幸福な目覚め

人間は同じような境遇にあっても同じように幸福を感じるわけではありません。例えば全てを持っているような人であったとしても、ある人は仕合わせを感じてある人は不幸だと嘆きます。これは貧富でも、境遇でも関係なく人は心と精神の持ち方次第でどうにでも見え方が変わるからです。

アメリカの教育者にデール・カーネギー氏がいます。自己啓発をはじめ、自分を自覚し目覚めさせるためにあらゆるプログラムを考えた方です。どのように生きるか、幸福とは何か、そういうものと向き合いそれは自分の考え方次第であるということをあらゆる角度から話してくださっているように思います。

「同じ場所で同じ仕事をし、名声も財産も同じような二人の人間がいても、一人は幸福で一人は不幸だ。理由は精神の持ちようが違うからである。」

「幸福はあなたが何を持っているのか、あなたが誰か、あなたが何処にいるのか、あるいは、あなたが何をしているのかで決まるものではない。ただ、あなたが何を考えるかで決まるのだ」

幸福とは何か、それは精神の持ち様であり何を考えるかといいいます。そして「幸福になりたければ、見返りを求めるな。ただ、ひたすら、他のために尽くせば良い。」ともいいます。「見返り」を求めて他人のために尽して自己満足に終始している人たちが多い中、見返りを求めることをやめて盡せというのは真心のことです。

そしてそれが出来ないと嘆く人にはこう励まします。

「気のふさいだ馬を見たことがあるか?しょげかえった小鳥を見たことがあるか?馬や小鳥が不幸にならないのは、仲間に「いいかっこう」を見せようとしないからだ。」

自分自我中心になればなるほどに周囲に自分をさらけ出すことをしなくなって自分らしさは消えていくものです。いいかっこうを見せようとするから失敗を怖がり評価を気にし力が発揮できなくなります。全身全霊で打ち込むことは言い換えるのなら仲間に自分をさらけ出しているということです。そして自分を仲間にさらけだすからこそ気が開け、元気に活発に愉しく人生が豊かになっていきます。

そして自己を開発していくために大切な没頭していくことの重要性を説きます。

「もし人生に退屈しているなら、何か心からやり甲斐があると信じている仕事に没頭することだ。「この仕事こそ生き甲斐だ、死んでも悔いはない」という気持ちで働けば、夢のような幸福な人生が訪れる。」

悔いがないと思えるような真摯な仕事をどれだけ本気でやっているか、心技体を全て注ぎ込む鍛冶師のように命懸けで打ち込む中にこそ道はあります。道を志して生きる人は安易に楽かどうか、損か得か、もしくは評価を気にしていたら豊かさや倖せに気づく力が減退していくのでしょう。

最後に、「惺々着」という「目を覚ませ」という禅問答があります。デール・カーネギー氏も自己を目覚めさせ自分を改革するのは自分と説きます。自分が本当の自分に目覚めなければ誰もあなたを起こしてくれることはありません。せめて幸福で豊か、真摯に命懸けで取り組む仲間たちの前でいつまでも自分をかっこつけるような他人事の自分は持っていないでいてほしいと願うものです。最後にこの一文で終わります。

「人生とは、今日一日一日のことである。確信を持って人生だと言える唯一のものである。今日一日をできるだけ利用するのだ。何かに興味を持とう。自分を揺すって絶えず目覚めていよう。趣味を育てよう。熱中の嵐を体じゅうに吹き通らせよう。今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。

味わい深い豊かな人生を、子ども達に譲っていくためにも主人公であることを忘れず常に安易な眠りにおちないように常に目覚めて溌溂と生きていきたいと思います。

 

時機を待つ

生き物は植物に限らず、人間も自己修養することで成熟していくことができます。例えば稲でいえば、種を蒔き芽が出て花が咲き実がなります。それはすべてにおいて時期があります。

時機というものは、そのものが最も育っている時です。そしてその機は発達のタイミングのことです。花が咲く時機に花が咲かなくては実にまではなりません。その自然のサイクルに従って如何に育つか、それはそのものが素直に健全に実力をつけるために体験が必要なのです。

そして生き物は実をつけます、実をつけるというのは種になるということです。しかしその実が青いままでは収穫しても種にもならず食べることも出来ません。如何にその実が熟すのを待つか、それは時機を蓄えるということです。いくら結果を先に求めても、実力が備わるまでは青いままです。これを熟す前の状態、つまり未熟と言います。

