間~意思の力(パワーストーン)~

生きていれば死があります、出会いがあれば別れがあります、生き死にの間に魂があるように、出会い別れの間には縁があります。

人間はどちらか片方だけで物事を理解するのではなく、「間」の中で真実を捉えることができます。しかしこの間とは、思いの世界でありその思いの世界をどれだけ味わい尽くしているかで物事の深みというのが変わってくるように思うのです。

「意思」というものがあります。

意思はそのもののいのちの目的でもあり、そのいのちが何を託されているかということでもあります。子どもたちが日々に産まれ、無限の種子が宇宙全体にばら蒔かれる様にいのちは発展と発達を已みません。その中には魂があり縁があり、それを味わい盡している心があります。

目には視えないからと分かるところだけを判断していたら、自分の存在が分からなくなってしまうものです。目に見えないものを静かに省みる時間、明けや宵のような沈んだ謐かで清らかな中でそのものの心に触れることが自分の存在を確かめる妙味を慈覚することかもしれません。

まわりと共にあるいのちを忘れずに、日々にいのりたいと思います。

十全円満~光と闇~

世の中には光と闇があります、もしくは陰と陽という言葉を使います。光には光の特性(動)、闇には闇の特性(静)があります。これは表裏という関係ではなく、表裏のない同質のものです。

例えば、光があれば陰が発生します。光と陰があることでそのものは顕現します。宇宙に星がなければ宇宙を感じることはありませんし、宇宙がなければ星も見えません。お互いが存在し合うことではじめてそのものの存在が確認できるのです。つまりは光と闇や陰と陽ではなく光も闇も陰も陽も同質であるということです。

全てを十全に捉えるという観点があります。

それは光も水も空も風も土も同じものであるという考え方で全ては欠けているものは一つもないということです。私たちは物事を観察するときに、あるやないという見方をします。しかしあるとかないとか言っていると、十全であることがわからなくなってきます。

自分というものを中心にばかり物事を考えて観てはあるとかないとかを見分けていても、本来すべてを存在している宇宙自然の廻りのことなどは実感できなくなってしまうものです。欠けていないのであれば失っていないわけですから、なくなることがないという世界。

そういうやったことがゴミで消えるのではなく、それが巡っているだけであるという意識。あるかないかではなく、巡りゆくのだということを自覚するとき、人は初めて循環の理に触れ、自分がどう生きるべきかについて自問自答するように私には思えるのです。

自分が生きているうちのことだけを考えては欲を貪り、自分が死んでしまえば後は知らないというように無責任になってしまえば、巡っているいのちのことなどは考えなくなるのかもしれません。

人間はいのちある存在ですから、そのいのちは形を換えては様々なところを廻り巡ってまた戻ってきます。仏教の輪廻転生のように、いのちを殺しては食べてそれを排泄していく私たちのいのちもまた他の生きものを通じて地球の中を廻りつづけていきます。

いのちを粗末にするというのは、巡りを大切に考えないということです。そしてそれは分けて考えるからです。分けない実践というものは、自分を中心にばかり物事を考えずそもそも一つの存在なのだから自分の影響を自覚して生きるということです。

他人事にしない人生と言ってもいいし、自他一体にする人生と言ってもいいかもしれません。明日は我が身、あの人は未来の私であり過去の私だと思えるか、全てを自分事とできる思いやりの実践です。

光と闇があるように、人間もまた光と闇でできています。

十全円満そのものを分けさえしなければ人間ははじめて本物の人間となりうるということです。人間の持つ業の深さを沈み内省しつつ、いのちを輝かせて魂を磨いていきたいと思います。

 

毀す~シンプルにするということ~

日本には老舗と呼ばれる企業がまだたくさん残っています。それは理念を持ち、その理念を初心の高みで温故知新できる本質的な経営を実践する方々が沢山いるということでもあります。

伝統が残っているというのは、時代が変わっても大切にしているものがあるということでありそれはその時代に生きた人々が初心を忘れなかったという証明でもあります。世間では理念理念と言いながらも、実際は経営か理念かとそれを分けて語られていたり、もしくは理念理念と言いながらも経営に後付するような人たちが増えています。一気に拡大するか緩やかに長くやるかはその人の決断次第ですからそれは本人の選ぶところです。

しかし理念経営を思う時、本来は理念を優先し経営をするはずが、単に経営をするために理念を使おうでは本末転倒してしまう気がします。初心はあくまでも初心であり、初心を片時も忘れないでいてはじめて経営は正しいものになっていくように思うからです。

