つながりの意味~ご縁に生きる~

「つながり」という言葉があります。この「つな」は、「綱」ですが綱を作るので植物の蔓の蔦(ツタ)を使ってきたものとあります。綱は、縄や紐よりも太く強いものです。「繋がり」の意味もこの綱を絡み合わせていくというところから出ている言葉です。そして切っても切れないほどのつながりのことを「絆」とも言います。

この「つながり」は、遠い先祖から今に至るまで出会い様々な物語を体験してできた魂や心のつながり、そして様々なものが不思議に絡み合って形成し続けているつながりがあります。

例えば、今身の回りにあるものもそれを発生したものは過去の何かとつながり存在しているという事実。またこれから新しいものとつながりこの後に存在を創造していくという事実。あらゆるものの実相は、このつながりに由って存在しているとも言えます。

しかし私たちは、目に見えるものしか信じなくなってくると目には観えないつながりの方を感じようとはしなくなっていきます。歴史や過去を遡り、自分の身の回りにあるものとのつながりを感じようとも思わなくなります。そうしているうちに、つながりが分からず、なぜ今、それが其処にあり、一体何の意味があるのかということにも思いを馳せらず、ただ起きた事象に一喜一憂しているだけになってしまいその意味を深めていくことを怠ってしまうものです。

人は出来事や事象、その存在を深めるとき意味に出会います。

その意味は、何をつながっているのかと感じるとき全体的に何を体験したがっているのか、またその体験をする理由を悟るようにも思います。人生は何度も何度も似たような体験をしながらも、もっとこうやりたいや、もっとこうしたかったというやり直しがきくのです。

だからこそ、人生は面白くその意味を深めながら何度も思い出とつながり、味わえ楽しめるヒントやチャンスを得ることができるように思います。つながりを感じて生きていく人は、心安らかであり、平和を感じます。

このようなつながりのことを日本人は「ご縁」と名付けました。

ご縁を得ることで仕合せを味わい、ご縁を結ぶことで心の平安が訪れる。ご縁を大切にして生きている人は、どのような時代であったとしてもその人生において福を得ているのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にしながら自分の天から与えられた使命を全うしていきたいと思います。

見守り続ける意志

むかしから「守る」という言葉は、私たちの暮らしにとって欠かせないものでした。何かを守ろうとする人は、守る意志を持っている人です。この「守る」は大切なものだからこそ、いつまでもそれを大切なままにし続けていくという意志があるということです。

その意志とは何か、それは「子ども心」のことです。

私たちは子ども心に憧れを持っています。生まれる前の記憶のようなイメージでもいいかもしれませんが、最初から「これをやりたい」という意志があるように思います。それが時間と共に色褪せていき、何をしたかったのかなど思い出せなくなっていきます。

しかし何かを切っ掛けに思い出したり、ご縁が結ばれて導き出されたりしてその「子ども心」に出会います。その時、守るものの存在に気づきます。その存在は「子ども心」であり、その子ども心を守ることでその人は意志に守られていきます。

人は何かを守ろうとするとき、強く優しくなっていきます。それは、子ども心の意志が目的に向かって助けてくれるからです。守るものが守られ、守られるものが守ろうとします。これが人間の奥深さではないかと私は思います。

一体、天や神様や御先祖様、またお地蔵様は何を守っているか。

その守っているものに気づくことが、道の入り口かもしれません。守られてきたからこそ守りたいと思う心は、恩のことです。恩はめぐり合うことで積み重なり強くなります。その恩を大切に生きていけば、自ずから守られる存在になり守る力を持てる存在になるように思います。

私自身は、子どもの頃から守ってくださっていた存在を守りたいと願っています。

引き続き、子どもたちが安心して自分の天命を全うできるように見守り続けていきたいと思います。

むかしから今を想う

昨日は雨樋の歴史を書きましたが、大きな目で観るとむかしはなんでも自然からの恩恵を勿体無く使い活用していたのに対し、それが近代になればなるほど便利か不便かという考え方に切り替わってきたようにも思います。

それはいわば人間が自然に対して共生するか征服するかという自然との付き合い方の歴史だとも言えます。むかしはどうだったか、改めて「むかし」を学ぶことで私たちの先祖は何をどう選択してきたかという生きた教材から大切な智慧を学び直すのです。

