徳を喜ばせる

先日、来庵されたある人から徳の話をお聴きする機会がありました。この徳の話は、先祖の話です。今の私たちがあるのは先祖たちの徳積みの御蔭様です。それが連綿と続いて子孫へと譲渡されていく。その時、自分はその徳をどうするのかという話です。

もしも自分の目先だけで見たら、その徳を貰って使うことを考えていくかもしれません。しかし、もしも先祖側に自分がいたとしたら、今の自分がどう観えているだろうかということです。

先祖は、今まで積んだ徳で子孫が何か大変なとき、本当に困難に遭う時、今までの積んできた徳をその子孫に送るそうです。そうやってその子孫がその大変や困難を乗り越えさせてもらうことができるといいます。それが病気であったり事故であったり、家族の様々な困難の時に乗り越えることができるような御蔭様が働きます。

しかしそこで徳を使ってしまいますから、その先の子孫への徳はある意味で減ってしまうともいえます。だからこそ、人は自分で使ってしまおうとはせず子孫に少しでも増やして残るようにと精進して徳を積むという話です。

親になれば、自分のこと以上に子どものことを祈ります。子どもが健やかに仕合せになってほしいと切に祈ります。すると、子どものために何ができるのかを考えます。お金を残す事か、財産を残す事か、土地を残す事かなどとも考えるのが現代かもしれません。

しかし、かの西郷隆盛も子孫のために美田は買わずといっていたように財産を残すことを良しとしませんでした。では西郷隆盛は何を遺したかということです。これは徳であることはすぐにわかります。

徳を積み、徳を譲れば、子孫たちはその徳に守られていきます。それは人脈であったり、遺徳が人々の心を救うことになったり、様々な徳が循環して世の中をさらに善いものにしていくことができます。

自分に徳を使うよりも、自分で徳は使わずに、新たに徳を積み続けることの方が子孫や子どもたちが幸福になると思うと苦労すること、徳が積めることが仕合せに感じます。

これは実は、今が仕合せであるということ、何もなくても徳が積める喜びに気づけるということでもあります。徳積み循環の話は、どこか理想論のように思われることもありますが徳を積む経営であったり、徳を譲る仕合せのことは、人間はどこかで必ず心に通じることがあるように私は思います。

それは今の自分があるのは、何の御蔭様であるかということを気づくことができるからです。このいのちも、先祖の御蔭様で存在します。そういう徳がいつまでも自分に備わっていることを知り、感謝で自他全体の喜びに活かしていこうとすることが徳を循環させていくための大切な仕組みであり知恵であろうと思います。

子どもたちのことを思えば思うほど、この徳を積むことに向かいます。子どもが永遠に仕合せな世の中にしていけるように徳を喜ばせていきたいと思います。