実法りの道理

昨日は無事に自然農の田畑にて稲刈りをおえて稲架を終えることが出来ました。今年も稲と共に暮らし、有難く稔る御米を見つめながら季節を振り返ることが出来ています。

自然の手ほどきというものは、そこに真実があります。人間によりねつ造されて刷り込まれた世界にあまりにも浸かっていると、何が本当のことで何が自然で何が真実なのかが分からなくなっていきます。特に都市の中のみで生活をし、貨幣経済の中で効率ばかりを優先し日々に多忙で疲弊すると生き方が見えなくなるものです。

そんな時は、かつての祖先たちがいのちを繋いできた仕組みや仕業に触れつつ、心を古代に馳せて今を深く味わうことで本来の共生の意味や暮らしがある有難さに気づけるように思います。

今年の稲からの手ほどきは「手入れ」の大切さです。

今年は、昨年よりも田圃を拡大して倍に広げてみました。昨年と同じ要領で取り組んでみたのですが、どうしても倍になった分、時間もまたかかることで草刈りなどの手入れが半分になりました。すると、終わってみて収量を確認したらほとんど昨年と変わらないことに気づきます。

つまりは、いくら拡大しても手入れを怠れば手入れの分だけの収量であるということです。

自然界は正直で、本来自然の中に稲は存在しているのならば自然の量でしか存在しません。そこに人道といって、人の手が入ることで人が収穫できる量を増やしていくことができるのです。つまりは人が手を入れた分だけが実際の量に比例していくということです。

これは仕事でも同じで、丹精を籠めたり真心を入れて取り組んだ分だけは質量に比例します。それを怠り、拡大しても実際に手を入れた分しか結果も顕れないということでしょう。

この「手入れの法理」は、人道の法則でもあります。量を拡大するのなら、手入れを倍にしていくということ。それは作業を倍にするのではなく、心を籠める容量を大きくしていくことです。言い換えれば、意識を高めて念じていくということです。「稔」や「実」という字も、努力したあとに出てくる言葉です。手を抜くというのは、努力や真心を怠るということでもあります。

手を入れた分だけが必ず実法るという安心感こそ、天道地理の法則そのものです。

改めて自分が何を間違っているのかを気づけるのも、かつての暮らしの中ある生き方や働き方に照らせば自明するものです。自然からの学び直しというのは、何が自分が間違っているかを気づく道です。自分を存在させていただいている自然から、何が不自然で何が自然かを知ることは一生を子どもたちに譲っていくために大切な道理です。

私たちが主食にしてきた御米には「実法りの道理」があり、家祖アマテラスオオミカミの偉大な慈恵と真心が籠められています。その神家一家である私たちは、その恩恵に感謝して子々孫々へとその思いやりをつなげていくのが今の代を生きる私たちの御恩返し御恩送りでもあります。

自然を通して今一度自分自身を正しく見つめ、素直に、謙虚に実践を続けていきたいと思います。