かるのとは異なり、自分から主体的に相手を傾聴し、共感し、受容していることをいうのです。

人と話をするのに、心を遣って頭も合わせて丸ごと全部で行うことが聴聞なのです。つまりは聴聞するというのは、心から耳を傾け相手のことを理解しようと努め、きっと何か大切な理由があるのだろうと思いやることをいうのです。

浄土真宗の親鸞の記した教行信証にこういう言葉が残っています。

「楽んで世尊の教を聴聞せん」と。

これはこのんで釈尊の教えを聴聞していきたいという意味ですが、この「聴聞」の左訓に親鸞は手記で「ユルサレテキク シンジテキク」と記しているようです。

つまりは親鸞にとっての聴聞とは、許すこと信じることという実践であったということです。聴くというのは何を聴くか、それは同時に自分の心を映し鏡にして相手に透過していく聴くであるのです。そして聞くというのも、素直な本心本音でその人の良知が引き出されるようにあるがままの澄んだ耳で聞くということなのでしょう。

聴聞というものは、自分の心の耳が行うものです。

この心耳の実践こそが、人々の心を救い、導く仕組みになっているのです。
ものにしていくには、まだまだこの心耳を澄ませていかなければなりません。

日々の実践道場の中で、ミマモリングを通じて学び勤めていきたいと思います。

 

余韻の香り

人生観というものがあります。

その人が、どのような生き方をしたいか、そこに価値観があるのです。価値観とは、その人の選びたいこと、その人が生きているうちに何を体験したいか、何を学びたいかということなのです。

人は体験というものを通して人生を学んでいきます。体験をしないで、敷かれたレールを歩いていこうとすることもできますがそれでは自分らしい自分の人生を生き切ったことにはなりません。だからこそ、常識的には大変であっても遣りたいことを選んだり、周りから敬遠されるような困難な道であってもその道へと自分を推し進めようとする決心する価値もあるのです。

人生を遣り切っているというのは、自分の遣りたいと決めた体験を尊びそれに向かって素直に取り組んでいくことだと思います。それはその体験こそが役に立つということを実感することができるからです。

例えば時代というものを観て人生を省みるとします。すると、その時代の世代の役割というものがあるのです。その世代がどのようなものを先代から受け継ぎ、そしてその世代が何を次世代へ遺すのか。そこには使命があるように思います。

その使命とは、その自分に与えられた天与の使命を果たすこと、言い換えれば役目としての自分の体験を真摯に遣り切ってそれを学びその姿を譲ることのようにも思うのです。単に体験を遺すことが何よりも自分の役割を自覚できるという境地に入るのです。そうして残した自分らしい体験が子どもたちの未来の道を切り開くことになるのです。

このように体験というものが残るというのは、先人たちの人生を尊び感謝しているから実感できるものであり、そしてそれは自分が今、まさに心底からの自分らしい実体験をしてそれを真摯に譲ろうとするから観えてくる境地でもあるのです。

言い換えれば人生を遣り切っていること、そしてそれが何よりも役に立つということを自覚するに至るのです。

人は様々な才能を与えられています。この才能も自分のものではなく、天から与えられた才能です。それを自分の真から求めた体験に素直になって飛び込んで、そこから正直に学びそのものを有難く遣り切っていく人生を送ることそのものが真に役に立つということなのでしょう。

子どもを思う時、色々な大人たちが様々な生き方をしていますがその人らしく生きた証には必ず何かの余韻が香ります。その余韻の香りこそが人生観のようにも私は感じます。

自分がどのような余韻の香りを遺せるかは、真摯に体験を優先した証なのかもしれません。善い出会いをまた一ついただきました。いつも人生は体験してみることで出会いの有難さを実感できます。

感謝

日々練習道場

人は今から離れていくと信じる力が弱ってくるものです。

今というものは、全て必然ということを自覚しているならば今、何をすべきかに集中することができるものです。しかし、今に集中せずに色々と考えを張り巡らしたり迷ってしまうと次第に信じることができなくなり気合ばかりで空回りしていくものです。

