強いチーム、真の優者

昨日、致知出版のメールマガジンの記事で日本代表で主将、監督を務めた平尾誠治さんの文章を読んで強いチームの本質を改めて実感する機会になりました。

そこにはこう書かれています。

「強いチームというのは、指示された通りに動くだけではなく、 イマジネーションというのを膨らませて、 それぞれの状況に応じて何をすればいいかを考え出すチームです。 これからは特にそういうことが求められてくると思いますね。 ルールづくりも大事ですが、 本当は一人ひとりのモラールが少し上がればチームは ものすごくよくなるんです。 決め事をたくさんつくるチームは、 本当はあまりレベルの高いチームではないですね。 僕はチームワークを高めるために、 よく逆説的に「自分のためにやれ」と言うんです。 結局それが1番チームのためになりますから。 みんなに、「公私混同は大いにしなさい」とも言うんです。 これは、一般的な意味での公私混同ではなく、 公のことを自分のことのように真剣に考えるという意味です。 個人がチームのことを自分のことのように考えていなければ、 チームはよくならない。これからのチーム論としては そういうことが大事になってくると思うんです。 ラグビーでも、いいチームは一軍の選手から 控えの人間まで非常に意識が高いですよ。 試合に出ていない人間までが 「俺はチームに何ができるか」ということを いつも一所懸命考えている。 その原点は何かとというと、やはり自発性にあるんですね。 これをいかに高めるかということが重要です。 これは自分の中から持ち上がってくる力ですから、 命令形では高められない。 これをうまく引き出すことが、 これからチームの指導者には必要になってきます。 また、そういう組織がどんどん出てこない限り、 新しい社会は生まれないと僕は思いますね。」

強いチームの定義とは何か、それは主体性や自発性とそして道徳心(モラル)があるということです。信頼し合ったチームというのは、それぞれに自分を律し、チーム全体のために自分を盡そうとします。

それぞれが大義や理念のために、出し惜しみせずに自分の力を発揮していく。そしてその熱意や情熱や行動力が周囲の勇気になり、その勇気がみんなの力になっていく。まさに一つの立派な人格を持った組織ができているということです。

本来、会社は法人といいます。人格を持った一つの塊です。その塊の人々が、如何に自らで共創し協働するか、そこには確かに個々人のモラルを磨く必要があるのです。

そのためにリーダーは、目的を明確にし、何のために行うのかという理念や理由を明確に示す必要があります。その目的に思いやりがあるか、感謝があるか、優しさがあるか、その目的さえはっきりしているのならば、比較や競争、そして目先の損得や評価などが気にならなくなっていきます。それがモラル醸成の本質なのです。

そしてリーダーはみんなが気持ちよく自分の天職に全うできるように、明確なビジョンを示し、みんなを導いていく必要があります。そのためには、日々にリーダー自身が「何のために」ということを自問自答し、その目的のためにモラルを磨いて自分を活かしていくことが肝要だと私は思います。

目的に生きる人はいのちに活気があります。

それは自分自身のいのちを丸ごと使う必要があるからです。それが自発性であり、それが主体性であり、自分の人生を自分で生ききり、自分の足で人生を切り拓いていく実感を味わっているからです。そしてそういういのちの強さを持つ人こそ、自らの中に道徳心を兼ね備えた真の優者になっていくように思います。

今の時代は、すぐに他人の人生をなぞる方が無難な生き方だという人が増えているといいます。敷かれたレールの上を歩くことは、無責任な人生を呼び込み、次第に自分を大切にできなくなるかもしれません。

子どもたちが自分らしく自分の人生を豊かに味わってみんなと一緒に仕合せに生きられる日々を今の私たちの実践を通して未来を切り拓いていきたいと思います。

遺志を継ぐ

日本は戦後に急激な発展を遂げた国だといわれます。これは戦後の生き残った人たちが、志半ばで斃れた戦友たちのためにと奮い立って努力してきた結果だとも言えます。

志半ばのことを遺志とも言います。この遺志とは、故人が、果たすことができないで残した志のことです。

人間はある意味で、志を最期まで見届けて死ぬ人の方が少ないように思います。一代では叶えることができないからこそ、継ぐ人が出ることでその志はつながっていきます。

そう考えてみると、この「継ぐ人」というものがどれだけ大切であるのかがわかります。誰でもいい、誰かが継いでくれればいいという安心感。そしてその遺志は、誰かが必ず継いでくれるという安心感。

