伝承の意味

私達は言葉を通してあらゆる知識を取り容れていきます。このブログも文章によってできる限り日々の出来事から気づいたことや問題意識などを書いていますが文字というものはとても便利なツールであるとともに、その便利さゆえに本来の本質が伝承されないということも起こります。

昨日も伝承について話をしましたが、伝承というものは文字や文章で簡単に伝わるものではありません。本来、まだ言葉がなかった時代、文字がなかった時代のことを思えば私たちはその時でも悠久の時を日々の暮らしから大切なことを子孫へ伝承してきました。

この伝承の本質について深めてみたいと思います。

そもそも人間は文字を使いますが、それ以外の動物たちは文字を使いません。私たち人間の特徴は、あらゆる道具を開発し道具によって発展をしてきた生き物だともいえます。その一つの道具として文字というものを開発してきました。この文字を造ってから人類は飛躍的に知識を交流させるようになり、今のようなIT時代になるとありとあらゆる知識を瞬時に便利に入手し活用することもできるようになりました。

しかし同時にその便利さというのは、常にその便利の陰に隠れている大切なことを失っていきます。例えば、今では火をガスやライターなどで簡単につけられる時代になりましたが昔の火のもっているゆらぎやぬくもり、癒しなどはそれと同時に失われてきました。便利さの陰で失われるものは、火というものの存在の本物の真価です。

これと同じように文字や文章が簡単に使われる時代になると、それまでもっていた本来のいのちの真価や自然そのものの存在をあるがままに直感するチカラも消失してきました。

今は自然のことを文字で説明して教える時代になっています。山を見て山と認識し、川を見て川と認識する。雲は雲で、氷は氷と言いますがそんなものは本来の山でも川でも雲でも氷でもないのです。

自然をそのままに理解するのに言葉は必要かといえば、むしろ言葉は必要ありませんし文字も必要ないのです。

その便利の陰に消えてしまったものをどのように取り戻していくか、ここに民族伝承の鍵が私はあるのではないかと思います。文化の継承や伝承は、この無文字の世界、無言葉の世界、言い換えるのなら「無」によって行われるものです。

この「無」をどのように体験してもらうのか、そこに日本の精神「場」や「間」や「和」の伝承の仕組みが存在していたと思います。子ども達が言葉や知識だけではわからない物を体験させることは何よりも大切です。そしてその中に私たちの先祖から連綿と続いて繋がって結ばれてきたものをがあることを忘れてはなりません。

その先祖の存在こそが私たちのアイデンティティそのものであり、その先祖に感謝しているからこそ安心して未来永劫仕合わせに存在していることができます。

こういうものを文字で書かなければならないということは矛盾そのものですが、現実を受け止めつつこの時代にどのように初心伝承していけばいいか、まだまだ学び直していきたいと思います。