気合が空回りしだせば、不自然になるからそこから体調を崩したり、怪我をしたり、もしくは一時的な感情に流されてしまったりなど色々な事件が起きるものです。

そもそも気合が空回りというのは、普段のことをどうしているかというものにつながります。

何かの時だけ力を入れようとしても、それでは肩に力が入り力んでしまいます。そうならないためには、日頃や普段を練習の場にしていなければリラックスして本番に取り組むことができません。

よく本番が練習で練習こそが本番という言葉がありますが同じ意味になるのでしょう。

そもそも本番や練習のどちらが本当かといえば、人生が本当のことなのです。

一度しかない人生道場の中では本番も練習もなく、その一度きりの人生をどれだけ遣り切っているか、日々を無駄にしないようにどれだけ真摯に努力挑戦精進したいかという毎日の実践が大切になっていくのです。

特に今、問題があるのならば自分では気づかないこともあります。そういう時、向き合う機会をいただくことができそこから改善し学び直すチャンスにしていくのです。

学び直しというものは、自分では気づかないものを気づくことに似ています。もちろん自問自答できても気づけるほどに素直になれるのならいいのですが、それを人に尋ねていくのが最も効果が高いように思います。それがコーチングなのです。

コーチングには、その直し方に技術がありその技術の中にその人の哲学、生き方、そして真心があります。どうしたら直せるか、そこにはその人の救済思想があるからです。

人は直そうとするとき、何を治すことが最も重要なのかを自覚することがなかなかできません。だからこそ具体的な方法や実践、いわゆる練習の繰り返しの中で体験をして尊い技術を身に着けていくのです。

技術とは一朝一夕に身に着くものではなく、何度も何度も試行錯誤していく中で培っていくものです。だからこその場数といった日々の研鑽と錬磨が必要になっていくのでしょう。

もちろん技術に芯が入っていなければ凶器になりますが、技術がなければだれ一人として救うことはできません。信じる力を入れるということは、その真心と技術の両輪が常に必要ということでしょう。

どこを練習の要とするかでその人の人生観が出てきます。

大切なのは人生道場の練習の機会を自らが探し求めていくことでしょう。
人生を向上させるものは、常に日々の鍛練にこそあり。

心技体、つまり真心、技術、姿勢、を省みてさらなる良知を引き出していきたいと思います。

遣って内省

内省というものがあります。

自分が本来のあるべき姿に対してどうであったという矢印を自らへ向けるものです。その反対は、外責ともいうのかもしれませんが矢印は自分以外のものへと向けるものを言います。

人は内省をしていなければ自信を持つことができません。経験を糧に、その経験が何であったかをふり返り、その意味を味わっていくなかで自分の内面にある自己への深い信頼が具わって来るからです。

逆に自信がないというのは、もしも上手くいかなかったらどうなるだろうとばかりを思い煩い、やらないといけないことをやらないでやるためのことばかりをやろうとしては何もやらないから内省ができず自他を責めては自己を信頼することができなくなるのです。

人はやる前に考えたりするのではなく、やってから思索思想を深めて哲学を持ったり、やってみてからその経験が何になったのか、その体験で何を学んだかと振り返ることで改善になり、その改善の積み重ねこそで自信をつけることができるのです。

今の人は、やる前にやろうとばかりに気合を入れてはやれないというサイクルで停滞することが多いように思います。これは学校の刷り込みもありますが、勉強したら答えがある、答えがあってはじめて勉強をするという考え方に囚われているからかもしれません。

本来、答えなどというものはその人が自らの自覚によって導きだすものだからやっていないのに分かるものなどありません。答えというものが自分だからこそ、やってわかるものなのでしょう。