私たちが子どもたちの未来を見守り、子どもたちに託していくように志も同様に託していくのです。

そして戦友や仲間というものは、身近でもっとも遺志を継いでくれる存在であるようにも思います。自分がやり遂げたかったもの、自分が実現したかったものを受け継ぐ人の志の養分にして叶えてくれるのです。

人は決して一人ではありません。

その連綿とつながっていく喜びこそ、共に生きる豊かさなのかもしれません。

子どもたちのために、人類の未来のために協力していきたいと思います。

問処の道得

「問処の道得」という言葉があります。これは「正蔵眼法」古仏巻にはこう記されます。

「国師、因僧問、如何是古仏心。師云、牆壁瓦礫。いはゆる問処は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を挙して、問処とせるなり。この問処、ひろく古今の道得となれり。」と。

道元禅師は、問処の言葉が、そのまま仏の道理の表現になるともいいます。つまりは、「自問自答」こそが仏との対話であるということです。

この自問自答には、深さがあるように思います。どれだけ透明な心で自問したか、そしてどれだけ信じ切り時を待ったかという深さによって得られる答えがが変わってきます。純粋であればあるほどに、時空を超え時節を超え真実に到達します。

歴史の偉人たちが純粋な心で取り組んだことは、何百年何千年を超越して私たちの心にその問いを与え続けています。そして私たちはその答えを探し続けながら日々に心を研鑽していくのです、

心の研鑽はまさにこの問処の道得のようです。

私も日々に早朝に起きては内省をし、問処をし続けます。自分自身の純粋な魂が何を臨んだか、そして心は何を味わったのか、頭はどのように整理したのかと、それぞれに一つ一つ問いを発していきます。そして自問自答を繰り返しまた新しい一日を迎えていきます。

この夢のような日々の中で、感謝に包まれながら歩むことができる日々と対峙しながらその意味を深めていくのです。まさにこの問処の実践をすることこそが、仏の道理になるというのは共感するところです。

問処の実践は、流されるけれど流されず、風に吹かれるけれど吹かれないというような今との向き合いが必要です。それはどれだけ心や魂の声に従って自分を活かしきったか、そして全体に対して目的を忘れずに初心を貫いたか、というような主人公としての主体性が必要です。言い換えればいのちを使い切る努力が必要です。

特に今の時代は、なんでも物がそろい溢れ、情報化の中で現実世界(地球の循環)から遠ざかる生活が増えてきています。だからこそなお一層、自然を身近に感じ、自然に近づき、自然と一体化していく努力がいるのです。

地球に住むすべてのいのちは、問処の道得を実践しているように思います。

子どもたちに道理が伝承できるように、自然の生き物たちのように今にいのちを使い切っていきたいと思います。

見立て文化

日本には「見立て」の文化があります。あるものを活かして、新しい価値を見出しそのものの出番を設けるのです。この「見立て」とは、「ある物を、他のものになぞらえて表現する技法」と定義されています。

古来から日本の伝統文化の中にはこの「見立て」を活かしたものがたくさん見られます。例えば、日常の暮らしの中で様々なものを見立てて遊びます。花瓶であったり、茶碗であったり、それは室礼の中にも観られます。

私はこの見立てこそ、時代の変遷の中でもっとも必要な力であろうと思っています。なぜなら、ある時まで価値があったものがあるときから途端に価値がなくなってしまうことがあるからです。

時代は、価値観と共に進化していきますからかつての価値は新しいものの発見によって淘汰されていくものです。これは自然の仕組みですからどうしようもありません。

それまでつけてきた力があるときに不必要になってしまう。残酷のように聞こえますがこれは誰にでも起きることです。しかしそれを転じて発想すれば、違う見立てが必要になったとも言えます。

今までの力をもっとこう使ってみたらいいのではないかと、時代に合わせてその力を別物に活かすのです。これが変化であり、新しい価値に見立てるのです。

自分の持ち味を自分でわかることはなかなかできません。しかし持ち味を見出す人がいることでその人の新しい価値を発見できます。まさかこんな使い方がと思うかもしれませんが、それがその時代に適合するときそのものは新しい価値に目覚め甦るのです。

普遍的な価値を持って居ればもっているほどに、その本物の価値は時代の篩にかけられても新しい価値を持たせ続けていくのです。歴史がそれが証明し、それを見出す人、見立てる人によって甦り続けるのです。

