名誉の傷~トラウマ~

人は誰しもトラウマというものを持っています。このトラウマ“trauma”という言葉は、古代ギリシャ語で「傷」を意味します。フロイトが心的・精神的外傷のことをトラウマと名付けたところからきています。

人はかつて心的・精神的な傷を負うことで後遺症がいつまでも残っているものです。これは肉体的な傷と同じで、昔の古傷がいつまでも痛むように強烈な痛みを伴う怪我はのちのちまで感覚が覚えているものです。これを心や精神でも起きているとも言えます。

人はあまりにも強いショックを受けた時、それを自分の中で認めることができずに自分自身が乖離してしまうのです。昨日、自分と自身についてブログで書きましたがこの自分自身との関係の中で如何に認め合うことが必要かを書きました。実際には認めがたいことがあり認められないと拒絶するといつまでもその影響は引きずってしまうようにも思います。

自分との関係を認め合えなければ、どうしてもまわりも認められていると感じることができません。自分がいくら認めていると思っていても、周りは認めていないことは伝わります。その認められない理由の中にもしもトラウマがあるのなら、それがあることを自分自身が認め、周りにもトラウマがあることを伝えることで肩の力が抜けていくのかもしれません。

「傷」というのは、傷跡が残ります。完治したように見えていても、傷ついた記憶はいつまでもなくなりません。私自身も人間関係でかつて傷つき傷つけあい、自分自身を責めて許せなかったことで認めなかったことがいつまでも心の傷になり、現実で似たことがあれば胸が締め付けられ思考が停止し感情に呑まれ苦しくなって解離してしまうことが多くありました。生きていれば傷はつきますから、何度も傷を負っては前に進むことが嫌になることもあります。

しかしその傷の御蔭で、その後の人生を気を付けることができたり、また今までの以上に人を大切にすることが出来るようになったりします。自分自身の不注意から思いやりに欠けていたり、自分勝手な自我欲から大切な人を粗末にしてしまい傷つけたりと、自分自身が無意識無自覚でやってしまうことで人は互いに傷つけあいます。その傷つけあったことを未熟であったと認めていけば、その未熟であった自分を生長させて残りの人生はそこで学んだことを周りのためにとお役立てしていこうとすればその傷は名誉の負傷になるように思います。傷つくことを恐れてトラウマだとし諦めるのではなく、敢えて傷ついてでも前に進もうというのはその傷を負ってでも遣りたいことがあるという真心があるからかもしれません。

ドイツのショーペン・ハウエルが『名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。』と言いました。名誉の負傷は、傷ついた過去を学び直して善いものへと転じていこうといった主体的で幸福な生き方を選択するということです。

自分のトラウマを無意識に避けるのではなく、このトラウマは誰かの御役に立てると信じてそれを活かそうする真心、その方々にいただいた御恩を何かしらの困っている人に返していきたいという思いやりがトラウマをも活かすということになるのかもしれません。

痛みが分かる人は共感力が高い人ですし、痛みを知る人は他人の痛みにも優しく包み込むことが出来る人です。自分にはないといくら思っていても、過去の痛みはいつまでも心の中に遺っているものです。その遺った痛みを福に転じて同じような痛みの人たちに乗り越え方を伝えられるのなら、その痛みの御蔭様に感謝する日もくるでしょう。

すぐにはとはいきませんが、心で寄り添って痛みを分かち合えるやさしさと強さを自分自身で磨いていきたいと思います。何か意味があるといった味わい深い御縁に感謝して、傷を癒して傷を名誉に換えていきたいと思います。