孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。