まさにこの「見立て」の教育がしっかりと日本人に根付いていけば、日本も必ず甦生していきます。そういう学問をこの時代に確立することこそが、物が増えて消費だけを優先する社會に大きな影響をあたえると思います。

子どもたちが安心して未来を創造していけるように見立て文化をひろげていきたいと思います。

ブロックチェーン

ここ数年でブロックチェーンに関するニュースが劇的に増加してきています。インターネット革命の次に来るといわれるこのブロックチェーン革命は、これからの新し時代の価値観をけん引していくことになるだろうと私は予測しています。

このブロックチェーンは、インターネット革命のときと似ていて発明はされたもののこれから応用されることが見込まれている技術でもあります。思いかえせば、インターネットの時も電話の方が早いのではないかと思うくらいの遅い速度で通信技術も貧弱でした。

今では、5Gの速度で通信でき明らかに電話よりもインターネット介した方が映像や動画、画像などあらゆるものがインターネットが進んでいます。その回線速度が劇的に革命が起きているようにこれからこのブロックチェーンの技術も劇的に変化してくるでしょう。

今現在は、ブロックチェーン技術はまだ仮想通貨をはじめ金融のところでの利用が中心になっていますが他分野へも次第に移行がはじまっています。この暗号化技術があれば、セキュリティ面での心配がなくなってきてより安定して平和な環境が構築されていきます。

現在は、インターネットは不特定多数の人たちが参加していますからセキュリティ問題は常に話題にあがります。このセキュリティ問題はまるでいたちごっこのように永遠にきりがなく安全と危険を行き来して膨大な労力を使っています。

実際に、むかしは村の中の人のことをみんな知っていましたから誰がいなくなっても、誰が問題を起こしても、みんなが観ている中で暮らしてきました。犯罪率も低く、みんなが観ているということが何よりの抑止力にもなっていました。しかしインターネットの世界では、ブラックボックスだらけで心配なことばかりになっています。少し前までは、クレジットカードの情報や個人情報などを一切に出ないように細心の注意を払っていました。

しかしこのブラックボックスが可視化され、それを記録されているとするのなら改ざんすることができなくなります。むかしのように、みんなが観ている状態を創り上げることができるようになったとも言えます。

仮想の世界で、誰がどのようなことしたのかがわかるというのはある意味不正を防ぐ最大の方法でもあります。確かにいつも誰かに見られているというのは息苦しさがありますが、昔の人たちは天が観ているとして恥ずかしいことをしなようにそれぞれが戒めていました。

ITの進歩により、よりむかしの道徳にフォーカスされていきます。人間がむかし構築してきた平和のシステムを、ITによって実現しようと試みられています。そう思うと、温故知新というものはひと昔前のシステムを新しい科学の発見によってブラッシュアップしていっているだけだとも言えます。

しかしその廻る一つの温故知新の中で、人々は改めて本質を維持するために学び改善を続けていくのです。人類の本質を高めていくことは、私たち今の時代に生きるものたちの使命でもあります。

子どもたちのために、新しい挑戦を楽しんでいきたいと思います。

家が喜ぶか

最後の宮大工として有名な棟梁に西岡常一さんがいます。この方の言葉を深めていると、現在私も取り組んでいるところに共鳴することが多く、学び直すことがたくさんあります。

現代の考え方に対して、本来の在り方はどうであったか。建物を通して飛鳥の工人たちから学んだ西岡棟梁の伝承は、私たちの生き方や考え方にも影響を与えるように思います。

少しその言葉を紹介してみたいと思います。

「建築基準法も悪いんや。これにはコンクリートの基礎を打回して土台をおいて柱を立てろと書いてある。しかし、こうしたら一番腐るようにでけとるのや。20年もしたら腐ります。明治時代以降に入ってきた西洋の建築法をただまねてもダメなんや。」

「電気の道具は消耗品や、わたしらの道具は肉体の一部ですわ。道具を物としては扱いませんわ。それと道具も自分だけの物やと考えるのは間違いです。形ひとつにしても今決まったんやない。長い長い間かかって、使うにはこの形がいいと決まったんですから。」

「今の大工は耐用年数のことなんか考えておりませんで。今さえよければいいんや。とにかく検査さえ通れば、あすはコケてもええと思っている。わたしら千年先を考えてます。資本主義というやつが悪いんですな。それと使う側も悪い。目先のことしか考えない。」

