季節の巡り

明日は、節分でいよいよ2月4日は立春です。二十四節気もここからはじまります。私は自然暦というものを直観して暮らしをするのでこの時機は自分の季節感覚を初心に戻す大切な期間としています。

二十四節気は季節を感じるのにとてもよく、自然が今どうなっているのかを意識的に観察できます。ちょうどこの立春までの間はは最も寒さが厳しい大寒というもの。そして立春の期間を過ぎれば天候は雪から雨へと変わり雪解け水が大地を潤す頃という意味の雨水になります。すでに三寒四温が繰り返され、朝晩の霜も降りず大地は次第に水気を帯びてきています。

春というのは、すべての生き物たちが夏に向けて準備をはじめていきます。5月の節分を迎える初夏のころには新芽が旺盛で一斉にすべての生き物たちが子孫繁栄のための成長を開始します。春は、まさに長く厳しい冬を超えたいのちが福をいただきお目出度い心のままに目覚めるのです。

私の家の近くでも野良猫たちが騒ぎだし、池の畔の鳥たちも賑やかです。

気が付かないだけで周囲はみんなそれぞれの役割や役目に集中しています。本来、人間は他人のことばかりに時間を使わずに自分自身に集中していく必要があるように思います。自然、野性の生き物たちは、自分自身の直観に正直で素直です。

その季節季節の巡りに対しても今、どうあるかを直観で判断して行動しています。そんなに頭でっかちに考えていることなどはありません。頭は悪くても、行動力と直観力があるのが野生です。

今年は野生の勘というもの、自然の直観というものをどれだけ優先できるか。それをさらに磨く一年にしていきます。英彦山とも再会し、歴史とも出会い直し、修験道や自然道も拓きました。

新しい一年を迎えるまで、心を調えてこれから掃除を味わいます。懴悔懴悔六根清浄して、また新たな道を一歩一歩開いていきたいと思います。

闘魂を燃やす

昨日、一緒にブロックチェーンのソフトを開発している方からアントニオ猪木さんの話をお聴きしました。その方は、ずっとむかしから猪木さんの生き方を尊敬していて今でも日課のように猪木さんの動画や本から生き方を磨いているそうです。

その中に「燃える闘魂」というものがあります。猪木さんは色紙にあるときから燃える闘魂という言葉を書くようになったそうです。もともとは師匠の力道山が書いていたものを観て、自分も自然に書くようになったそうです。その意味を、引退の時の動画の中でこう語られます。

「わたくしは色紙にいつの日か「闘魂」という文字を書くようになりました。それを称してある人が燃える闘魂と名付けてくれました。闘魂とは己に打ち克つこと。そして闘いを通じて己の魂を磨いていくことだとおもいます。」

人は道を歩むとき、魂をふるいたたせて自分の道を切り拓いていくものです。そこには自分という唯一無二の一人との正対があります。自立のことです。その自立は、何によって磨いていくのか、それは日々の自分との生き方との向き合い、自分との約束、自分との対話、自分の決めた覚悟や優先順位、そして内省などによって磨き上げていくのです。

自分にはこの道しかないと覚悟を決めるとき、人は闘魂がはじまります。常に闘魂をし続けているか、自問自答をしながら道を噛みしめるという生き方。その姿に人々は感動をして、自分はどうかと鑑にしていくことができたのでしょう。そういう生き方は、人々の心をつなぎ、そして道が後に続きます。

そしてそのことも同時に引退動画で語れていました。心に沁みる言葉です。

「さいごにわたしからみなさんに、みなさまに、メッセージをおくりたいとおもいます。人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに年老いていくのだとおもいます。」

『この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ』

と。

最初の一歩を踏み出すのは怖いものです。新しい扉を開くことも躊躇うものです。しかし闘魂はそこからがスタートなのです。最初の一歩を踏み出せば、何の奇跡と出会うか、その奇跡が闘魂だということかもしれません。

人生には教科書のような答えはありません、そんなもの暗記しても何の役にも立ちません。なぜならそこに闘魂はないからです。闘魂は自ら燃やすものです、いいかえれば燃え続けているときが闘魂であるのです。死ぬまで闘魂、それをアントニオ猪木さんは生き方で私たちに見せてくれました。

