深淵を生きる

どのようなこともその道を深めていけば誰もが同じところに到達していくものです。これは登山も同様に、どのルートで登るのかはその人次第ですが登る頂が同じであることと一緒です。

人生も同様に、人は生まれ必ず死に至ります。しかしそれまでの道のりをどれだけ真摯に深めて生きたかで、どこまで到達することができたかが異なります。

人生は長さではなく、その深さということかもしれません。

吉田松陰がこうも言います。

「人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。」

この深みのことを「深淵」といいました。この深淵とは、底がとても深い場所、つまり終わりがないくらい底知れないことのことを言います。

達する先に、さらにその奥深さがある。そして頂上の先に宇宙がある。一つの道を究めてもまだその先の深さがあるということは私たちに何を意図してくるのか。

人はその深さを学ぶことで、自己を確立していくのかもしれません。

一日一生、大切に今を生ききっていきたいと思います。