未熟と言えばよく未熟者と言われ、愚か者や馬鹿者のように揶揄されますが本来はまだ熟するところまで来ていないというところなのです。

だからこそ熟すためには自己修養を続け、自分を磨き続け謙虚さを持てるよう人格を高めていくしかありません。そして陰徳を積んでは、その陰徳が蓄えられ陽報が訪れる時機をじっと待つのです。

自分磨きと言うのは、つまりは自分の感情に左右されずに初心を実践していくことです。自分で決めた方の生き方を、自我欲や感情に流されずに優先することができるようになるということです。

稲には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺があります。成熟し完熟すればするほどに実がなります。実が種になり次世代へと繋がるのは、そのものの生が一生懸命に育ったことの証明でもあります。

人間は自分の代だけですべてが終わるわけではなく、必ず後人や後輩たち子どもたちがその後を続いていきますから自分の代でいい加減なことをすることはできません。引き続き、自己修養をして時機を待ち精進していきたいと思います。

先に進む~先人の本質~

リーダーという仕事、指導者というものはその道で誰よりも先に進んでいる存在でもあります。この先に進むとは何か、それは別に能力が高いからではなく知識があるからでもなく、権力があるからでもなく、立場が上だから進んでいるわけではありません。先に進むというのは、自己修養を怠らないということです。言い換えれば、道を歩むにおいて誰よりもサボらずに真摯に向き合って学びこんでいる人物とも言えます。

例えば、サボる怠けるというのは楽を選ぶということです。自分がしなくてもいい方法や、自分が苦労を避ける方法を、安易に体験しなくてもいい方法など、自分自身で愚直に体験をし自分自身を磨くためにその出来事を向き合い深め研鑽を積んだりするのをしなくなるということです。もしもリーダーや指導者がそんなことをすると皆と一緒に一つの目的に向かって一丸となっていくことがありません。

誰かがやってもらって自分が楽をするのではそんな人には誰もついていかないからです。そしてついてこないというのはやらせているだけで何も一緒にもやっていないということです。みんなと一緒に進む中で先に進む存在は、その中の誰よりも真摯に現実と向き合い理想の実現に励み、苦労を惜しまずに努力をしているから周りよりも先に進んでいるのです。

この先に進むの意味は、リーダーや指導者の本質であろうと思います。自分自身がそれを怠りサボり、怠けていたら道から外れてしまいます。道というものは万人に存在する道理であり、その道を歩むものたちが仲間になって一緒に人生を豊かにします。一緒に旅をするのにその旅の目的を忘れ、楽して目的地にいくことばかりを考えていたら大切なものを失ってしまうものです。

人生の旅路において、思い出深く豊かで学びが深いものはみんな苦労することばかりです。しかしそれでも楽しいと思えるのは挑戦し続けることであり、精進を怠らないからであり、怠惰な自分自身に打ち克って道を極めて達しようとする日々の実践次第によるものだと私は思います。

人間には運がありますから、もちろんどうにもならないこともありますがその運を育て磨くのはそうやって先を進み徳を積んでいくしかありません。日々の苦労を感謝に換えて、日々の出来事を思いやりに換えて、自分自身と向き合ったうえで楽観的に御蔭様に感謝して生きていくのもまた実践の一つです。

今の時代は恵まれすぎて怠け心の方が育っていきやすい環境にあります。何もせずに楽して得たものの方が得をしたとかラッキーだとか思い込んでいる価値観も蔓延しています。苦労して眠れない日々と矛盾が魂を鍛え、人間関係のトラブルで感情と正対し精神を鍛え、大変さや疲れと休息が心と身体を鍛え、先人はみんな鍛錬して徳を積んできたのです。そうやって有り難い体験の中から日々の当たり前に感謝して、恩恵を忘れず、御蔭様をみては御恩返しをしようと向き合って反省していかなければいともたやすく日々に流されて怠けてサボってしまうものです。

果たして自分は道を先に進んでいるか、まだまだ未熟な自分を受け容れることができないでいます。

自分自身にそういう楽をする気持ちが出てこないか、妥協しようとする気持ちになっていないか、常に自分の理念から心を見つめ学び直し改善を続けて誰よりも強い熱量をもって道を実践しているか、子どもたちのためにも日々を省みて先を進めるように精進していきたいと思います。

