機械と人間

人間の進化というものは科学を追及することになってきました。かつての人間の進化は、感覚を追及していました。非科学的なものとして現代では受け入れられない状態になっていますが本来は大多数の人たちがこの非科学的な力を発揮していた時代もあります。

誰でもその非科学的なものを使えるようにしようと、科学を進歩させて感覚を機械で発揮させていくように発展させてきましたがその分、また人間の感覚が失われていきます。

そのうちあと数十年もすれば、人間の感覚に限りなく近い、あるいは或いは他の昆虫や動物の感覚をコピーした機械が誕生して人間は感覚を使う必要がなくなるかもしれません。

そうなってくると、人間は人間の主権を機械に譲り渡すのでしょうか。人間が人間たらしめるものは、この感覚ともいえます。私たちは感覚を使うことで、この体の知性や心の感性、魂の感覚などを味わいます。時には、つらいこと、苦しいこと、悲しいこともあれば、喜びや感動、驚きなどもあります。

ひょっとしたらそのうち、感覚を購入するというような機械も出てくるかもしれません。機械に感覚を教えてもらうという時代です。そうなってくると、人間が機械になり、機械が人間になっていくように交換していくのでしょう。

アバターや仮想空間などもまた、分身をいかにつくりだしてそれに体験させるかということに進歩しています。この世に体験しにきて、仮想の体験をするというのは何か本末転倒のような気がしますがこれも時代の一コマなのでしょう。

感覚というものを研ぎ澄ましていくことは、いのちと触れ合うことに似ています。花を活けても漬物を漬けても、野菜を育てても、人と対話していてもすべて感覚を用います。感覚を通すことで、私たちはありとあらえるものを直感的に結べます。

そういうものが結べなくなるというのは、ある意味で人間中心の人間だけしかいない世界にしていくということです。

子どもたちがどちらの世界を望んでいるのか、長い目でみて伝承していきたいと思います。

病気への対応

病は気からという言葉がります。これの由来を調べると、中国最古の医書「黄帝内経素問(こうていだいけいそもん)」紀元前四百五十年~二百二十一年頃に、百病は気に生ず(全ての病は気から生ずる)と記されていて、これが「病気」の語源となったとありました。

そもそもこの病気というのは、気に病むとも読みます。私の経験では、気にしすぎていると病気になるということがあります。思い込みの強さも病気と連携しているようにも思います。

また医者に診断されたり、自分がきっとこの病気だと思い込むとそういう病気を引き寄せていきます。不思議なことですが、人間の身体はこの思い込みというものに反応するということかもしれません。

以前、筋トレをする際もイメージしながらやるといいといわれたことがあります。その方が理想の筋肉がついてくるからだそうです。他にもスポーツでも、自分の思い込みを上手に使えばそれにあわせた身体能力が磨かれるといいます。また容姿なども、自信をもって自分の魅力がいいと思い込む人は周囲からそうみられるともいいます。

つまりは大半がこの思い込みによって反応するということになります。

身体はわかりやすく、痛みなどもより痛いところに意識は集中して他の小さな痛みは気にならなくなります。きつさなども、同様で一番きついところに意識がでてそれ以外のきついところは感じにくくなります。

私たちが痛みや辛さを感じるのは、この気の流れによるものかもしれません。よくストレスなども増えると免疫が下がることが証明されています。もともとの免疫がストレスによって疎外されるのです。ポジティブであったり、安心安定していると免疫が活性化するともいいます。

そう考えてみると、もっとも病気に対応できる方法は「気にしない」ことかもしれません。別の言い方をすると、気をそらすでもいいかもしれません。気がまぎれるや気持ちを切り替えるなどは、精神的なものだといわれますが実際にはそれが病気を減らす工夫だったのかもしれません。

とはいえ、治療が必要なものは避けては通れませんからお医者さんに頼り、未病や予防をいかに取り組むかということだとおもいます。

色々と学び直していきたいと思います。

石の魂

私はよく石を拾います。特に深く共感するものは、いつまでも持っていてあちこちに身に着けて旅をします。他にも旅の友はたくさんいて、貝であったり手帳であったり、お箸であったり、扇子、香りであったりもします。

私はもともとそこまで収集癖があるわけではありません。古民家甦生をしている関係で、古い道具たちなどを集めますから骨董屋のように思われますがむしろ集めるのは好きではありません。あまりに集めても、そのお手入れや配慮が必要なので持たないように気を付けて増やさないようにしているのです。

