本物の学習

物事に取り組むとき、それが「身に付く」かどうかというものがあります。この身に付くとは自分自身のものになる、体得し会得するという意味で使われます。私もよく上手くいかないのはやってないせいだと言います。やって内省という意味で使いますが、やりもしないのに机上の理論をいくら語ってもそれは理想と現実が乖離していますから結果には結びつかないからです。

この理想(真)と現実(実)を合わせて真実とも言います。この真実は種を蒔けば実を収穫することができる自然のように常に自らやった分だけがかえってくる道理そのものです。

教育や学問も同じですが、やらされた人は身に付くことがありません。人間は誰しも必ず自分でやった分だけしか身に付きません。なぜなら体験しないものを学習するということはあり得ないことだからです。頭でいくら分かった気になったとしても、それは自分で体験したことではありません。学校の教科書で学んできた人は、なぜか体験せずに事を動かそうとばかりします。しかし実際の学問の本質は、常に試行錯誤しながら挑戦し、それを内省し改善し自らのものにしていくことで学習していくものです。

本を読んだり知識を得るために学ぶのは現代になってからで、本来の自然で生活していた頃はあくまで自らやってみて実践した分を紐解くために知識を用いていました。つまりは文化を伝承し継承するために、自分でやって内省してみて「ほどいた」分だけを身に付けることができたのです。

今は自分で気づいていない人が多いですが、気が付けば「やらされてやっている」だけの人が多くなったように思います。理論ばかりを戦わせては現場に行こうともしない、自分でやってみてもないのにどうやったらいいかばかりをいくら考えても、それでは真実に辿りつくことがないように思います。

やらされるという刷り込みは、一見、自分も同意してやっているような錯覚を起こしますが実際は頭でっかちになっているだけで自らやっているわけではありません。手間暇や面倒、または大変な思いをしてでもそれでもやっている人はその遣った分だけが自分の自信にもなり、自分の体験として集積されていきます。自然が正直なように人間の体験も正直です。正直者がバカを見るのは一瞬だけで、長いスパンで物事を観察すれば必ず遣った人が成長し成功するような仕組みになっているのがこの世の道理です。

頭ばかりをあまりに走らせているとやりたくないことばかりを思いつくものです、それはきっと脳ミソがサボり症だからでしょう。言われたことでも何でも、自ら気付くためにやってみることが大切だと私は思います。

やってみて、そのあとそれが何であったかを振り返ることができるなら理想と現実は必ず一致してきます。エジソンのように失敗を繰り返してでも成し遂げようとする根気強さが必要なのでしょう。自らやらなければ失敗もありません、やらされても失敗にはなりません。そうではなく自らやった分は失敗もありますが同時に成功もあります。どうせやるのなら、やらされることは一切はずして自分からやってみてやった分を愉しんでいくことが主体性が発揮される本物の学習になっていくのでしょう。

常にうまくいかないのはやっていないせい、上手くいくのは遣って内省と言い聞かせて今まで沁みついてきて身に付けた刷り込みを取り払い本物の学習を上書きするためにも主体性を発揮しやりたくなるような「身に付く環境創造」を模索していきたいと思います。