循環の宇宙で

今年を振り返ってみると幼馴染の親友との死別が一番の出来事でした。今でも時間差で思い出しては心にふと空白が宿りますが彼の存在の有難さに感謝することが増えました。私たちは本来、「存在」によって心を支えているものです。大事なものは、何か自分にとっての用が足せたり能力が便利だからというもので感じているのではありません。自分が何かをするときに助けてもらえる、或いはわかってくれているという心の繋がりや関係によって深いところの自分を支えられているものです。

その本体は一体何なのか、これは愛ともいい慈悲ともいいます。私たちはご縁によって出会い喜びがあり、別れによって悲しみが来ます。他にも出会いによって感動があり、別れによって激動もあります。どちらにせよ、私たちはその苦楽の苦という感情と結ばれそのことによって悲喜こもごもな執着や感情が入り混じります。

しかしこの入り混じる感情が人生の旅路のなかではとても大切な記憶になり、私たちに人間らしさや生きている実感を与えます。過ぎ去っていく日々の中で、記憶だけは蓄積していきその記憶と共に自分という存在がまた新しくなります。それが生きているということで循環しているということです。

私たちはこの記憶というものの真実を知り、記憶こそが自分を生きていることに気づくものです。その記憶は永遠にもなり、また同時に新しくもなります。だからこそ、私たちは変化に対して止まっていることはできず前に進むしかありません。

変化とはある人は、捨てていくことといい、またある人は、執着しないこと、またある人は受けたもうとすること、それぞれに言い方があります。しかしそのどれもはすべて、「歩みを止めるな」というメッセージを帯びているのはわかります。だからこそその感情を敢えて手放すというのは、常に変化を已めるなということを意味するからでしょう。

止まることのない循環の宇宙のなかでいつまでも私たちは巡り会いまた結ばれます。

それが生命の神秘であり、記憶の真実です。

この一年は、私にとっては「忍耐」の年でした。忍耐とは、これでいいと信じぬくための努力であり、それでいいと思えるように取り組み続ける己磨きの精進でした。年末は骨折をして思うように生活ができなくなり、体の不調が次々と湧き出てきました。ここ数年の頑張りすぎたことが疲れとして出てきたのかもしれません。蓄積した疲労が回復するまで安静にせよとの天の声も入っているように思います。

直観を信じてここまで来ましたが、天命はいつも自分の都合とは別のタイミングで降りてきます。龍の水を得るかの如くになるには、まだまだ時間がかかりそうです。臥龍のままに澄んだ水に光を浴びて呑気に気楽に極楽のような場を醸成して、忘れた頃にやってくるような安心立命を歩みたいものです。

孔子、五十にして天命を知るとありますが先達を見倣い、人間らしく愉快痛快に歩んでいきたいと思います。本年も、本当にお世話になりました。来年が皆様にとって一期一会の青春多き美しい一年になることを祈念しています。

ありがとうございました。