何百年も時代の篩にかけられて残るのは、いつも本物であり自然です。

それは自然界というものは、人工的に造ったものは脆く、自然に応じてできたものは永続しているからです。その永続の歴史の篩のことを伝統というのかもしれませんが、その伝統という言葉で私が好きな言霊があります。

「伝統が創造されるというのは、それが形を変化するということである。伝統を創り得るものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。」(三木清)

この方は昭和の哲学者で思想家ですが、伝統の創造とは伝統を毀すことであるという言い方をしました。この毀すというのは、単なる破壊のことではないことはすぐに分かります。壊すは物理的に破壊することを言い、そのものだった物を失うことを言います。しかしもう一つの毀すは、削ぎ落とす、削り落とす、私の言い方ではシンプルにするという言い方をします。

つまりは、伝統とは、時代の篩にかけてシンプルにする実践、つまりは磨き抜いていくということではないかと思うのです。

磨くというのは、そのものの徳を引き出していくことです。磨くことができることではじめてそのものの本質がより光りはじめます。より光るということは、時代の中でも光るということです。一体、何のためにやるのかを実行する人は夢を持つ人です。

夢に生きる人は初心を忘れることはなく、夢を持ち続けられる人は毀し続ける人だからです。

試練や苦労によって人生はそぎ落とされていき人格が高まっていきます。

毀すということは、自ら進んで苦労をするということかもしれません。
新たなメッセージを感じつつ、伝承が云わんとすることを真摯に学び直したいと思います。

信念会~ふり返り~

昨日、社内で新しい年を迎えて昨年の御蔭様に感謝とともに熊野神社に参拝し昼からは七草粥、また夕方からは一年のふり返りを兼ねて新年会(信念会)を行いました。

今年は書初めではなく、磨き初めという初実践もはじまり皆で貝に字を彫り込みその貝をピカピカに磨くという実践を行いました。磨ける仕合せ、磨いたら光という有難さ、何より磨いている自分自身が感謝に包まれるという体験をできたように思います。皆で磨き合えるというご縁もまた、天の絶妙な計らいかと思うと勇気づけられ励まされるのは同じように志した仲間がいるという安心感かもしれません。

また信念会では、一年間で約1万枚にも及ぶ写真の中から厳選されてムービー化されたものを観ながらふり返りを味わいました。毎日は、怒涛の如く過ぎていきます。充実していることも忘れるほどに様々な課題や出来事に遭遇します。

しかしふり返りを大切にしていないのならばどうしても目先の問題に囚われ、物事のマイナスな面ばかりに感情が揺さぶられたり、事物の不安な側面ばかりが視えてしまったりするものです。ふり返りをしていくと、実はとても有難いご縁であったとか、本当は見守ってくださった多くの方々の御蔭様であったとか、善い方、素敵な方、仕合せな方を観ては今の自分に対して天が与えてくださっているすべてに感謝することができるように思うのです。

人生とは旅のようなものです。

目的地に行けないことばかりを悩んでは不平不満を並べるよりも、旅をしている最中を楽しんだ方が旅をふり返ったときにまた行きたいねと感じるものです。旅はふり返りながら歩むことにこそ真価真楽があるということです。

奇跡に出会った喜び、仲間に回り逢う仕合せ、そういうものを分かち合うご縁がある。

ご縁を大切に素直に学べることに感謝して、精進を味わっていきたいと思います。

時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。

命維れ新なり~維新の本質~

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹の文を主役にしたものが放映されます。吉田松陰は優しく暖かく見守る家族に恵まれていることは松陰の過去の手紙から察していましたが、妹についてはあまり関心を持っていませんでした。今回の大河で妹がどのように松陰の影響を受けて生きたのか、私なりにも深めてみたいと思います。

吉田松陰は、孟子を使った講義を野山獄で囚人仲間に対して行いました。野山獄ではお互いの得意なところを学び合おうと学問を続け、その中で自らは孟子の解釈を語りました。その講義録を「講孟剳記」といい、完成したものを「講孟余話」といいます。

孟子は、江戸時代では禁書とされ社会秩序を乱すものとして読むことも禁じられていました。儒教は別名で「孔孟の教え」と呼ばれるのに、孔子は読むが孟子は読んではならぬというのはおかしな話です。孟子は、性善説を唱え人間の本性は善であると言いました。それに対して荀子は性悪説を唱えその反対を言いました。

しかし、本来は善も悪も一体であり真善と真悪は極め尽くせば最善であるのだから言っていることは同一のことなのでしょう。ただ解釈の仕方としては、孟子は惻隠の情という言い方をし、どんな人間も幼い子どもが死にそうならかわいそうだと思う真心が誰にもあるように人は思いやりを持って産まれてくるものだと言ったと私は解釈しています。