自分を知ること

人間は自分のことが分かるまでに相当な時間を要します。ひょっとすると人生一生かけても自分というものが分からないものかもしれません。これは明治以降に個性という教育を受けてきたから余計に難しくなったとも言えます。古代においてはそのような自分という自覚もなかったときに発揮されてきた個性と、近代以降に個性と言われるものではその性質が全く異なるからです。

自分自身というものを知るには、本当の意味で人間のことをしらなければなりません。子どもを知ることも同様に人間理解が必要です。そしてその理解は自分を理解することで深くなります。そして自問自答といって人は自分と対話をしながら日々に決断していくものです。曖昧にしたままでいたら何も決まらずそのうち決まらない自分が分からない自分になっていきます。初心を忘れないことも、理念を優先することもそういう主軸を用いて自分自身の心を知り修正していく中で自分を理解していくもののように思います。

本来、自分というものがなかったらどうなるか、それは自然の一部になっているということです。私たちが目にする道具やすべての存在は自分と相対的に観ているものです。自分というものを思うことで相手がうまれ、自分というものと分けることで世界を分けます。

名前を持ち、相手と自分とを明確に分けてしまう。それ自体が人間の特徴でもありますが、自分というものを正しく理解するのはこの広大な宇宙の真理や自然の絶妙な法理など学ぶことが沢山あります。しかしもっとも学べることは、周りのために自分の真心を盡していくことのようにも私は思います。

自他一体というものは、自分が相手だったら、相手は自分だったらと自他を分けずに習慣を創りなおしていくことでもあります。そのうち、本当の自分はどういうものかは相手によって学び直します。相手を思いやるうちに自分の心境や自分の存在がどのようになっているのかが自明してくるからです。

人は自分のことが分からないのと悩むよりも、周りのために自分を役立てていこうと実践していく方が自分自身を自覚していきます。そうやって人は信頼関係を築くことで自分ということの本質に出会うのです。

自分のことは自分が考えていなくても周りがよく自分のことを知っている、そして自分の心配をしなくても周りはいつも自分のことを自分以上に心配してくれる。そういう根っ子にご縁への感謝の精神を持ち共生と貢献ができるのならその人は自立した人とも言えます。

自分という刷り込みを如何に脱却するかは評価をせず自他を裁かず、真心を盡して取り組んでいくことが何よりも肝要なのでしょう。引き続き、頼まれごとは試されごと、信頼こそ人間の根源の自己修養だと日々を練り上げていきたいと思います。

 

後世に糸を紡ぐ

聴福庵に布団を入れていますが、昔の懐かしい木綿布団をつかうことにしています。今ではほとんどがベッドでの羽毛布団が中心になりかつての馴染み深い木綿布団が消えていきました。私の小さい頃に、東北の母の実家で寝た木綿布団の感覚が忘れられません。確かに最初は冷たくまた重いのですが、布団に入ってから寝ているとなんともいえない心地よさに布団の有り難さを感じたものです。

今ではほとんどが布団は使い捨てになり、かつてのようなお仕立て直しや打ち直しというリサイクルや循環のシステムも一緒に失われました。安価でポリエステルなどの化学繊維が混ぜ込まれ次第に本物の木綿の品質も下がってしまいみんな木綿から遠ざかってしまいました。これは日本酒が純米酒から醸造アルコールになり発酵させずにアルコール添加に換えたことで次第に日本酒から遠ざかり西洋のお酒ばかりが人気になり昔ながらの酒蔵がなくなっていたのと同じ仕組みです。

大量生産大量消費、効率優先の社会では安くて大量に売れる便利なものを扱うことが価値があるような価値観に埋め尽くされています。数と量の論理ですから、少量生産少量消費、手間暇優先という昔から大事にされてきたものづくりの真心は全否定されてしまいました。

そうしているうちにかつての伝統まで絶滅に追い込まれ、後を継ぐ人もいなくなり技術も精神もまた品質も一緒に消えていきます。いくら物は今の技術で近づけても、かつての生き方は近づけることはできません。そろそろ豊かな社會の創造に向けて私たちはその生き方にお金を払う時代になってもいいと思います。

木綿の話に戻ります。

木綿というものは、アオイ科のワタのまわりにできる白い綿毛からとれるものです。このワタは古代からずっと人類が活用した道具で紀元前8000年くらい前の遺跡からも出てあるそうです。日本では799年に三河国へ漂着したインド人によって木綿布が伝来したと日本後記にでています。そして日本では戦国時代以降に急速に普及したといいます。

