いのちといのり

昨日、ミトラ教のことを書きましたが古代の信仰というものはあらゆる宗教に大きな影響を与えています。そもそも人が信仰をするのはなぜなのか、いつからはじまったものなのか。これは誰にも分りません。しかし、最初から信仰という心があることは感覚的には理解できるものです。

この信仰の源流はいのりです。特定の神様や何かの教えや存在などを信じる前にいきものはいのちを持ち、いのります。例えば、親が子どもを守ろうとするように、死にたくないと抗うように、あるいは喜怒哀楽の感情をはじめ子どもが好奇心が溢れるように最初から私たちに具わっているものです。これは無機物においても同様に、太陽に照らされたり水が流れたり風が吹くたびにいのりは起こります。

このいのりを感じるところに最初から信仰もまたあるということです。その信仰は何処から来るのか、それは最初からという言い方もしますが無からとも言えます。無から湧いてくるような存在こと信仰の原点ともいえます。

それが一部の宗教者たち、あるいは人間という社会の価値観によって信じるものを教育するという行為がはじまります。そこから宗教として継承されていきました。すると本来の信仰がなんであったか、何が原点で源流であったかを忘れてしまうようにも私は思います。

誰でもわかるようにすることは便利なことですが、そのことで本当のことがわからなくなるというのはとても残念なことです。人間はわかることで、気づかなくなります。本来はわからなくてもいいから気づくことということを持っていましたが、今ではみんな必死にわかることを優先して勉強して刷り込まれていくのです。

今の時代は、そのわかってきたものでは気づかなくなっていることに気づき、本当の気づきを得る時代だと私は思います。言い換えれば、先人たちや親祖たちが気づいたものに自分たちも気づく時代に入っているともいえます。

改めて、本来の姿から学び直すことはいのちやいのりを甦生し、わかってきたことを手放すことが大切だと私は思います。

子どもたちがいつまでもこのいのちの存在に見守られ仕合せを味わえるように環境をととのえていきたいと思います。