「西洋のノコギリと日本のノコギリとは違いますな。西洋では押しますし、日本ではひきます。これは、性格の違いや。押すというのは細かい仕事ができないということでんな。精密な仕事ができませんな。西洋人の頭のなかいうのは、わりに雑なもんでっせ。」

「水洗便所になってから、こういうふうに、どぶになってしまったんですな。今は水洗便所にせんと文化じゃないと思ってますけど、自分の家だけ文化というんで便利にし、自然を汚してるんでっせ。そんなの文化とは違います。自然と共に生きているというのでなければ、文化とはいえませんな。」

「科学が発達したゆうけど、わしらの道具らは逆に悪うなってるんでっせ。質より量という経済優先の考え方がいけませんな。手でものを作りあげていく仕事の者にとっては、量じゃありません。いいもん作らなあ、腕の悪い大工で終わりでんがな。飛鳥の時代から一向に世の中進歩してませんな。」

この言葉は、古民家甦生をする中でいつも同感するものです。民族伝承の智慧よりも、現代の付け焼刃の科学の方が絶対的に価値があると信じて法律やルールで歴史を壊していくことは必ず未来に大きなツケを残していくはずです。

本来の日本らしさ、日本人らしさ、日本の文化を正しく継承してこそ本物の技術が発展していくように私は思います。そして多様性を維持するだけでなく、このままでは環境破壊につながるとも仰っています。

「いまは太陽はあたりまえ、空気もあたりまえと思っとる。心から自然を尊ぶという人がありませんわな。このままやったら、わたしは1世紀から3世紀のうちに日本は砂漠になるんやないかと思います」

そして私が古民家甦生において大切にしている家が喜ぶかに通じる格言で締めくくります。

「千年の檜には千年のいのちがあります。建てるからには建物のいのちを第一に考えなければならんわけです。風雪に耐えて立つ―それが建築の本来の姿やないですか。木は大自然が育てたいのちです。千年も千五百年も山で生き続けてきた、そのいのちを建物に生かす。それがわたしら宮大工の務めです」

子どもたちが安心して暮らせる世界に貢献できるよう、逆行小舟の道を果敢に歩んでうと思います。

現場監督

最近、建築の現場に関わることになり現場監督の大切さに気付く機会がありました。この現場監督とは辞書によれば、「建築や土木工事などの現場で、作業を指揮・監督すること。」をいいます。具体的には、工程管理や安全管理、品質管理になりますがそれ以外にも仕入れ管理、見積もり管理、クレーム対応、障害発生時の判断、そしてオーナーさんから設計士、業者の皆様とのコミュニケーションなど多種多様です。

この現場監督というのは、全体を把握して調整していく力が必要です。まさに、この現場がわかるということはすべての工程を掌握しているということです。

そもそも監督というのは、語源は保護者のことを言うといいます。つまり全体を見守っている人物であるということです。ただ指揮を出すのではなく、如何に細部まで見守っているかが問われます。

働く人たちは建築現場ではたくさんの人たちが訪れます。その一人一人によく目を配り、心を寄せながら、目的がブレないように、そして危険はないか、体調はどうかなども確認します。

それぞれ職員さんたちはプロですから、危険なことはしないようにし、体調管理もしっかりしていますが、それでも集中しすぎて入り込むことがあったりします。その際に安全を確認したり、無理をしないようにフォローしたり、現場では監督の役割が大きな影響を与えているのです。むかしはこれを大工棟梁が行いました。最後の宮大工で有名な西岡常一さんはこうも言います。

「棟梁というものは何かいいましたら、「棟梁は木の癖を見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。建築は大勢の人間が寄らんとできんわな。そのためにも「木を組むには人の心を組め」というのが、まず棟梁の役割ですな。職人が50人おったら50人が私と同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。」

これは会社の経営でもスポーツの監督でも同じです。

それぞれが主体的に働いていく上で、大切なのは全体を見守ることです。その全体を見守るためには、よく現場を観ている必要があります。そのうえで、適切な対応をしていく必要があります。

まさにこれは私たちが本業で取り組んでいる保育と同じです。それぞれのはたらきを観つつ、本人たちが安心して仕合せに自分の働きが全体の役に立てるように、社會を見守っていきます。