木綿が流通するまでは麻を使って着物などにしていましたが、麻は冬は不向きでこれを何枚も重ね着して寒さを凌いでいましたが木綿の御蔭で冬は暖をしっかりととれるようになったとも言えます。それに日本の風土は高温多湿でこの木綿はとても湿気を吸い取ってくれます。乾燥も早く日本の風土に適した繊維なのです。羽毛においては湿気をためる性質もあり、今のように気密性の高く空調が整備されている室内においては便利ですがかつての隙間の多い自然と一体になった家屋の暮らしの中では木綿がとても理に適った繊維だったのです。

その後、明治以降は輸入木綿が中心になり高度経済成長と共に日本国内の木綿は失われていきました。和布団もまた、畳や木造、和室の減少と共に次第に洋物に変わっていったとも言えます。

現在、古民家を通して暮らしの再生をしていますがかつて職人たちに手作りされたものはそのものの素材と対話しその素材の持ち味を活かし切っていました。今では大量生産し同じものを画一化してスピーディに効率よく機械で生産するようになってそのような持ち味や旬などと言った言葉も死語になってきました。

すべての自然素材には旬と持ち味があります。こういうものは同じく人間の個性にもあります。同じ人間を大量につくり大量に消費する、顔の見えない使い捨ての文化は決してモノだけにおきている出来事ではありません。自分たちが同じように扱われたくないものを自分がやっていては次第に自分の価値観もそのようになってしまうかもしれません。

古来からの素材を活かした大切な道具を、如何に今の時代でも活かして使っていくかはその人の生き方が決めます。伝統が大切だとか継承が大事だと色々といいますが、日々の暮らしの実践がどうなっているのか、自分自身の生き方をまず転換する必要を私は感じます。

引き続き子ども達に遺し譲りたいものを磨き直し、後世にその生き方の糸を紡いでいきたいと思います。

 

 

ハタラキ

自然には「ハタラキ」というものがあります。私たちの人間にも同様に働きがあります。これは動植物から無機質に至るまで存在している法理でもあります。

例えば、私たち人間でいえば動いているときには動いているハタラキがあります。それは各機能がそれぞれに活動して何かを成し遂げようとします。また同時に今度は休んでいる時にも休んでいるハタラキがあります。その両方とも大切なハタラキであり、一時も已むことがありません。

これは太陽や月、地球の運行なども同じです。昼は太陽、夜は月と動静を生き物たちは繰り返しますがそのどれも大切なハタラキがあり無駄などは一切ありません。つまりハタラキとはすべてのことに大切な意味があり、自分が動こうが動かざるが関係なく常にハタラキ続けている存在があるということです。

しかし人間は自分の都合でこれは働いたとか時間の無駄だったとか、休んだとかサボったとか自分勝手な判断をしてハタラキではなく単なる作業や業務のように 働きを勘違いする人もいます。

もちろん自分がやりたいことができたら充実した一日を送れ無駄ではなかったと思うのでしょうが、無駄であったと思った一日ですらその蔭に大切なハタラキがあったのです。

これらのハタラキは、一瞬たりとも已まずに常に偉大な他力と自力が合わさって全体の調和のために活動し続けます。これはカラダも同じく、常に何かをしてもしなくても私たちの身体は調和をとるためにいつもハタラキ続けています。心臓の鼓動も呼吸も、そして新陳代謝もすべて私たちのハタラキの中です。

そしてこのハタラキのことを私は「いのち」と呼びます。いのちの世界は常に已まずにハタラキますから私たちはこの世に来て活かされている存在になっているのでしょう。

だからこそこのハタラキそのものに感謝して、その恩恵の一部に自分があることを自覚することがいのちと一体になって生きることのように思います。太陽も月も地球も常にハタラキは感じられます。

いのちが輝き続ける姿をイメージすることで、ハタラキもまた観直に感じられます。引き続き、子ども達のためにもこのハタラキの存在を感じられるような環境を用意して見守っていきたいと思います。

自分の選択

人生というものは選択と決断によって今を切り拓いていくものです。今というものを振り返ってみるとそれは過去の一つ一つの自分の選択の結果が今にあるということです。あの時、違う選択をしていたらどうなったかそれは今を見れば想像がつくと思います。今が幸せかどうかというのは、過去の決断が今になっていいことになった、いや「善いことにしたか」というそれまでの自分の決断に伴う努力、その生き方や生き様が問われています。

