力を抜くことの意味

人は力の入れ具合で自分の状態を見つめることができるように思います。例えば、緊張すれば肩に力が入りますし、考えすぎれば目に力が入りますし、気合を入れ続ければ手に力が入ります。人のからだというものはとても正直で、無意識でも自分が何に力を入れるかでその力をコントロールして調整しているものです。

よくスポーツや競技、その他の運動技術を必要とするものにはすべて「力を抜く」技術というものを磨いていく必要があります。それは大きな矛盾の寛容であり、例えば”気は抜かなくても肩の力は抜く”とか、”心をリラックスしつつも、隙がない”とかよく名人や達人、トップアスリートたちは心身統一というものを大事に訓練しています。

最初に力が入りすぎる原因は何かと思うとき、そこには無理をしているということがあります。その無理とは何か、それは自分自身への執着のことです。力を抜くというのは、言い換えれば「自分らしくいる」ということです。どこかその人が自分らしくいることよりも、自分の周りからの目を気にしたり、上手くできないことにイライラしたり、自分自身であることよりも自分がやらなければならない自分像ばかりに固執するとその人自身がその人らしくなくなってくるものです。

そしてその人らしくないというとき、必ずどこかに力が入り過ぎているのです。

私の場合は、できないことを悩むよりもできることで貢献しようと諦めています。よく仕事は選ばず感謝で行うや、謙虚な気持ちで何でもできることはさせてもらおうと周りのために利他で生きる人はみんなその人らしくそして自然体です。我を押し通し、傲慢になり自分の力に固執して自分ばかり成長しようと考えてしまうと、そこに信は失われ余計な力が入るように思います。

自分の心を開いていくことや、自分から刷り込みを取り払うこと、自分から自分の我執を手放すことで人は余計な力が抜けていくのではないかと私は思います。

余計な力は時として、人を傷つけそして同時に自分をも傷つけてしまうものです。いっそのこと天才バカボンのパパではないですが「これでいいのだ」と全てを丸ごと受け容れてその中でも少しでも役に立てたことが有難いと謙虚になんでもさせてもらおうとするならばその人は必ず周りの人々の御蔭様をお借りして努力が実り理想に達することができるように思います。

焦りや慢心というものはすべて傲慢から発生してくるものです。私自身も上手くいくかどうかよりも御蔭様の有難さ、周囲の恩者たちへの感謝を忘れないよう、忘己利他の実践を大切にしていきたいと思います。

何度も何度も繰り返し教えてくれるのはきっと「あなたらしくなってほしい」という天祖の声を御縁が与えてくれているのかもしれませんし、「心をもっと周りに開いて自分らしくあってほしい」という真心の声をからだが伝えているのかもしれませんね。

どちらにしても自分を形成してきた完璧主義や評価の刷り込みがあるのだろうと自覚したら、周りをもっと信じて、できない自分をそのまま丸ごと認めて無理をしないことが一番です。時々の初心を省みる善い機会、ゆっくりと焦らずにじっくりと回復していくことを祈っています。