どの仕事も、現場には人々の働く全体の意思が顕れます。

その現場を監督できることは仕合せなことです。そして現場が楽しくなるように取り組んでいくこともまた現場監督の喜びです。現場監督を学ぶことは、その現場の場数を経ることです。そして現場監督こそ保育の質です。

引き続き、分けずに子ども第一義を学び直しを味わいたいと思います。

民族伝承の智慧

民族には民族伝承の智慧というものがあります。これはその民族が自然の中で共生する中で見出してきた発明とも言えます。それぞれの風土が異なる中で、その風土を活かして暮らしを充実させていくのが人類です。

その人類は、それぞれの風土に適応し、その風土ならではのものを生き方にまで昇華させてきました。それが暮らしであり、文化とも言います。この文化を持っているからこそ、多様な環境の変化にも適応していくことができます。

人類の保存というものを第一に考えるとき、多様な人類があることは多様な環境に適応できていくということです。地球は何度も気候変動を繰り返し、バランスを保っています。その地球の中で暮らしていくには、その環境の変化に適応する力が備わっていけなればなりません。

それぞれの種族が栄枯盛衰を繰り返しながら、その時代時代の変化の中で生き延びて今があります。その民族たちがどのように生きているかは、気候変動した後の地球の未来のお手本になります。

短期的に見れば、様々な科学を使ってどのような場所でもどのようなところでも生活できるようになりました。流通を整備し、住環境や食環境、医療を発達させたことでどの場所でも自分の文化のままに生活できるようになりました。しかしその風土と乖離した生活は、大量の労力や資金を投入しなければならず限界があります。

極端に言えばサハラ砂漠に、アラスカの氷を運び維持するエスキモーみたいな変なことをしているのです。その土地や風土には、そこに住む民族があり、その民族伝承の智慧があります。

私たちは本来、適応するためにその民族伝承の智慧を会得し、どのような風土であっても工夫して生きていく叡智を得ていくことで生き延びる可能性を増やしてきました。

現代の便利な生活は、文化から学ぶことや長い年月で築き上げてきた民族伝承の智慧を消失させていく危険なものでもあります。確かに便利なことは、科学の発展には欠かせませんが同時に文化を発展させていく工夫も必要なはずです。文化を優先し科学がそれを手伝うように、道徳が先行し、それに利益がついてくるように優先するものの判断を間違えないようにしないといけません。

子どもたちの未来を考えるとき、今はまさに時代の大きな分岐点です。周囲にはなかなか理解されなくても、狂人と罵られても、未来の子どもたちに民族伝承の智慧を引き継いでいけるように真摯に今に取り組んでいきたいと思います。

闘争心と挑戦者

建築家に安藤忠雄さんがいます。以前、社内木鶏の「致知」に掲載されていたとき、闘争心のある凄まじい挑戦者だなという印象を受けたことを覚えています。あらゆる病気を持ちながら、それを味わいながらいけるところまで前進し続けるという生き方に感銘を受けました。

人間はどのような仕事を選択したにせよ、どのような生き方をするかはその人その人の日々の判断が決めていきます。その生き方が、まさに作品になりそれが観える形として世の中に表出してくることでその人の人生に影響を受ける人々が出てきます。

まさに建築とは、生き方が顕現したものでありどのようなものを建てるかはその人の生き様如何で決まるのです。私もここ数年で建築に携わっていますがその時代の価値観や、ルール、そのほか様々な制限の中で本物を出していくことはとても難しいと実感します。世の中に責任をとりたくないという無難な価値観が走っている時代だからこそ、敢えて挑戦するという生き方が人々に勇気を与えます。

そういう意味で安藤忠雄さんは、日本人の建築家としての生き方を世界に表現している模範の一つです。言葉の中に出てくる、生き方をいくつか紹介します。

「人間にとって本当に幸せは光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えてそれに向かって懸命に走っている無我夢中の時間の中にこそ人生の充実があると思う。」

「失敗を恐れず前を向いて進んでください。足元ばかり見ていても成功はありません。胸を張って未来を見据え心を世界に開くことが大切です。」

ある記事ではこんなことも言っています。

「窓の外の「ビジネススーツ・ビル」(建築史家・鈴木博之氏が東京の高層ビルを一瞥して評した「代わり映えがしない」を意味する言葉)を見てもわかる通り、今は誰も責任を取りたくない時代です。責任を取りたくないから建築も無難になる。政治家も経営者もビジネスマンもそうでしょう。しかし「無難」に人が惹き付けられますか? リスクがあっても夢やビジョンがあるから、人が集まって新しいアイデアができると思います。」