つまり、生死は度外視、大事なのは「生き方」だと。そして生き方を歩むと決めたなら働き方を変わります。自分はどれだけ闘魂を燃やしているか、日々は一期一会、二度と同じ今は訪れません。

だからこそ己の恐怖や不安、逃げる気持ち、焦る気持ち、あらゆる感情と向き合いながらもそれを燃料にして灰になるまで燃やし続けるのは自らの意志です。生き方の先輩や同志に熱源の影響を受けたならその恩返しに周囲へも情熱を与え燃やせる存在でいたいと思います。

ありがとうございます。

暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。

 

徳積の初心

論語の大学には、「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目があります。これらは、大学のはじめにある「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民を新にするに在り。至善に止まるに在り」に続くものです。

この大学はとてもシンプルです。人間が自然の道に入ること、自然であるとはどういうことか、自分になるということ、自分であることの大切さを説いているように私は思います。自分の原点、改良される前、真に澄んだ素直な自分であることがわかれば徳は明らかになります。その徳を使って、今度は世の中も同じようにしていけば天下は永遠に平和になるということでしょう。

しかし実際にやるのは簡単ではありません。歴史というものは、改良や刷り込みの連続ですからもはや最初が何だったのか、原点が何か、根本はどうかなど知ることがほとんどできません。それを真に実現するには、先ほどの三綱領や八条目の実践が有効だと言っているように思います。

二宮尊徳先生は、幼少期から亡くなるまで大学を手放さなかったといいます。まさにそのような生き方をされ、天命を全うされました。

二宮尊徳先生の語録191にこのようなものがあります。

『孔子は、「大学の道は、明徳を明かにするに在り。民を新(あらた)にするに在り。至善に止まるに在り。」と言った。これを田畑にたとえれば、明徳が物欲に覆われているのは、荒地ができたようなものであり、明徳を明らかにするのは、荒地をひらくようなものである。そしてその産米を得たならば、その半ばを食って半ばを譲り、繰り返し開墾して荒地を起させていく。それが「民を新にする」ということである。そして、この開墾と推譲の道は、万世までも変るべきではない。これが「至善に止まる」である。』と。

意訳ですが二宮尊徳先生は、誰もが捨ててしまった荒廃した田畑を開墾してそこでお米を収穫できるようにしました。そのうえで収穫したものを全部を使い切らず、半分で生活をさせ残りの半分を翌年や今後のために譲りました。それを繰り返し行うことで、人々の暮らしが調っていきました。それを遣り続けることこそが最善の永続であり自然の循環であるとしたのです。

もう一つこういう言い方をします。

『私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種である仁・義・礼・智を培養して、善種を収穫し、また蒔きかえし蒔きかえしして、国家に善種を蒔き広めることにある。大学に明徳を明らかにするにあり。民を新たにするにあり。至善に止まるにありと。明徳を明らかにするは心の開拓をいう。』

私が真に取り組んでいることは、荒廃した田んぼのようになった人々の心の荒廃を開拓して、もともとその人が先天的にいただいた徳、つまりは真心や思いやり、やさしさなどを培養し、その心の種をみんなから集め、その心の種を何度も蒔いては蒔いてそれを国全体に蒔いて広げていこうとしたことです。大学の明徳とは、つまり心の開拓をすることです。

自分自身が心を開拓され、その真心や思いやり、やさしさに触れたからこそその心の種をもっとたくさんの人たちに広げていこうと思うものです。見守られた人は見守りたくなり、信じられた人は信じたくなります。それはそうやってその人の心の中に、その種が蒔かれて芽生えたからだともいえます。

私が取り組む実践は、この二宮尊徳先生と同じ志です。

元々の徳を明らかにして、生き方を調え、いのち徳積みの実践を丹誠を籠めて弘めていきたいと思います。世界が平和になるように、私のできることから今、この場から今日も取り組みます。

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

日和見実践

体調を崩すと自分の身体の免疫の御蔭で健康でいられることに気づきます。もともと健康が当たり前と思っていると、健康のことなどを気にしません。空気があること太陽、水があることのように当たり前になるとそれがなくなれば死んでしまうように本来はこの身体が健康であるから私たちは生きていられます。

