家での住み方

すべての生き物は住み家があり、それぞれが御互いを思いやり住み分けをしています。先日ブログでいきものの鳴き声が時間帯で異なることを書きましたが、共生とは互いを思いやり尊重しあっていく和の心が解け合ういのちの道理です。

今まで地球上で私たちは御互いを尊重し合っていままで暮らしてきましたが住み分けが狂い、何度も世界を巻き込む戦争がおきて人間の争いはまだまだ続いています。

そもそも自分の住み家を大切に守り、住み家がいつまでも持続可能になるように丹念に手入れをしていたから私たちはその住み家を中心に生活が成り立ちました。特に農耕民族である先祖たちは同じ場所を何百年も動かず、先祖代々その土地で暮らしを成り立たせてきました。今では住み家が崩れみんな田舎を捨てて都市に出て、過疎地ではお年寄りだけで生活をする始末です。

本来の住み分けが機能せず住み家が衰退しているというのは住まいを持つ人たちの生き方が変化してきているからです。住まいを大切にするというのは、自分の心を大切にするということでもあります。住まいが殺伐としたり、暮らしから遠ざかっているというのは物が氾濫しなんでも粗末にして生きている生き方の現れとも言えます。そこには貧困があります。本来の豊かさは貧乏かどうかではなく、一つの暮らしの中に様々な心のゆとりや余裕があるということです。住み家があるのはモノとココロの両面が満たされる安住があるということです。

昔の古民具や、骨とう品などをみていたら物が大切にされてきたことを感じます。それは何世代も使われ、手入れされたものには何か大事な心が宿っているように思います。コンビニで簡単に買っては捨てている便利なものとは異なり、そこには暮らしの残り香が薫ります。

私たちは住まいの中に暮らし、住まいには生活があります。

その生活が物に顕れ、その生活が空間の中に表現されていきます。どんなものが集まって来るか、それは御縁です。これは人も同じく自分の成長と共に集まって来るものや大切にしてきたものが磨かれ輝きはじめます。その住居はまるでその人そのもののように人相が出て来ます。これを家相ともいうのかもしれません。そしてどんな御縁でそこまでたどり着いたのか、そこには天相、地相、人相といったタイミングや機縁に結ばれています。

住歴を大切にする真心は、自分自身の御縁を大切にする誠実さと比例するように思います。

そして「終いの住み家」という言葉があります。これの意味するのは最後に安住する場所が家ということです。心が安寿し澄む処、住み方そのものが家族家庭そのものです。

常にどんな一家でどんな家で暮らしていくか、それを創るのは自分自身の生き方です。家での住み方を忘れず、一家の暮らし、一家の初心を子どもたちに譲っていきたいと思います。