どうしても深いご縁があるものだけは、一生の責任を持つつもりでご縁を結びます。そうしているうちに、いくつかの大切なもの、そして仲間が増えていくのです。

もちろん、物も人もそれぞれのいのちがあり生き方もあります。最期まで一緒にいれるものもあれば、生きているうちに別の道へと歩んでいくものもあります。別れがきたとしても、大切にされた記憶とまた大切ないのちと結ばれてほしいといのります。

石の話に戻ります。

ネイティブインディアンに下記のような言葉が残っています。

『あなたはいつでも奇妙な形をした石のかたまりとか石ころとか化石とかを拾いあげながら、自分がこんなことをするのはそうするのが嬉しいからなどといっているが、実はそうではない。私にはよくわかる。あなたは、自分の中の奥深いところで石の力の存在に気がついているのだ。石の中に入っているスピリットの存在がわかっている。そうでなければ、そんなふうに石を拾い上げて、いとおしそうに触るようなまねなどしないだろう。』

これはとても共感します。奥深いところで存在をわかるというのは、岩や石、無機質のものは深いところに存在しています。表面上は、単なる固形物ですが深層には意志もあり個性もあり、そして魂もあります。

これはスピリチュアルな話ではなく、そのものに宿る力があるということです。お墓や石板、石碑などもですが深い願いや祈りや思いが宿ります。つまり魂の記憶装置こそが石なのです。

これは宇宙の隕石なども同様です。

だからこそ、その力を引き出すためにも自分の波動をととのえて、石と対話ができるような低周波を磨いていく必要があります。それは深夜の3時半ころの感性ともいってもいいし、禅僧の深い瞑想の時ともいってもいいかもしれません。

そのうち量子力学などで解明される日もくるかもしれませんが、私たちは表面を見すぎることでその奥深さを忘れてしまったのかもしれません。

子孫のためにも、私の感覚を可視化して体験できるように色々と工夫していこうと思います。宗教などではなく、暮らしの知恵として伝承していきたいと思います。

人類の行く末

世界の人口は現在は80億人に達したといわれています。西暦1年のころは3億人ほど、1500年頃は5億人、1800年頃は10億人、そして20世紀から人口爆発をして今は80億人です。

数字で見てもすぐにわかりますが、ここ200年で急速に人類は今までの発展や繁栄と仕組みががらりと変わっているのがわかります。世界では、貧困も飢餓も解決せず格差はますます拡がっています。

急速な発展のなかで食料を大量に生産するために技術革新が行われました。他にも、医療から情報化などまさに今も科学技術を進歩させて人口爆発に対応しています。しかし世界では、搾取している層と搾取される側の層にわかれて似たような構造で現代型の進歩へ突き進んでいきます。

狭い範囲で、搾取をしても搾取をしすぎると一般の人も生きてはいけません。江戸時代なども、藩主が農民から大量に年貢をとってしまえば農民は飢餓で死んでしまいます。よく時代劇で悪役の藩主が、農民は生かさず殺さずのように統治していた場面をみましたが結局は反乱や一揆、そのほかの怨嗟が集まり消滅していきました。

人間が人間をコントロールしていくというところに、はじまりの原因があります。人間が自然と共生していた時にはなかった、人間による自然のコントロールはうまくいきません。その証拠に、人間のコントロールもできません。如何に、共生していくかを考えて暮らした太古の方がまだ安心した暮らしがあったかもしれません。

確かに病気もなくなり、便利になり、経済も発展して宇宙にまで届きそうですがそれがあとどのくらい持つのか。過去の資源や、今まで積み上げてきたものを一気に搾取して消耗する発展が持つのはのこりどのくらいなのか。

想像すると、未来世代へ申し訳ない気持ちもでてきます。長期的な視点で、どのようにしていけばこの先の世代が仕合せになるのかを考えると本来の生き方をどうすべきかに向き合います。

子孫のためにも、今、できることを真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

 

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

洗脳からの解放

パソコンを扱うのにOSがあります。これは基本ソフトウェアです。それを最初にインストールされていると、その機能が中心になります。私たちの思考や脳も、最初に何がインストールされているかというものがあります。

その一つは本能というものがあります。生まれながらに身に着けていることであり、最初から持っているものです。それは昆虫にしても、そして植物、バクテリアに至るまで持っています。