その健康は病気になって気づけますから、人間というものは両極端、陰陽があってはじめて様々なことに気づく力を持っているともいえます。

人間の大腸にも、善玉菌と悪玉菌、そして日和見菌というものがあります。この菌たちの絶妙なバランスで免疫を保っているともいえます。この善悪も善し悪しだけではなく、悪も必要で病気と同じように免疫を助けてくれています。その際、日和見菌というのはどちらでもなくその時々の状況で善玉菌になったり、悪玉菌になったりします。腸の中の善玉菌と悪玉菌の割合は、2:1だといいます。善玉菌は全体の20%で、悪玉菌は10%、日和見菌は全体の70%という構成です。

この日和見とは、江戸時代頃の日本の天気観察から来ている言葉です。事の成り行きや様子を伺いながら、形勢を見て有利な側方に追従するというような意味です。そう考えてみると、中庸的な存在が日和見菌でありバランスを保っているという見方もあります。善玉菌が常に優勢の方が健康とありますが、全部が善玉菌になることはないというのはそこに意味があるように思うのです。そして全部が悪玉菌ということもない。しかし、見方によっては全部が日和見菌であるという見方もできるように思います。

現在分かっていることに腸は第二の脳と呼ばれています。脳も本来は心身を守るために、調和を保つための機能を持ちます。同時に腸もまた心身の様子をみて腸内でバランスを調えようとする。これは脳も腸も自然の天候と同じように、常に日和見であるということです。

人間はもともと自然と共生しているときこそ日和見を重視していました。船を出港するのも、山に入るのも天気や雲、気候をよく観察して判断をしていました。それだけ自然の調和に近づき、その調和に逆らわないという生き方をしてきました。よく天候が荒れたり気圧が変わると頭痛や体調が悪いこともありますがその当時の暮らしの身体の名残かもしれません。

この身体はいわば自然の一部ですから、腸がどのような状態か、そして脳がどのような状態か、そういうものをよく日和見することで自分の状態をよく観察することは大切なことだと思います。

自分を知るということは、簡単ではありませんが日々によく日和見実践をして暮らしを調えていきたいと思います。

思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

カグヤの行事

カグヤでは、継続して行っている行事のようなものがたくさんあります。その一つに、初心会議や一円対話などがあります。これは私たちが、もっとも仕事をしていく上で大切にしていることを振り返る場の一つです。

この場の一つというのは、仕組みの一つという言い方もできます。つまりは、環境や習慣にすることで大切なことを忘れないようにすることや、私たちが日ごろから自然に協力して助け合う風土が醸成されるように配置された知恵のようなものです。

日本では古来より、生活文化の中でたくさんの知恵を配置してきました。その代表的なものの一つに日本家屋というものがあります。玄関にはじまり、床の間やおくどさん、箱庭や縁側、仏間があり奥の間もあります。その一つ一つの家のつくりはまさに見事に自然風土と一体になり、如何に知恵の結晶であるかがわかります。

その中で暮らしていく家族は、使っていく道具も知恵ですが行事がさらに相乗効果を高めています。つまりむかしの日本人の知恵の取り入れ方は、ごく自然に、もっとも大切なものを優先できるような場を用意されていたのです。

この仕組みを私はカグヤという会社に取り入れ、日本的経営を行ってきました。この日本的というのは、むかしの知恵を守る経営とも言いかえれます。老舗の日本の店舗や伝統的な会社が理念を大切にしているように、ごく自然に家の中が治まるための仕組みを行事で実践しているのです。

外から見ると、変な価値観がある会社や、真面目な会社、余裕がある会社とか色々といわれますが実際には日本の知恵を守り、社員家族の仕合せを優先するための大切な私たちの暮らしの実践なのです。

その御蔭で、私だけでなく社員、またお客様にいたるまで皆さんこの実践によって守られていきます。理念や初心を忘れないこと、そしてみんなで和合して調えあって働きやすい環境を優しく包んでいくこと。人は何のために働くのか、それは仕合せになるためです。仕合せをいつも確認し合える環境があること、その場そのものこそ仕合せであるというのが本来の知恵でしょう。