赤ちゃんが笑顔になるように、周りのことを思いやるようにできるのは人間は地球の中で見守られ多くのつながりの中ではじめてこの世に産まれてきます。生き物を殺して食べては存在しているのが私たちですから自然の慈愛は偉大なものです。

そう捉えてみれば、「人間の本性は善である」というのは言い換えれば「自然の本性は善ですよ」という意味になると思いますからこれは孟子の言う通りです。人間を含めて自然に生き活かされるものは全て善なのでしょう。

孟子は、孔子と同じく王道政治について語りました。今の時代の言葉にすれば、王道社會とはどういうものかを広め続けました。王道とは、人道の極みであり何よりも人間として正直である道とは何かを説いたのです。人間として正直であるというのは、お互いに思いやりを忘れずに助け合って見守り合う協力調和した世界の実践を行うことです。

それを君子とはどうあるべきかと、国を治める人たち(政治家やリーダー)に対して誠の政道とは何かを全国各地を行脚しながら民衆をはじめ国王へ教えを広めました。今も昔も人類は安心して暮らせる平和な社會を夢見てきました。その夢の実現をしようと語り掛けた教えは2500年を経ても燦然と光っているのはそれが本物本質であるからなのでしょう。

その大河ドラマの中で、妹の文が詠んだ孟子の一文がありました。

「庠序学校を設け為し以て之れを教ふ。 庠なるは養ふなり、校なるは教ふるなり、序なるは射なり。 夏に曰ふ校、殷に曰ふ序、周に曰ふ庠しょう、学は則ち三代に之を共にす、皆な人倫を明らかにする所以なり。 人倫の上に明にして、小民の下に親しむ。
王者の起る有り、必ず来たりて法を取る、是れ王者の師と為すなり。 」

私の勝手な現代意訳で申し訳ありませんが、(名君の居た世は常に学問をするところ全てにおいて正直正道を何よりも重んじ人としてどうあるべきかを明らかにしました。そうやって正直正道をみなで実践しているものであってはじめて民は王道を知り、それを広める王をお手本として正しい法に則っていきました。)と。

さらにここから「維新」という言葉が続くのです。

『詩に云う、 周は舊邦と雖も、其の命維れ新たなり、と。 文王の謂ひなり。
子、力めて之を行はば、亦た以て子の国を新たにせん、と。』

また現代意訳ですが、(詩経にこうあります、周は旧い国ではあるけれど、その命は維新されていると。これは文王が言うように徳を大事にして自らが実践すれば同じように国のいのちは新しく生まれ変わり続けるのです。)と。

「命維れ新なり」

正月を迎え、一年の新たな始まりに於いてこの「維新」という言葉。神道の式年遷宮のように「いのちが新らしく甦生する」ということを行うのは、それを実践するものたちの生き方や生き様、いわば道に由ってということなのでしょう。

孔子と孟子の行間からもう一度、仁義の本質を学び直してみたいと思います。

 

生活圏

最近、ベランダには雀だけではなくヒヨドリが飛来してきます。今までは気づきませんでしたが、鳴き声と様子を観察していてはじめてその鳥がヒヨドリであることに気づきました。

体験して観て不思議に思ったことを深めてみると、それは書物から学ぶのではなくそのものから学べます。

雀をはじめ、ツバメやヒヨドリはかつては人間が一緒に生活をする仲間でした。人間にとって害のある虫を食べてくれる存在で、庭木に実をつける木々を植えては季節の風物詩のようになっていました。

今では都市化された場所でやってくれば、糞をはじめ鳴き声などが煩わしいと嫌がられたり、野菜などを荒らす存在として害鳥のように扱われています。人間の都合で、害や益を決めてはそのものの存在を理解しなくなったのは寂しいものです。

以前、青虫とモンシロチョウの話で青虫は害虫でモンシロチョウは益虫というような話を聞いた時に人間の浅はかさを感じたことがあります。もともとは同じ虫であるのに、人間の都合で全部仕分けられてしまうということ。

本来の存在の意味や価値を人間の都合で裁いていくということの傲慢さを感じます。

ヒヨドリからしてみれば、急に変わってしまったのは人間の方です。他にもツバメや雀、また馬も牛もかつては身近に居て大切に仲良く一緒に暮らしてきたのに突如として急変して乱暴に扱いだしたのは今の私たちの暮らしが変わってしまったからです。

古来から、自分たちの善いところを活かしあい悪いところを補って共生していくという自然の智慧が便利さや人間都合によって失われていったのでしょう。

人間は自分が中心か、全体の中の自分かで考え方が異なるものです。たとえば、自分の部屋を家と思うか、生活圏で一緒に暮らしている範囲を家とするかではそのものへの思いやりが変わっていくものです。自分さえよければいいという発想か、自他は一体なのだから周りを思いやっているのかではその生き方や考え方そのものが異なるのです。