その最初にインプットされたものを発揮していのちをもってこの世で役割を全うしていきます。地球や宇宙も同様に、それぞれの役割を全うします。

しかし人間は、これとは別のものをインストールしていきます。言い換えれば、刷り込みや洗脳というものです。思い込みや価値観、そして先入観や想像など脳にインプットしたものでこの世界を認識していきます。そこは自然にあったものと切り離され、人間だけでイメージする世界に住んでいるようなものです。

気が付けば、地球の資源を使いつくすようになり、本来の自然の役割を果たさなくなり、人間の思い通りに世界を書き換えて塗り替えていきました。その結果、本来の洗脳や刷り込まれていない自然からメッセージがたくさん訪れて目覚める人も増えました。

この自然災害をはじめ、あらゆる気候変動や日々の身近な生物たちの絶滅は私たちにその仮想の思い込みによってできた世界が本来のものとずれていることを証明していきます。

どんなにOSにインストールしてみても、電気がパソコンに届かなければその機械はどうしようもありません。私たちが地球のエネルギーを活用し、人間の好きなように世界をつくってきましたがエネルギーが枯渇すれば電気のない世界に急になってしまうように、本来の自然がどうだったかの元の状態に戻ります。その時、人はどのような光景を目にするのか。

廃墟となってただのガラクタになった建造物や道具などが散乱した姿を見ることになります。子どもたちは、なぜこんなになるまで先人たちは使いつくしたのかと思うかもしれません。

脳の発達だけを優先して、目に見える世界だけに突き進むとどうなるのかということはある程度はわかってきました。そしてこの先に待ち構えているどうにもならない制度設計が破壊されるまで今のOSの機能と新しい機能を探してギリギリまでいのちや資源を削り取っていくのでしょう。

だからこそ、人類は時として電気を切る勇気も必要だと感じます。明かりを消してみると、暗闇の中に星々も火もそしてぬくもりを感じるものです。

子どもたちに、そういう体験や知恵が残せるように色々と試行錯誤して伝承していきたいと思います。

未来世代への思いやり

昨日は、赤村の光明八幡宮でお掃除やお手入れ、歌枕を実践してきました。朝からみんなでお掃除をしますが、みんな主体的で真摯に取り組んでいるため隅々まで美しく綺麗に整います。やらされている掃除とは異なり、みんなが主体的なので積極的に普段はしないようなところまで丁寧に取り組んでいきます。

その土地への配慮や、先人たちの遺徳に感謝するのは心地よく、お互いを思いやりながら場を磨いていきます。こういう縦のつながりを感じながら取り組んでいくことは、私たちがこれまでどうやって暮らしてきたのか、そして今、なぜ自分があるのかなどを実感できる機会になります。

スピード社会のなかで、忘れがちな立ち止まる時間、そして自己を振り返る時間は尊いことで生きている喜びや実感、そして感謝があります。

先人たちが子孫へ向けて放ってくるメッセージを受け取る感性というのは、受け取る側の力量によります。これは文字だけではなく、生き方もまた同じです。私も先祖の一人になる人間ですが、子孫へどのような真心や思いやりを以って今の世代を使命を果たしていくのか。

同じ思いで取り組んだときこそ、先人たちのやさしさや祈り、その真心が共感できます。みんな未来世代のために、自分の世代をどうととのえていけばいいかを真摯に向き合ってこられました。

現代は、今だけ金だけ自分だけという風潮で目先のことに追われては何かと先送りすることが是とされている世の中ですが先送りしたものは未来世代のツケとして残っていきます。

未来世代は、なんでこんなことをしたのだろうと先祖になる私たちの世代のことをどう思うのでしょうか。たまに、うちの祖父の代がどうしようもなくてなどといっている孫世代の愚痴を地域で聞くこともありますがそのツケがあまりにも大きいと苦しい気持ちになるものです。

例えば、ダムの問題をはじめとした環境問題や、バブル景気のときにやった観光事業が廃墟の建物ばかりで景観がボロボロになっていたり、風土の伝統文化を捨てて都会のコピーになり衰退していたり、これを目の当たりにした子孫たちは先祖に対してなぜだろうと思うのです。

本来、これは子孫のためにならないと思えば判断しなかったり、未来の世代にツケを残すと思うと敢えて別の道を残してくれたおかげで今の世代が恩恵をいただいているものもあります。それはその世代や個人は多少損をしたと感じても、長い目で長期的な視点に立てばそれは損にはならず子孫繁栄の礎になっているものです。