子どもたちには、長くて短い人生の中で上質な生き方、働き方をしてほしいと祈ります。その一つのモデルとして、自分たちが実践していくことが将来を豊かに、今を感謝にしていくことのように思います。

この取り組みの輪が広がっていくのを楽しみにしています。

全体快適と一円対話

世の中には、完全なる善人や悪人はいません。みんなその両方を持っています。なぜならある方向からみれば善でも別の方向から見たら悪になるからです。ただ、自分がされて嫌なことはしないとか、思いやりをもって接するとか、善であることを優先して心がけようというものがあります。自分だけが正しいと思い込むと、そうではないという正しさがまた出てくるものです。だからこそ、人は価値観の相違を超えて協力して助け合うとき有難い徳や恩恵がいただけるようにも思います。

自然というものも同じです。自然の変化である生き物たちは辛いことになっても、同時に別の生き物には有難い感謝になったりもします。自然は全体最適ですから、部分最適なことは循環しているなかでは些細なことです。人間の身体も同様に、意味のない臓器も活動していない細胞もなくすべては調和して内外で全体最適をしています。寒くなれば、それだけのことを活動して熱をつくり健康を守ります。

自分の視野をどのようにととのえるのか。この実践の中に逆転の発想や、禍転じて福にしていくような知恵があります。なので自然界ではほどほどがよく、足るを知るものがいいともいいます。しかし人生を色々と体験したい、味わいたいと思っている人は極端になり強欲になることもあります。どれもが完全ではないのです。不完全であるからこそ、全部を持っているからこそ全体快適を目指そうというものです。

私が一円対話で大切にしていることは、この全体快適です。森信三先生はこれを「最善観」ともいい、中村天風先生はこれを「絶対積極」ともいいました。つまりは、自然の中心と共に一体であれば善悪が消え一円のように丸くなるということです。

この丸くなるというのは、日本では「和」ともいいます。和とは、調和の和です。調和の調は、言葉を周るという字で形成されています。これは言葉に神経がゆきとどくという意味でもあります。物事というのは、なかなか全部にはゆきとどきません。しかし、みんなで和合して協力し助け合えばそれを補完しあうことができます。これが一円融合です。

みんながそうなるような「場」をどれだけ醸成してきたか、そこに自然の妙法や智慧があります。今は、個が歪んで歪な関係になりやすい場が増えています。今一度、場を調えることの大切さを子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

私の一つの使命ですから、これは復興、甦生の大事業の一つです。

同志や仲間と共に、世の中を明るく全体快適にしていきたいと思います。

天地の学

天地自然の法というものがあります。これは誰かが教えたものではなく、誰かに倣うものでもありません。人間が人間として解釈するのではなく、自然がそのままに存在して運行するものです。

私たちは便利に誰かが観察したものをもってそれを理解して分かった気になれるものです。畢竟、便利さというものはどこか大事なものを欠けさせているものです。結局、便利なものに縋って生きてしまうと便利なものが大事なことになってしまい本来の天地自然の理などは後回しになるものです。

先人たちの中には、安藤昌益や三浦梅園のように誰かの教えたものを観ずに直接天地自然を観察した人たちがいます。本来、人はその師をどこに置くかでその求めているところを直観するものです。

その直観は、人が疑問に思わないところ、当たり前すぎて考えもしないところに置かれるものです。誰も考えないというのは、それくらい当たり前にあって気づかなくなっているものです。

例えば、この呼吸というもの、身体の神経、他にも光や影、空間や場などもです。あって当たり前のもの、なぜそれがあるのかを考えるところに自然を観察するための入り口があります。

なぜというのは、真理の入り口でありそのなぜをどの場所でなぜと思うかで人は学びの場所が変わるということでしょう。

これだけ知識が増えて複雑になった世の中では、知識はさらに便利なもの、特殊なものばかりに偏っていきます。しかし天地というものは、悠久に変わりなくこの先も永遠に普遍です。本来の学びというものは、何を主軸にしているかで自分たちの在り方も変わっていきます。

後世に名を遺すような偉業、つまり子孫たちのために何をすべきかを問う学問は常に天地と正対しているものです。

私も先人たちの生き方に倣い、脚下の観察と実践を味わっていきたいと思います。