本来、自分だけで生きられるわけではなく周りがあって自分が在るのが本来の社會ですから社會のことを狭めてしまえばお互いに自分の都合だけを押し付け合うような排他排除の貧しい社會にしてしまいます。

そうではなく、周りに生きているものすべては繋がっているのだからその生活を守ってあげたいと思いやり受け容れていけば協調していく社會になります。

結局は、周りにいる生き物たちが絶滅していくのはすべて人間のみの社會が優先されてきたからです。周りの動物たちや生き物たちと一緒に暮らしてきた今までの生活をガラリと変えてしまったのはちょっと先の先祖たちです。

もう一度、今の環境の中でも工夫して共に暮らしていけないか、それは自分たちの生き方を見直すキッカケにもなります。日々は学びの連続ですから機会を活かして、環境を工夫してみたいと思います。

磨く③~にこにこ顔で命懸け~

磨くということをテーマに昨年から深めていますが、何をもって磨いているというのかを分からない人も増えてきているように思います。例えば、気付くことが磨くことといってもすぐに分からないのは磨き続けてみていないからです。

しかしシンプルに磨くというものを考えた時に、苦労というものが磨いているという実感がある人は多いと思います。自分を磨くというのは、自ら進んで苦労を求めていく生き方をするということです。

有名な故事に「若い時の苦労は買ってでもせよ」があります。これは若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。(故事ことわざ辞典より)

他にも類似している諺に、「艱難汝を玉にす」はじめ「若いときの力こぶ」や「苦労屈託身の薬」、「楽は苦の種、苦は楽の種」や「楽あれば苦あり」があります。どれも苦労にはとても価値があるという智慧の教えです。

苦労したことがない人は努力の味を知りません。なぜなら努力の味というのは苦労をした人にしかわからないからです。言い換えれば苦労のない努力では努力にはならないというのが本質だからです。

心身ともに耐え忍び、日々に心身揺さぶられながらも大義の実践を行うことが修行のようなものです。思いの力を使っては祈りの力を使っては、必死になって苦労をしていくところにはじめて努力があるように思います。

そしてその努力とは苦楽といった味わい深いものがあります。この苦楽は、たとえば忙しい中でも心を失わない時に得られた自分への褒美であったり、自分の不利益であろうとも誰かのためにと譲った後に残る余韻のように、または祈り思いやる相手が病気から平癒していくときの仕合せのようにその苦楽はとても深い味わいがあるのです。

人は頭で考えれば誰しも苦労は避けて通りたいと思うものです。脳みそはもともと苦労したくないから知識を得ているとも言えます。知性というのは裏腹で自分を磨きたくない理由にもなってしまうのです。

体験したものを気づき、それを学ぶときに得る知識は、自らが体験を本物にし自分の貴重な体験として自分のものにしていくために必要ですが体験しなくてもいいように便利さを求めては知識で補おうでは磨く機会をも損失してしまいます。

若いときの苦労の価値を自覚している人たちが、如何に若い人に苦労を与えることができるかが真価なのでしょう。自分が苦労したから若い人には苦労を与えたくないという人が増えているように思います。しかし、その苦労は振り返ってみると何よりもかけがえのない思い出になり、そしてその苦労があったからこそ努力の価値を身に染みて自信を持てるようになり、努力ができる有難さに感謝できるように思います。

誰だって苦労は嫌なものですが、苦労をしなければ本当の意味での楽しさが分からないのならば敢えて苦労を選んでいく、楽しい方を選んでいくという生き方がたった一度の人生を磨く上では大切なのではないかと思います。

単に苦か楽かという頭で裁く二者択一の判断ではなく、苦労の中にある真楽、楽しいの中にある苦楽を味わうことが若いときの貴重な体験ということなのでしょう。光陰矢の如くあっという間に時は過ぎていきます。

若かった時代も気が付けば過ぎ去り、その体験を遣って今の真剣勝負をしなければなりません。自他一体になれば相手に苦労を与えることは相手の仕合せを与えることになります、そこに遠慮もありません。気づいた時が勝負ですから、子どもたちに素晴らしい苦労の真価をたくさん与えられ伝えられる真心の人間に自分が近づけるように、にこにこ顔で命懸けの精進をしていきたいと思います。

循環型社會の本質~一緒に生きる~

昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。

何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。

しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。

循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。

それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。

昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。

今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。

そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。

一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。

子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。

循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。

視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。

視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。

今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。

一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。

観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。