人は一つの人生において自分ではどうしようもないことも発生します。また自分が思っていること以上のことが起きて自分の判断ではどうしようもないこともあります。そういう時、考えを超えて心の声に従うことや、魂の疼きに従うというような決断があります。

人は自分というものを考えるときに、自分の中にはたった一人の自分がいると思い込んでいますが自分の中にはもう一人の自分というものがあると私は思います。言い換えるのなら、心や魂といった生死を度外視して全体と繋がっている自分。それと自我や感情などと欲求や欲望を持っている個としての自分我です。このひとつのカラダの中に同居する自と分があるから人は悩み苦しみ迷い、常に今の選択をしていくなかでシーソーのように自己との対話が発生するのです。

自然界の野生の生き物たちにはこの自と分は分かれてはいません。そのものとして丸ごと一つになっているからおかしな行動も選択もありません。それは自然体のままであり、あるがままです。しかし人間は教育によって自我を持ち、自然とは「分かれて」自分というものを認識させられ持つようになります。それは本来なかったものです。先住民族や言葉を持たない文明とかけ離れた暮らしをしている人間たちはそういうものがありません。名前も持たず、上下もない、自然に地球に習い家族を形成し助け合って暮らしています。

私達はこの「個」というものを知り、人間文明を独自に創りあげてきました。それは過去の自分たちが選択をすることで今の社会を築き上げてきたとも言えます。時は流れ、時は進み、加速度的に私たちの選択した文明は地球全土を覆いました。今は、大量生産大量消費の中で誰もブレーキをかけることもなく自転車操業のように走り続けている世の中であって選択をする自由すらも失われてきつつあります。

人は心の声や魂の疼きを体験することで、自分ではどうにもならないような運命や宿命、そして定めのようなものを直感することができます。時代や時に関係なく、そのものが地球全体の循環の中でどんな役割を持っているかを自然とのつながりによって実感するのです。

人間が地球と一体になり風土に原点回帰しその中で文明を弁え生きることが出来たのならば、この今の人間文明の終焉の姿を変えてしまうことができるかもしれません。人間が本当に人間らしく生きる世の中というのは、頭でっかちになり個がバラバラに生きていく世の中を広げることではなくそれぞれが心でつながって共に生きていく世の中を広げていくことです。そうすれば無理にこぎ続ける自転車の回転を古来の水車のように緩やかに回転させる日も来るかもしれません。

人類は今、大きな選択を迫られています。

この今の選択が未来の今を創造するからこそ、自分が今選択し決断することを後悔したくないと思います。子ども達の未来は、今の私の決断と選択が決定づけます。常に選択を誤らないよう、本当の自分自信、あるがままの自然体になって世の中で自分の役割を全うしたいと思います。

適合適応

以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。

これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。

人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。

本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。

自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。

いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。

もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。

文化の原点

最近は日本文化について触れる機会が増えてきました。そのことからそもそも日本文化とは何か、文化というものはどういうものかということを考えています。すると文化とはその民族の原点であり、その民族の生き方であることに気づきます。この文化というものを少し深めてみようと思います。

まず広辞苑を調べると「①文徳で民を教化すること。②世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。③人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。」とあります。

また一説によれば、現代では当たり前に使われている文化という言葉は明治の文豪の坪内逍遥によって造られた言葉であるとも言われます。また英語の「culture」は「耕す」ことを意味するラテン語の「colere」に由来しているとし土地を耕すことから心を耕すことの意味で用いられるようになったと言います。そこから文化という言葉になっていったと言います。agriculture(農業)は畑を耕すという意味で用いられます。

いろいろな言い方をされますが英語のいう耕すという言葉がとてもしっくりくるのは、そこに文化というものを客観的に顕している意味が入っているからです。この耕すというのは、土を掘り起こしていく作業のことです。それは「深堀りしてその土を積みあげていく」作業のことです。また言い換えるのなら、人が土に近づき土に馴染み土に親しみ、土と一体になっていくことです。

これを人間に置き換えてみると、自分自身を深堀りしてその気づきを積み重ねていく行為に似ています。単なる知識を蓄えるのではなく、文字通り耕していると好奇心も面白さも愉しさも増えていきます。耕すという行為は、未来を創造して労苦を惜しまずに掘り起こして畝をつくっていく行為であり、その後そこに種を蒔けば実のある作物を育てて食べることができる喜びがあるのです。

このように育てる喜びにつながる土づくりこそ文化そのものの意味です。自然の風土の中に新しく入っていき開拓をして自分たちが順応し暮らしていけるような場所にしていくことでもあります。