むかしという意味は、向かうから来ている言葉で今はむかしとなると今に向かってきた方ということになります。つまりは、古から今に対してどのように向かってきたかというプロセスことを言います。むかしという言葉を人が使うとき、それは単に過去にあった出来事を語るのではなくご縁を語っているのです。どのような縁起があって由緒があり今に至るのか、その全体の意味を直観しているのです。

全体の意味の直観とは、智慧のことでこうしたらこうなるという歴史から得た教訓を学んでいるのです。そのうえで私たちの先祖たちが何を選択してきたか、そしていつも何に憧れて挑戦してきたかを学び直すのです。

私たちの先祖はいつも徳治による自然との共生を大切にしてきました。簡単に言えば、自分を含めたいのちへの思いやりや全体への優しさを大事に和して生きていく背中を子孫へ譲っていくことです。

その自然やいのちへの思いやりが、人間として尊いとし、自分勝手な利己的な生き方よりもみんなが仕合せになる利他的な生き方をしてきました。そのことにより全体調和し全体快適な暮らしをみんなで支え合ってくることができたのです。

平和というものは、そういう暮らしが長く続くことでいつも思いやりや優しさこそ最善であるとしみんなそれぞれに自分を磨き自分に打ち克って魂を高めてきたのです。

世界には多様な民族があってそこには多様な歴史があります。しかし日本が世界から尊敬されるのは、一体どこのことを言うのかと自分たちは歴史から見つめ直さなければなりません。

神話の国譲りより今に至るまで、私たちの先祖はその生き方を何度も試されその都度貫いてきた人たちが守ってきました。その守ってきた文化を、どのように次世代へと譲り渡していくかは今の世代の大きな使命です。

むかしから今を思うことは、わたしたちの使命を振り返ることです。

引き続き子どもたちに譲り遺したい生き方を磨いていきたいと思います。

聴福人の境地

人は自分が大前提として認めようとしない時、他人や自分を何とかして変えようとするものです。そうすると、苦しみが発生し、相手がなぜ変わらないのか、なぜ自分は変われないのかと煩悶するのです。

多様性というものは、本来は「あれもあり、これもあり、みんなあり」だと全てのことを認めてしまうところに存在するものです。それをこうでなければならない、これはやってはいけないなど、何かを悪とし、それは罪だとし、罰を与えなければと裁くときに人は認めることを否定してしまうのです。

この「裁く」ことこそが、認めることの反対であり裁く心の中には罪の意識や善悪理非を自分が勝手に決めるところにあるように思います。本来は何を根拠に正しいとか間違っているとかいい出したのかは分かりませんが、どこかで得た知識によって理想を自他に押し付けるとき人は裁くことをしてしまうように思います。

相手のことや本当のことや真実を確かめる前に裁く心は、先入観や偏見で裁く心であり差別し差別される感情が発生するから受け入れ難く自他を無理にでも変えなければならないと反応するのかもしれません。

イエスキリストは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という言葉を遺していますが、この裁く裁かれるという行為そのものがお互いを苦しめてしまうからだと思います。

お互いの苦しみを開放するには、一つは「聴くこと」、もう一つは、「認める」ことが要ります。言い換えれば、「きっと何か理由があるのだろう」と決めつける前に相手に心を寄り添い傾聴すること、そして「それも一理ある」と自分にも相手にも理があるということを認めることです。

この「裁かない」という実践が、お互いの人間関係の感情を緩和して多様性豊かな場を醸成していくのです。私の提案する、「聴福人」の境地はこの聴くと認めるを実践して誰も変えようとはしない、自分も変えようとしない、そのままでいいと丸ごと認めるということを言います。

それを一円融合、一円観ともいい、すべては丸ごと観てみると欠かすことのない丸味を帯びた完全体であるという発想です。しかし実際は、裁く人を前にすると罪悪感や差別感で感情が呑まれそうになります。先ほどのイエスのように、裁くのを止めよう、差別はやめよう、自他を責めずあるがままでなんでもありにしよう、何度も何度も行動を訓練することで次第に感情は落ち着いてくるように思います。

私もまだまだ修行中ですが、余計な知識や先入観、刷り込みを取り払いあるがままの自然体をお互いに気楽に喜べるような仕合せな関係を広げていきたいと思います。

初心を立てる

人間は自分の初心をしっかり自分で立てずに周りに合わせてしまえばブレてしまうものです。家で例えれば自分の家の大黒柱がどうなっているかということでもしもそれが傾いてしまうと家全体はどうなるかということです。

