心を磨く

人間は誰しも自分を特別な存在だと勘違いするものです。昔の言い方だと己を愛しています。他の言い方だと自我自利を優先するということです。自分のことばかりを心配してはそこから物事を考えます。

人間は自分がいれば当然相手が発生します。相手がいれば自分があります、これは相対観と言います。人間は我を強く持てば、彼我が強く表れます。自分の我「▢」の中に「人」が入り込むと「囚」(囚われる)と書きます。こうなると自分か相手かと分かれてしまい、相手を自分だとも思えず、自分は相手だとも思えません。人は囚われていると思いやることができなくなり、利己的で自己中心的で打ち解けない人になってしまいます。結局は自分中心という価値観こそが敵味方をつくりだし孤独にするのです。

例えば、御日様と御蔭様があります。私たちは、太陽がなければ生きていくことはできません。太陽が有難いことはこの地球上のすべてのいのちは体感しています、そして畏敬の念をもって御日様といいます。昔はお天道様という言い方もしました。見返りを求めず、いつも同じように朝日が昇り夕日に沈む、そしてまた翌日に出てきてくださる。そこに御日様の有難さを感じて日々にお祈りするのです。世界では太陽信仰がほとんどを占めているのもその有難さを常に感じているからです。

また同時に御蔭様という言葉があります。これは御日様に対して受け手の自分たちの心がどうなっているか、それは太陽があるから影がある。つまりはその陰の向こうに太陽があることを忘れてはならないという感謝の心です。人間は人間同士ばかりで自分のことばかりを相手をぶつけ合えば争いをうみ孤独になり自分も周囲も破滅に導いていきます。今のテロも戦争も、同根はこの御蔭様の心を忘れるところからはじまります。足るを知らず不平不満を並べては自分を被害者にし、相手を加害者にするという相対的な観念に縛られて囚われ続けて負の連鎖はいつまでも断ち切られません。ある意味、当たり前に満たされすぎて心が満たされないことが増えているのかもしれません。

しかしその連鎖を正の連鎖にするには、御蔭様であることを自覚し、自他はお互い様であると思うところに囚われの▢を取り払った人になります。この「▢」は自分の中にある大前提、つまりは価値基準です。そして「人」は、同じ方向をむいて手を合わせて祈る、「一緒、助け合い」の意味です。自分か相手かという相対観は、不信や疑い、孤独や独善の価値観に縛られます。しかし御蔭様という絶対観では、お互い様や絆、素直や一緒になどの自他一体の境地に入れます。

人生は良いこともあれば悪いこともあります。しかしそれを自分を磨く試練だと受け止めて、良いことはもっと善いことにし、悪いことは善いことに転じて福にしていくことが醍醐味のように思います。実際には、悪いことがあったからその体験が誰かの役に立ち、また善いことがあったからそれもまた誰かの役に立つ。悪いことから抜け出すことばかりを感じるよりも悪いことを転じたことで人の役に立とうと切り替えたり、良いことばかりを追いかけるよりも良いことがもっと善くなるように転じてそれをまた人の役に立てていこうと思う事にも人生の無駄のなさに感謝ができます。

利他行や下座行は、まさに御蔭様の実践であり御日様の有難さを学べる人間修養の要のような気がしています。

最後に坂村真民さんの詩を紹介します。

「手のひらと足の裏」(坂村真民)

利他行に
あけくれるひとの
手のひらの
うつくしさよ
きよさよ
あたたかさよ

下座行に
あけくれるひとの
足の裏の
こうごうしさよ
ひかりよ
ありがたさよ

手のひらと足のうらはどちらもぱっとは見えないところですが、その真心はもっとも顕れるところなのかもしれません。心を自ら開き手と足を伸ばすことを日本の神話では手伸ばし「たのしい」と詠むそうです。自分の今の生き方は「たのしい」かどうか、本当にそれでたのしいかと自問自答し、変化の方、たのしい方を選んでいくことで自他の境界にあるこの「▢」組を「人」にし、一緒になって「大」の真心の実践にしていけるよう心の精進を重ねていきたいと思います。