つまり内省ができないのは、「やってないせい」であり、本来の内省とは「遣って内省」の順序なのです。

常に遣って内省であるかどうかを問うことだと思います。自問自答してもどうしていいか分からないと苦しむのは、それは単に遣らなかったからかということにハッと気づく訓練をすることが善いように思います。それを促す人たちの存在もまた必要のように思います。

なぜか分からないもののすべてはやったら分かるという真実。

人生とは、体験をすることで成長し、経験を積むことで役割を与えられるものなのだから大切なのは迷う前にやってみる事だと思います。迷ったらいけではなく、迷う前にいけというのが本当なのでしょう。

心で浮かんだことを、浮かんだ瞬間に決めるという訓練。

考動一致していくことが、何よりも気合ばかりを使わないでいいコツなのかもしれません。不安は誰にもあるものですし、どうなるか分からない未来など当たり前といえば当たり前です。だからこそ、何から心に浮かんだか、そして次の瞬間にそれを遣らせてあげようと自己を見守ったか、それを支える燃料は内省により充足していくというのが私の考え方です。

遣って内省を生きていきたいと思います。

国とは

国造りというものについて考えてみます。

そもそも国というのは、人間がどのように幸せに暮らしていけるか、共にどのような理念で生きていこうかというものの形や仕組みを顕しているものです。私たちが目指す理想の国家をどのように築き上げていくかという考え方です。

国家というのは、家の延長にあるもので家をどのように修めていくか、家族がみんな平穏無事に平和に暮らしていけばいいかを家長が願い定めそれを家造り、そしてその家を国造りにまで発展させていくように思います。

論語の大学に、「修身、斉家、治国、平天下」というのがあります。

よく身を修めたものが、家を調え、国を治め、そうして天下は安らかになるということです。等しく、どのような国にするかはその国の形を思い描いた人物によって決まってくるのです。しかしその人もまたいつかは死してあの世にいきますからその後のこともまた考えなければなりません。

そこで国の仕組みというものがあるのです。

昨日、奈良桜井市に居る自然農の恩師に導かれ学習しているとその国造りの仕組みを実感した気がしました。ここには三輪の大神神社もあり、その麓には卑弥呼の神殿や数々の国の姿が風土に今でも残存しています。

大国主の物語をふと思い出しました。因幡の白兎を助けた話、黄泉の国で蛇や虫たちと話ができた話、鼠の子どもたちを助けた話、兄弟の不正に義をもって挑んだ話、そして天つ神に国を譲る話、そこに大和の人柄を感じていましたが国造りの支柱もまたそこに起点があるように思えるのです。

そして古事記にも日本書紀にも、国造りで一人悩む大国主に海の彼方から光る啓示があり、ある詞を授けます。そこには「幸魂 奇魂 守給 幸給」を唱えれば、必ず国は為るというのです。

これは何かと私に問えば、農と医です。

自然農に漢方も同じく、国を造るということは人を造ることであるからその二つが必要なのです。人には、生き方を直すものが二つあり、そこには農と医がいるのです。この二つが壊れると国家が乱れてくるようになっているのです。

私には大国主の神話の中に、今の日本人が学び直すことが記されている気がするのです。

人心が乱れ国が乱れたことで大和というものを創業し直すのです。そこでどのようにすればいいかを遺しているのが纏向にあるように私には直観しました。

私以外にも、この国を憂う志士はいのちを天に誓ってそれぞれに立ってほしいと願います。
この大和の根本は私たちに魂の在り処を教えてくれるはずです。

本来の姿、国がどうあるか、その教えをもう一度、ここに学べばいいのです。

そうして個々の自覚を以って子どもたちに伝承するものを体現してほしいと祈るのです。

最後に、こう記したいと思います。

医には大医、中医、小医がある。小医は、病を治し、中医は人を直し、大医は国を治す。そのどれもは自分を修める指針、家を定める方針、そして国家の偉大な羅針であろうと思います。