組織も同様に、中心になっている人物の大黒柱(初心)がしっかりと立っていてその周りに中黒柱、小黒柱がしっかりと支えているから家が傾かず基礎がズシリとブレずに建つことができるのです。

時代という早く大きな川の流れやうねりの中で、今の時代に初心を立てるということは濁流の中で流されずにしっかりとその場に留まる支柱を埋めて立てるようなものです。

少しのせせらぎの中であれば倒れたり流されることもないかもしれませんが、これだけスピードが速くなり怒涛の変化が渦巻くなかでは簡単に濁流に呑まれてしまい消えてしまうものです。その変化は情報化という外側の変化だけではなく、欲望といった自我の変化もあります。

しかしどんな状態であろうが、どんな条件下であろうが、支柱は守り続けるというその人の信念が貫かれれば初心を守ることはできます。

最初は、大黒柱の陰に寄り添って何とか流されないように誰かに守ってもらっていることからはじまるかもしれません。しかしそのうち大黒柱を支えられるように自分が支柱になるように努力していく必要があります。みんなで立てば、それだけ流れに対して強く逞しくなり、確かな支柱が増えれば増えるほど頼もしくなっていくのです。

人間は自分の柱を誰かのものでいつまでも支えてもらおうとし続けてもそれは土台無理なことです。だからこそ自分の足で立つというように、自分の柱は自分自身で立てなければなりません。それを「初心を立てる」といいます。その初心を立てたなら、それを忘れないようにすることと、その初心を振り返り流されたり傾いたりしないように修繕や修理をし続けることが日々の実践ということになります。傾いても誰も起こしてくれませんから、そこは自分で起きるしかありません。ただ周りに真っ直ぐの基準があるのなら姿勢を立て直しやすいものです。

そうやって自分の初心がしっかりしていけばいくほどに、他人に依存せず、世間に流されず、自己の確立に向かって素直に成長していくことができます。人類がみんなそんな生き方ができるのなら、世界は確かな平和を築いていくこともできます。

子どもたちには、しっかりと頼もしい自分を確立して時代が変わっても大切な自分を立てられるように初心を見守れる環境を創造し続けていきたいと思います。

記憶と思い出

人間には古来より今まで生きている中の記憶があります。幼少期の頃までには、それを覚えていても次第に自我が芽生えそういったものを忘れてしまうものです。何度も生まれ変わっても、先祖から連綿とつながった記憶は忘れられずに私たちの心の奥深くに眠っているものです。

時折、そのむかしの記憶を覚えている人に会うとまるで見てきたかのように鮮明にその映像を語られることがあります。そしてそれをなぜか懐かしいと思うのは、同じ記憶を共有しているからかもしれません。

そしてご縁が結ばれ記憶を辿りながら、ふと何かと繋がったりするとき何かを思い出すときがあります。不思議ですが私たちは誰しも記憶を持っているということをその時感じるのです。

人間は生まれた時が、ゼロで残りを足して人生を歩んでいくと思い込んでいることが多いものです。ですから記憶も同様に、後から増えていくことで過去を忘れていくようにできていると思っています。しかし本来は、足していく記憶と、引いていく記憶があるように記憶はその両面を同時進行で行っているとも言えます。

つまりは新しく体験して創り増やす記憶と、体験したものを元に思い出す記憶があるということです。記憶というものは、今の自分の背景を伝えてくるものです。だからこそ記憶を大切にして忘れたくない大切な思いは忘れないままに、新しい記憶を辿りながら自分が観たことがある懐かしい記憶を思い出すために心は動いていくように思います。

人間はあの世に持っていけるものは思い出だけという言葉があります。そしてアップルのスティーブジョブズもまた「私が勝ち取った多額の富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけないが、愛は持っていける私が今、死と共に持っていけるのは、愛に溢れた思い出だけなのだ」と言って亡くなりました。

この「思い出」の大切さに気付いている人は、懐かしい記憶を思い出している人です。一度きりの人生で、どんな「思いを出すのか」、それが人間の一生が決まる大切な要素です。

記憶という思い出を大切にしながら、いつまでもその記憶を忘れないように思い出を守り続けていきたいと思います。

 

感謝の心~貢献とは何か~

感謝というものは、無理に感謝しようとしているか、自然に感謝しかないとなっているかでその意味が異なります。大前提として、感謝の中に周りの御蔭様で今の自分が存在できると思っている人は感謝しかないと思っていますがそう思っていない人は感謝の捉え方が違ってくるように思います。

