発想の転換

人間には思い込みというものがあります。今まで生きてきて、どのような刷り込みを受けどのような常識を持ったか、そこがその人の先入観であり価値観でもあります。今までやってきたことの上に物事をいくら考えてみても、もしもそれがまったく今までと同じことでは不可能だと自覚するとき、人ははじめてそこで発想の転換ということに気づくのです。

しかしこの発想の転換に気づくには、よほどの衝撃を受け止める力が必要です。

以前、地動説を唱えたコペルニクスがそれまで地球を中心に世の中が変わっているという世界観を、太陽を中心に世界が変わっているということを発表しました。しかしそれまで信じられた天動説があるから、その後、同じように地動説を唱えた人たちは異端として沢山火あぶりの刑で処刑されていきました。世の中の刷り込みや常識を壊すということは、それまでの価値観の否定です。ガリレオも無理やり天動説を唱えるように圧力をかけられて従いました。晩年、「それでも地球はまわっている」と言っても、実際は世の中の常識や刷り込みが怖くて誰も真実を認めようとはしませんでした。人間というのはどこまでも自分中心、自己都合ですから真実すらもあっという間に書き換えてしまいます。

その後、科学が進み「明らかに」地球が太陽の周りをまわっていることが隠せないほどに証明され気づいてその常識や刷り込みは覆されました。真実が覆い隠せなくなったとき、世の中はその真実を認めるしかなくなります。それまでにかかった時間が如何に膨大か、それほど刷り込みは取り払われなかったということです。

これは今まで信じられてきたことが真実で、それ以外のことは真実ではないという考え方です。誰かが先に言ってそうだと言ってしまえば、そうなんだと何も考えずに鵜呑みにする、これを刷り込みとも言えます。物事の本質を見極める人は、刷り込みを信じず自分の感性を信じます。そして本質を突き詰めて、自分中心で物事を考えるのではなく「発想の転換」によって自然に全体を捉えるのです。

これができる人は、刷り込みを持たない人です。あるがままにありのままを素直に観ることが出来るのは知識で物事を判断するのではなく、智慧で物事を直感するのです。この智慧は、人間の知識を信用せず自然の姿を信じることに似ています。

自然がどうなっているのかを詳しい人は、そもそも人間の知識が自然に適っていない、理に適っていないことを見抜きます。自然に精通する人は、何が自然で不自然かが正しく見極められるのです。王道というものも同じく、本質的で本来どうあることがもっとも自然かということを貫く実践の道でもあります。そしてそれは己に克っているから己という刷り込みに囚われないでいることができます。

どんな時も人が行詰るとき、そこに発想の転換は必要です。

そして発想を転換するには、それまでの常識を一度すべて疑ってみる必要があります。また今までの自分の刷り込みに気付き、その刷り込みを外して物事をみることも必要です。そのためには、自分に矢印を向けて自分が間違っているのではないかという自分自身の刷り込みを一度疑ってみる必要があります。自分に矢印を向ける人なら、自分の間違いにハッと気づいてそこから発想の転換への道筋が出て来ます。そうやって素直に謙虚に刷り込みを取り払ったなら、何のためにやるのか、どの方法でやるのかは自然に照らして真実を考えてみるといいように思います。

ありのままに物事が観えるというのは、刷り込みを日々に取り払い続けることで実現します。刷り込みのままに知識をいくら入れても、それは刷り込みを助長するだけですから刷り込み自身が何かをまず考えることが刷り込みに流されないコツかもしれません。

私たちの本業はずっと刷り込みを取り払うことに終始しています、刷り込みを取り払う本物の技術こそが、これからの子ども達の見守る環境には必要不可欠です。

自然から学び直し、子どもから学び直すことも自分の刷り込みを取り払う方法論の一つです。引き続き、子ども達にあるがままのことを伝承していくためにも、本質は何か、真実が何か、何を行うことがもっとも自然で王道かということを観直し続けて実践を積み重ねていきたいと思います。