文化という言葉ができるずっと前から文化は存在しているということです。そして日本文化は、先祖が川で禊をし草を払い穀物の種を蒔いたところからはじまっている神話もあります。

つまり文化とは原点であり、原点が文化であるのははじまりを知っているからです。初心というものが伝承される必要があるのは、その民族の生き方や暮らしが今に受け継がれているからです。結局は、私たちはある風土の上にあってずっと今でもその足元を耕しているだけであり、如何にその風土を活かしその風土の中で風土人として暮らしを創造しているかという存在であることを超えないのです。

だからこそその風土にあって、風土にないものは耕しているわけではないのだから文化ではないのです。この日本の風土でどのように暮らしてきたかは、私たちの先祖、今であればその暮らしを遺す天皇陛下や伊勢神宮などでもまだまだ残存しています。

自分たちの風土を自分たちが如何に掘り下げて積み重ねていくかはその風土の中に暮らしてきた先祖の意志と子孫の使命を感じます。引き続き文化を学び直し原点を子ども達に譲っていきたいと思います。

豊かな社會の創造

先日の藤森代表の講演で「自立は助けてもらうこと、協力してもらうこと」とありました。世の中では自立は助けてもらわないこと、独りでできることと教え込まれて刷り込まれていますが依存と自立が間違ってしまっている人が大勢いるように思います。

いつまでも持ち味を活かせないのは自分自身がいつまでも自立を勘違いしているからです。間違って歪んだ自立の刷り込みをどのように取り払うかが最初の関門になってくるように思います。これは「助けてください」と自分から言えるかどうか、また自分からいつも周りに損得を考えず積極的に尽力しているかどうかだと私は思います。

プライドが高い人や頑固な人、言い換えれば自立したいと刷り込みが深い人ほど人に助けを求めません。格好つけては助けを求めようとはしません、しかし助けを求めなければ周りとのつながりができません。人は他人に迷惑をかけている生き物だから、迷惑をかけないことを望むよりも迷惑をかけて感謝することの方が大事なのです。

そして迷惑をかけていることを自覚しているからこそ、御蔭様に感謝し御恩返しをしようと自分が周りに協力していこうとするのです。迷惑をかけている自分が、周りの迷惑を自ら引き受けるようになるのです。それが御恩返しになり、御互いの絆が深まり繋がりができ社會が形成されていきます。

今では、自分は問題を起こさずにキチンと仕事さえできて結果がでていれば迷惑をかけていないと思い込み、今度は周りが迷惑をかけるのを過度に嫌い迷惑をかける人を罵倒したりさげすんだり、いつも自分のことばかりを優先する人が自立している人などと勘違いしている人もいます。人が人に迷惑をかけていないことなどは一切ありえず、自分の知り及ばないところで本当に多大な迷惑をかけているのが人間です。

そういう存在だと自分から自分で自覚することが助けてもらい協力してもらうことが善いことであると納得することにつながっていくように私は思います。何もできない存在が価値がないではなく、何かできるから価値があるのではなく、自分の持ち味を活かして周りに貢献できているのが人間の本当の価値です。

先日、新潟での理念研修の中で重度の身体障碍者の方がお店の店長をしていた映像を見ました。車イスで動けないのですが、ひとつ商品がお客様に買ってもらえるととても嬉しそうで仕合わせな笑顔をしてくれます。社員たちはその笑顔を見たいからもっと商品を売ってはその店長に報告にいきます。

これは重度障碍者で笑顔しかできないではなく、その人の持ち味を活かしているのです。人は他人の善いところを見出しては、それを活かせばそれはその人の持ち味として周りに貢献できます。

如何に貢献できるようにするかは、その人が仕事が周りと同じくらいできるようになればいいのではなく、自分が思い込んだ結果を人並みに出せればいいのではなく、その人の持ち味を周りに使ってもらい、いつも周りのためにと尽力し続けて貢献すれば自ずから自分の持ち味を発見し社會の中で自立することになるのです。

依存というのは言い換えればいつも自分のことばかりに執着し自分勝手に我儘で周りを省みることもない状態になっていることです。感謝や恩返しなどもなく、御蔭なども忘れている状態です。社會の一員として如何に迷惑を善いものへと転換しているかは、自分勝手なことよりも周りと一緒に成長したいという豊かな社會の創造なのです。

引き続き、刷り込みを取り払うために具体的な仕組みを開発していきたいと思います。