現代は視野も狭く、短期的目線で個人や世代のメリットを優先して短絡的な判断をしているものが多いように思います。特に経済においても、すぐにリターンがないものを選ぶのは愚かなことのように思われます。余裕もゆとりもないといいますが、それはそうではなく目的に対して長期的に取り組んでいこうとする気持ちが定まっていないからのように思います。

私は活動をするのに、長い時間を設定していきます。目的がはっきりしていますから、休み休みであってもそれは時間をかけて取り組みます。そうすると、そのうちに目的が近づいてきて本懐を遂げることができるようになります。

未来世代のことを考える仕事というのは、長い目で、私心を取り除き、お金を気にせずに純粋に取り組んでいくものでしょう。そしてそこに後からついてくると信じて勇気を出してやっていくことです。

この後からついてくるというのは、子孫の恩恵と共に増えていくという意味です。

後世のために、子孫のために、あとに続いていく人たちのためにと喜び勇んで実践していきたいと思います。

橋渡しという天命

昨日、京都で素晴らしい僧侶にお会いしました。この方は、橋渡しという意味の新しい造語で僧侶を「アンセストリスト」と名乗っておられました。確かに、人は誰しもが橋渡しです。

改めて橋渡しとは何かということを深めてみようと思います。

現代では、橋渡しというと核のことをよく国内では耳にします。唯一の核被爆国として、核兵器の廃絶、そして核原発をどうするかなど、私たちは常に核というものがどういうものかを直接的に体験してきました。

世界では核のもつ因果と実態をまだ経験しておらず、未来や子孫のためにはこの危険で不確実な核にどう向き合い、そして人類はどう対応していけばいいかの答えを出し、伝承する大切なお役目があるともいえます。もし世界を巻き込む核戦争が起こったら、もうどうにもできません。だからこそ、そうならないようにと今こそ安心と安全な橋を架けてそうならない道に導くことができる存在でもあります。

その他では、文化の橋渡しというものがあります。言葉も生い立ちも違う国の人たちがお互いの文化を交流する中で互いを理解しあい学び合うこともできます。仲立ちともいい、間を取り持つ人ともいえます。それだけ文化を尊重できる素地がある、共通のものや普遍的なものを共に学んでいるということでもあります。

そういえば、僧侶のお役目の一つはむかしは喧嘩をすれば間にたって仲裁していたという文献を読んだこともありました。村に人徳のある人格者がお寺に住んでいただくことで、村の治安を安心安全に守っていたのでしょう。まさに、思いやりの実践を通しての修身斉家治国平天下です。

つまりは橋渡しというものの本質は、この思いやりによって「結び、つなぐ」仕事ともいえます。

私は自分のことを私心なく少し考えてみると、子どもたちや子孫のためにと未来世代のために今を存分に使っているともいえます。「子ども第一義」という使命で、会社を起業し、今では徳を積むための活動に専念しています。これは親祖から今までという先人たちの遺徳をいただいた今の私が、同じように子孫たちへとより善いものにして橋渡しをしようとする歴史を思いやる事業をしているということになります。

私たちは縦の糸という、太古から流れてくる大河と、そしてその大河がさらに大海へと流れ続けるものがあります。途切れることのないそのお水といのちを安心してそして永遠に続いていけるようにと祈りすべてに橋渡しをするのです。

そういう意味では、他のいのちと同様にすべての人間はこの橋渡しをすることが人生においてのもっとも大切な命題ということになるはずです。子どもをつくり、そして未来のために今を善くする橋渡しをしない人はいないからです。

だからこそ、何が本当に今を善くすることなのか、そしてどういう橋渡しこそがもっとも未来を生きる子孫たちのためになるのか。その答えを誰もが平等に生きていく必要があるように思います。

私はこの時代に徳が循環する新しい結を甦生させようとしていますが、これは途切れかけた歴史や生き方、そして文化を再構築して伝承させていこうとする試みであり先人たちへの配慮と子孫への思いやりを実践していこうと決心したものなのです。遠大な理想へむけての試行錯誤ですが、普遍的な場に仲間はいつも見守っておられます。

一期一会にご縁を辿りながら自分の役割を今ここ、そして天命と実践において徳を磨いていきたいと思います。今日からまた、ご恩が響き合う新たな一日を過ごしていきます。

ご縁に感謝しています。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。