自生自足

自宅の庭には様々な野草が自生しています。

その中に野菜のニラもあるのですが、今年はその種どりを行いました。

昨年からコメや大豆、麦を育てているのですがなぜこれらをパートナーにするかというと種がたくさん採れるからであろうと思います。種そのものを食べることができ、なおかつ種そのものになっているということから保存にもよくまた育成するにも善いからであろうと思います。

まず生き延びることや生き残ることを中心に物事を考えていくというのはシンプルなことです。

今は生きること以外にもたくさんのことを考えて悩まなければならなくなっています。複雑に分かれたものをいちいち思想で掘り下げてその溝を埋めて、また広がるのをまた改めてと常に何かで発生することを本質へと帰すようなことを続けていく必要が生まれています。

以前、震災の時にあまりにも全てが止まると一体何をしていたのだろうかと我に帰るときがありました。そういう時こそ、自分が何をしようとしているのか、何をしたかったのか、その本質に正対するのです。

そうでもしないと今は一体どうなっているのかが分からないのかもしれません。

周囲を信頼して生きていくことも、生き延びるために食べていくことも、また天を畏れ徳性を尊び学ぶということも、とても素朴でシンプルな問いだからこそ発見しずらくなっているのでしょう。

余計なことをしなくても、どんな周囲と一緒に生きていくかを大切にしていけば自ずとそれぞれの生がそれぞれのままに足りていくのかもしれません。

種どりをしながら、四季のめぐりとともに共生してきた先祖代々の歴史を感じます。

子ども達に受け継いでいく真心として、もっとよく周りを観て、思いやりを感じ、御互いに少し手伝いつつ自生自足を歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    日々の生活を振り返ると、生活を豊かにする為や楽しくするため、楽にする為、色々な行動をとれる現代ですが、生きる為、次の世代に遺す為の行動はきっと原理原則に近づいていくのだと感じます。その行為の中に、楽しさや豊かさというものが潜んでいるのだと感じます。そういった、シンプルの中にしか存在しない価値を味わっていきたいと思います。

  2. コメント

    地に足がついているから足りていると感じられる感覚は、自分自身のことも周りのことも理解していることのように思います。以前岐阜の種蔵地区を訪れた際に、先人の言い伝えとして「住む家を壊すようなことがあっても倉だけは守れ、倉は食べ物や種物を保存しておいて、家族の命を守るかけがえのない宝物」という言葉が残っていました。家族だけではなく、周囲の集落の人にも手渡された種には、何かあったときの為の備えとしてパートナーを選択していたのだと思います。種は生きていると感じる感覚が、共に生きることを表しているのだと感じます。

  3. コメント

    昔は、自然の中で命がある事に感謝し、繋がりを感じる中でそれを継続していきたいと思い生きていたのではないかと思います。又自分の事よりも周りの事を常に考えてきたのではと思います。今はどうなのかを考えると反省すべき点ばかりです。自分の事を優先し周りを見ようとしない、繋がりを自分から断ち切ろうとしているのも今の時代ではないかと思います。先ずは今迄の自分の生き方を見つめ直したいと思います。

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