人は恵まれすぎる環境にあると次第に感謝の心を忘れていくものです、今のように何でも便利に自分の都合よく手に入る環境があれば次第に感謝の心が薄まっていき傲慢な自我が強くなっていくものです。思い通りになっていけばいくほどに、それに比例して感謝も感謝しかなかったものが感謝しなければならないというように変化してくるように思います。

人は感謝に敏感で、感謝の気持ちを忘れれば人間関係に綻びが生まれてきます。お互いに相手に不平不満を言っては、相手が変わらないことでお互いに軋轢が生まれストレスがかかります。それを感謝の心を忘れ無理に解決しようとすればするほどに、相手や周囲への思いやりが欠如してかえって関係が悪化していくことがあるのです。感謝がないから我が出てくるとも言えます。

本来、相手の存在や周囲の存在があって今の自分がこの世で自立していくことができるとも言えます。自分は相手であり、周囲は自分でもあるのです。つまりは自分を存在させてくださっているものは何かということを忘れてはならないのです。

自然界は、周りの自然と一緒に生きていることに感謝しています。その証拠に分を超えて取り過ぎることはありませんし、常に自分が周りによって活かされる状況を保ち続けています。人間はお金を払えば、分を超え必要以上に摂取し、そして自分たちの都合で好きに自分にとって都合の良い環境を創り上げていくこともできます。そのうち謙虚であることがなくなれば、感謝の気持ちがなくなっていくのでしょう。

当たり前だと思っている目の前の存在や所属している組織や仲間、そしていただいている身体や御先祖様、そして日本のこと世界のこと地球のこと、そういうものを常に忘れないようにしている人は、いつも誰かへの感謝の心を言葉に顕しています。

先日もあるお客様のところで口癖のように社員たちが、「いつもみんなの御蔭様で」とか「仲間の存在に助けられ有難いです」とか、「みんなに迷惑をかけてしまって感謝しかない」と話している様子をみてその人たちが、感謝を忘れないことで「仕合せ」で楽しく、豊かに仲よく働いていることを実感する機会がありました。

組織が上手くいく方法などいろいろとありますが、やはり普遍の真理として「感謝を忘れない」人たちがいる組織は必ずと言っていいほど平和と調和があってみんなの幸福を創造しています。「全体快適」とは、みんなのことを思いやり「感謝を忘れない実践」を続けるという意味です。そしてこれが人間力を高めるということに他ならないのです。

引き続き、自分の感謝の心は果たして感謝しようとするものか、それとも感謝しかないと思っているものか、自分のことは自分が一番よく知っていますから自己を確認して世の中の幸福のために貢献していきたいと思います。

全体快適

人間には我があり、我の強い人であればあるほど自己を中心にして物事を進めようとしてしまうものです。今の時代は競争社会の刷り込みもあり、能力を磨くことばかりに躍起になったり、他人よりも抜きんでることばかりに必死になったりして仲が悪くなっている人たちもたくさん見かけます。

能力があれば価値があり貢献でき、能力がなければ無価値であり意味がないという人もいます。しかしだからといって、能力ばかりで貢献しようと自分の能力を磨くことだけをやっていると、今度は能力がないことが役に立たないことだと思い込んでしまいます。そうすると、自分の能力が活かせるような環境に無理やり周りを変えようとしたり、自分の能力が証明されるような仕事ばかりを増やしてしまったりもします。そうやって能力だけを基準に自他を変えようとすればするほどに息苦しくなって関係が冷えていくものです。

本来は、能力がどうかではなく「みんなが喜ぶか」という基準にしてみるといいのです。それは有能ではなく、有用であることを優先するということです。みんなの役に立ちたいと願っている人は、能力があるないに関わらず役に立つことなら何でもやろうとします。それは言い換えるのなら、みんながどうしたら喜ぶかとみんなを活かそうとします。

この人はこうすればもっと活かされる、この人のいいところはどこかと、周りの長所を観るようになります。そしてどうすればこの人が喜ぶか、どうすればみんなが喜ぶかと全体快適を優先するのです。

私はこの全体快適こそが、本来の有用の価値のように思います。全体最適は能力のことで、全体快適が喜ぶかということです。

「みんなが喜ぶか」といつもみんなで取り組んでいる組織は、明るくなっていきます。人間は能力ばかりを磨いてもそれを使う人がいなければ意味がありません。確かに能力があれば発展しますがそれが仕合せにつながるとは限りません。しかしみんなが喜んでいるのであれば、みんなも仕合せ、そしてその中にある私もまた仕合せなのです。