遺していただいている偉大な大和魂に感謝します。

有難うございます。

宇宙の心的

先日、社内で「大切にしているもの」という題材でアクティビティを行いました。

皆で何が大切なものであるか、それは何か、共通しているものは、今優先されているものは何かなどを相談して話し合っていくのです。それぞれに話しを進めていく中で、御互いに大事にしたいと思っていることが出てきます。そこには、家族、健康、思いやり、愛、志、仲間、時間など、様々なキーワードが出てきました。

人は大切にしているものというのはどういうことか、それは失いやすいものではないかなどと話も出てきて、皆で考え直す素敵な時間を過ごすことができました。

私たちは天地の間で生きています。そこには目には見えませんが何よりも大切な経糸というものがありその経糸によって私たちは存在しています。例えば、先祖が一人でも欠ければ、そして出会う人が一人でも間違えば今の私は生まれていないのです。他にも、隕石が落ちたり大洪水があったり、過去の出来事が一つでも間違えば今の状況はないのです。

当たり前になってしまいがちですが、様々な存在が一つでも欠けたら存在すらもできないのが私達ですから偉大な思いやりの有難さの中にいるのです。

しかし人間というものは、そういう大切なことを見失って忘れてしまう生きものです。それをそうしないように人間は共に学び合いご縁をつむぎます。言い換えれば、ご縁があるということはその横糸によってはじめて全体を理解していくことができているのです。

人が人との関わりでもっとも素晴らしいのが、それを互いの関係性の中で思いだし学び直し、そして維持していくことができるのです。例えば、愛を学ぶためには愛を学ぶ一期一会の出来事を共有していきます。その愛を学び合うご縁を結ぶというのは、誰とでもできるわけではありません。他にも、仲間というものや志というもの、思いやりを学ぶとします。これも誰とでもできるわけではありません。

大切なことを忘れてしまっていて、見失ったものをもう一度お互いに思いだせるということ。思い出せることでいつまでも忘れないでいたいという宇宙の心的を実感できるのです。

出来事とは不思議なことで、その結果が良し悪しではなくそこで何を学んだかというものを内省すれば自ずから人は悟るように思います。そこに大宇宙の不思議、自分の中にある小宇宙の不思議を実感するように思います。

それは言い換えれば、分かれているものではない、つながりがきれているところがないという場所を実感することができるということです。

そうして人は大切なことを見失いそうになるとき、それを大切にしている教えに出会うのです。そして思いやりのある人たちがいつまでも忘れないようにと仕組みを遺すのです。

仕組みとは、自然のことかもしれません。

かんながらの道を歩む中で、この仕組みが何かを自然と先人の智慧から紐解いていきたいと思います。子どもたちに経糸の仕組みを譲っていけるように心の的を大切にしていきたいと思います。

真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。

循環するという意味

知識社会というものがあります。

私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。

二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。

物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。

人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。

それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。

しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。

生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。

答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。

人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。

むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。

そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。

「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」

永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。

有難うございます。

真心の稽古

論語に三省という言葉があります。

これは師が大切に座右にする言葉で知ったのがはじめでしたが、これを言ったのは曾子という孔子の弟子の一人です。曾子は大学を記した人物で、孔子の仁という思想の意味を「忠恕のみ」と説き、思いやりや真心を何よりも優先された人です。

ここにはこうあります。

「曽子曰く、吾(われ)吾が身を三省(さんせい)す。人の為に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信(しん)ならざるか、習わざるを伝うるか。」

これは私の意訳ですが、(曾先生が仰った、私はいつも自らの真心にふり返るようにしています。今日も人に真心で尽くしていたか、共に歩む友たちに接して真心から外れていなかったか、そして本当の真心を伝えていたか。」と。

