道志

昨日、侘び寂びの孤独について書きましたが孤高について少し書き足してみます。孤高というのは、シンプルに言えば一人自分の志を守る境地のことです。自分の志があったものを俗世間の価値観に迎合されてしまえば志を守ることができません。自分の志は自分の中にあるものですから、その志は自分で守らなければなりません。その守り続けている状態のことを孤高とも言うように思います。

論語に「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」があります。これは大軍であってもまとまっていないとその総大将を討ち取ることができるが、たとえ身分の低い男でも意志が堅ければその志を変えさせることはできないという意味です。これもまた孤高を表し、その人がもしも志を守るのならだれもその志を奪うのはことはできないということです。

志というのは自分との約束でもあります。自分自身がどう生きるか、その理想、道を決めたならそこに嘘をつかないということです。その志だけは失わないで守っていくのは自分自身の信念でもあります。

孤高とは志のことであり、志こそが孤高なのです。

志がある人は、自ずからその志によって道に出会い仲間に出会います。大事なことはその志を守ればいいのですが、実際には己に負けてしまうからその志が守れなくなるのです。己に負けまいと精進する人は、自分の中の志にいつかは気づくように思います。世のため人のためにと生きる人は、志によって自分が動かされていることに気づくからです。

そしてそれが道と志、道志に出会うということです。孤高は道志を顕現しますから、決してそれは悪いものではなく孤独も孤高も自分一人、己との正対なのです。

吉田松陰にこういう言葉が遺っています。「道を志したものが、不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」と。

道は過去から未来につながっていますから、それを今世の役目を果たそうとする人物が見て見ぬふりなどできるはずがないと。当世の自分だけの保身のために生きては将来のツケになるのをわかっていても何もしないなどで君子の実践学問などできるはずがないということです。

孤高とは、それぞれに道を実践するということでもあります。誰が見ていようが見ていまいが、自分自身が観ているのだから自分に正直に志に素直に取り組んでいくことで日々は孤高の仕合わせを感じられるように思います。

子ども達のためにも、孤高で生きること、道志を高めていきたいと思います。