責任をとりたがらない人たちこそ「無難」を目標にします。しかし自分の人生の責任は自分で取るしかありません。金太郎飴のような同じ顔をしていれば安心という生き方の中には挑戦はありません。大切なのは、自分の責任は自分で取る、そして世界や時代の責任も自分で取るといった志を持って歩んでいく人生を味わっていくことではないかと私も感じます。さらにこうも言います。

「どんな仕事でも最も大切だと思うのは今に安心しないことです。今のままではいいと思わないけれどまあ仕方ないかと現状に甘んじてしまったら絶対に成長していきません。」

「中途半端にやってもダメ。必死に全力疾走で勉強する。自分を追い込んでいかないと本物の力にはならないと思う。」

「無我夢中で仕事をしていれば不平不満など出てくるものではない。」

「人生というのは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って自分の目指すこと信じることを貫き通せばいい。」

仕事観は、それぞれが自分で磨くものです。純粋な心でそぎ落とされて美しく強く輝く安藤忠雄さんの生き方は今の時代の若い人に勇気を与えるはずです。

最後に、まだお会いしたことはありませんが言葉や文章から感じる安藤忠雄さんのイメージをそのまま現わしている言葉ではないかと感じます。

「闘争心。結局はこれで勝負が決まる。」

わくわくするような挑戦を続けて、いつかは頂に昇ろうとする自己研鑽の歓びを楽しんでいるのかもしれません。初心を忘れずに、自分の道を切り拓いていきたいと思います。

心徳の実践

横井小楠は、心徳の学の必要性を世の中の政治の中心に据えるように説きました。そしてそれを日本式政治のモデルとして世界に発信していこうとしました。これからという時に、命を絶たれ無念があったようにも思います。しかしその志は、維新の志士に受け継がれその願いは今も生き続けているように思います。

よく考えてみると、明治頃の日本は世界から新しい価値観や文化が流入しそれまでの伝統的なものを見直す必要に迫られていました。西洋からやってきた個人の利益重視の仕組みは確かに爆発的に人間の私利私欲と合致して世界に広がっていきました。そして国家というシステムが仕上がっていた西洋の思想は瞬く間に世界に広がり今に至ります。

現在は、アメリカと中国で貿易戦争が勃発していますがその本丸は国家の在り方についての戦争だともいわれます。現在も続いているこの過去の国家のシステムと近代国家のシステムは常に衝突を繰り返して結局は戦争になってしまっています。

横井小楠は、民衆のために戦争を避けるためにどうすればいいかということを突き詰めていきました。横井小楠の思想を本人の文章を読んでいると味わい深い真理が記されています。

「其心徳の学無き故に人情に亘る事を知らず、交易談判も事実約束を語るまでにて其詰る処ついに戦争となる。戦争となりても 事実を詰めて叉償金和好となる。人情を知らぱ戦争も停む可き道あるべし。華盛頓一人は此処に見識ありと見えたり。事実の学にて心徳の学なくしては西洋列国戦争の止む可き日なし。心徳の学ありて人情を知らぱ当世に到りては戦争は止む可なり。 すなわち、利益の追求の承を目的とする「事業の学」は国家間の衝突を惹起し、つまる所は戦争になるというのである。」

事業の学をするのではなく、心徳の学がいるということ。富国とは武力や利益ばかりを追い求めるのではなく、文化や徳によって実現するということを日本がそのはじめのモデルを示そうと志したのです。

世界が、現在のように混迷期を迎えこれから何を目指していけばいいのかを模索する近代においてまさに日本が目指すべき理想をもっともはやい段階から種まきをしていた人物だったのではないかと思います。

その種が芽を出し、花をつけ実になり種になる。

まさに今は、実を結ぶときではないかとも思います。吉田松陰や坂本龍馬、その他の維新の志士たちが目指した世界の中での日本という国の在り方を私たちが受け継いでいることを忘れてはならないように思います。

まちづくりもまた同様に、まずどのようなまちにするのか、どのような国にするのか、どのような世界にするのかから今の自分の布置を見極める必要性を感じます。

子どもたち、また子孫たちが安心して平和に暮らしていけるように今まさにできることを実践していきたいと思います。