我が強いというのは、どこかで競争刷り込みや能力刷り込みが深く根付いている可能性があります。もっと我が緩和されみんなとの仕合せが優先されるように、みんなが喜ぶかと生き方を転換してみてはどうでしょうか。

生き方の転換は、自分のことよりもみんなの仕合せ。みんなの仕合せは私の仕合せと、全体快適に生きていくことです。快適な環境や空間、場はそれだけで仕合せの循環を発生させていきます。自分が笑顔になるのもまたみんなが喜ぶからであり、皆が喜べばまた私も笑顔になるのです。

全体快適によって、大人たちの刷り込みを取り払えるように理念を定めて取り組んでいきたいと思います。

歴史の本質

歴史を深めれば深めるほど、それは人間と自然との関わり方の変化を学び直すことを感じます。自然と共に生きるか、自然から離れて自然を反故にして生きるか、自然と人間との関係こそが歴史の本質かもしれません。

私たちは現代においても、人間としての生き方としてどうあるべきかを歴史から考え直す必要があります。今の時代は特に自然を蔑ろにして人間がもっとも価値があるような考え方で自然を征服しています。

例えば、農産物においても工業製品のように製造され、その製品を大量に生産するためならその製品以外のものは過激な殺虫剤や農薬で排除していいというような考え方です。

司馬遼太郎さんの言葉にこういうものがあります。

「人間は--くり返すようだが--自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。」

歴史の中で人類が失敗し滅亡の危機に陥るのはこの自然との関係を間違えたときです。その時こそ、人災や災害が訪れ人類滅亡の危機が訪れるのです。それを忘れ自然を蔑ろにしてはいけないと歴史は語り掛けてきます。

また日本の哲学者の柳田謙十郎にこのような言葉もあります。

「人間の歴史は自然と深い結びつきにおける対立と、たたかいの歴史であるということができる」

自然と対立するのか、共生するのか、人間だけが自然から離れたことでいつまでも争いがなくなりません。本当の平和とはなにか、歴史は静かにいつも人類を見守り続けている存在なのです。

そして司馬遼太郎さんは子どもたちにこう語り掛けます。

「--人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。」

本来の自分がどのようにして出来上がってきたかを知るというのは、自分が自然の一部であって自然に由って生かされていることに覚めるということです。

例えば、稲作など自分の先祖から今まで自分が食べてきたものを作ってみるという行為や、自分の生まれ育った風土の中で風土の一部になってみることでそれに気づけるものです。

自然と人間が調和し本物の平和が訪れるよう、それぞれで歴史を学び直し、先祖との対話を続け、一人ひとりの目覚めを待つしかないのかもしれません。ただそこに歴史があることに感謝し、子孫の繁栄や地球との共生に感謝してこの場を見守っていきたいと思います。

志の根

先祖のルーツを辿っていると、壮大な浪漫を感じるものです。かつて司馬遼太郎の本を読んだとき、その浪漫の面白さに心惹かれ歴史の醍醐味を知ったことがあります。その司馬遼太郎の言葉には、学問の本質について記されている言葉がたくさんあります。

「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

ブログを通して体験を深め、その意味を記していくこともまた学問を磨くためでもあります。物事の実相がよく観えることができれば、真心を活かしていくことができるからです。

またこういう言葉もあります。

「人間には志というものがある、その志が人生の味だ」

人間は同じ人間であっても志が異なります、その志の質量こそがその人の人生の醍醐味になるのです。

「人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。

どんなに窮屈で暗い中にあっても、志にはなんの影響もないといいます。

「志を守り抜く工夫は、日常茶飯の自己規律にある」

志を立てることができても、それをすぐに引っ込めたり出したりしているうちに人間は自ら立てた志を自ら壊してしまうものです。そうならないためにも、日々に自らに約束したことを自らが貫徹して守ることで志は守られていきます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、 いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、 その目的の道中で死ぬべきだ」

「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。

志を優先して生きることが、人生を面白くするということを述べています。まさに志のままに歩むことは、自分の天命を知り天命に任せて生きるということかもしれません。

最後に、歴史についてこう語ります。

「私は歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれる時、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と、答えることにしている。私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世で求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。」

ここで司馬遼太郎さんの志に触れられたことに感謝しています。根っことのつながりが一体どういうことを意味するのか、私も子どもたちのために書き遺していきたいと思います。