いろいろな人の解釈もあろうと思いますが、私にはこれは常に自分が真心を忘れた行動をしていなかったという内省の自戒であろうとも思うのです。

つい私は立場の違いや、役目の違いで、相手に合わせて自分の接し方を変えてしまっているようです。これは優先しているものが、単に結果や立場に対しての自分というものになっているのです。

仕事で言えば、上下関係や利害関係、作業内容などで接し方を変えてしまうのです。そうなってしまうと、自分が何よりも大切にしていたものよりも形式ばかりを追求することになり本来の自分の使命を忘れてしまうのです。

相手がだれであろうが、その時間がどうであろうが、どんなことを相談されていようとも、自分が真心だったかどうかは常に別のことなのです。

本来は自分の真心や思いやりを優先していけば、真実を語るよりもそこに真実そのものがあり、本質を語るよりもそこに本心そのものがあります。人は共に協力しあってこそ、人の間で為したいことが顕われ、為ることを支援されるように思います。

自然の循環の中で如何に真心を尽くしていくかが私たちの日々の座右にしておくことなのかもしれません。そういうものの中にこそ真善美の調和があるように思います。

私には、聖徳太子の和を以って尊しとせよという言葉も、この論語の三省も、仏陀の慈悲も、キリストの愛にいたるまで、すべては異なる言い方をしたのみで、それはかんながらの道での直毘霊と同じことを言っているように感じます。

昨日は最後の最後にまたそういう気持ちをなくしてしまいました。

余裕も豊かさもそして真実も、自らの真心の実践の最中で味わい感じるものです。今日も仕切り直しし、真心を座右に、今日も学び直しができることに感謝し、人生道場で研鑽を忘れず、日々の真心の稽古を積んでいきたいと思います。

幸せの種蒔きという実践

人が生きるのに生き甲斐というものがあります。

生き甲斐とは何かといえば、生きることで歓びを感じる事です。

そしてどういう時に生き甲斐を感じるかと言えば、誰かの役にたっている実感がある時です。自分の存在が、人に歓んでもらっているとき、人は幸せを感じます。

しかしどうしても結果のことばかりを思ったり、相手がどう思うのかばかりを考えたり、自分のことばかりを思うと大切にしていることよりも目先のことを優先してしまうものです。

そういうことを続けていくと次第に歓びを感じるよりも、なぜ結果がでないのだろう、なぜ誤解されるのだろう、なぜ上手くいかないのだろうと不平不満に囚われていくものです。

長い目で考えたり、結果よりも意味を感じたり、自分の真心を遣り切ったり、全体が善くなることに尽力したりすることでそういう囚われから抜ける方法論もありますが、実際の自らの心は何を求めているのか、自らの心をどうありたいのかと向き合い、具体的な生きざまの実践にする仕組みを持つことで人は囚われにくくなるように思います。

仕組みというものは体制のことで、どのような体制で日々に取り組むのか、日々を生きようとするのかで自らの姿勢をも正していけるのです。もちろん、姿勢を正して体勢を善くしていけばそのうち体制もよくなるのだからどちらからでもいいのです。

四六時中自他の幸せのために尽くすような生き方や、四六時中困っている人たちのことに役に立とうと智慧を振り絞る中に自分の御役目があることを自覚していくように思うのです。

自他の幸せの御役目を与えてもらっているということは、日々の心を遣う機会を持つことのように思います。ないものねだりをしても仕方がないので、できることを積み上げていくこと、やれることは全部遣り切っていくこと、そういう中に相手からいただける有難うを噛み締めて幸せの種を蒔いていくように思います。

人は結果よりも大切なことを優先され、見守られることで自分の存在に感謝できるようになるものです。

存在を大切だと思えるとき、いつもそこに幸せの種に養分が注入されていくのを実感します。ご縁の大切さ、出会いの感謝、そういうものを忘れないためにもいつも相手のことを自分に置き換えて貢献していく実践をさせていただきたいと思います。

忙しい時こそ、大切なことを決して忘れないようにと実践を強くしていきたいと思います。