子ども第一義

子どもというのは、自然からの宝であり恵みです。それは私たちが発展繁栄するためになくてはならない存在だからなのはみんなわかっています。子どもがいない社会というのは、この先、発展することがない、つまり未来がない状態ともいえます。

子どもがいるから持続するのであり、それがなければ持続する理由もありません。そういう意味での子どもということを一度、ちゃんと定義しなおす必要を私は感じています。

現在、一般的に世の中で子どもというものの定義は、いわゆる大人と対比した幼いころの大人、まだ若く小さく未熟な存在としての子どものことを指していることが多いように思います。

しかしこの子どもは、私たちの未来そのものですから過去と今と未来をつないでくれる大切な伝承者ということにもなるわけです。何を伝承してもらいたいのか、何を伝承してくれるのかを私たち大人はきちんと向き合って子どもたちのために何ができるのかを大人たちが子どもたちに素直に語りかけていかなければなりません。

そして私たち大人も大切な伝承の役割を担っています。両親をはじめ祖父母、そして先祖の方々の想いや願い、いのり、その生き方を受け継ぎそれを子どもたちにつないでいく役割です。つないでいく役割は、決して肉体的な子孫を残すというだけではなく精神的なもの、文化的なもの、環境的なもの、あらゆるものをつないで子孫に譲り渡していく役割を担っています。

そういう意味で、子どもとはどういう存在なのかの定義が大切になるのです。

私たちの会社は「子ども第一義」というものを理念にしています。これは第一主義ではなく、第一義、つまり絶対的なものとしています。この第一義は、上杉謙信がかつて掲げていた理念です。つまり物事の根本、根源という意味です。

子ども第一義とは、子どもが根本であり根源であるという意味です。私たちが子どもをどの位置で観ているのか、そして定義しているのか。その視座や全体観がまずあって、未来への語り部になれるように日々に社業に精進しています。

子どもが憧れるような未来、子どもが憧れる生き方と働き方を目指していい会社、いい仕事をしていきたいと思います。

美しいものづくりの心

昨年、友人から「印伝」の名刺入れをプレゼントしてもらいました。現在は、とても重宝していて使うたびに日本の美しいものづくりにうっとりします。

この印伝は、ウィキペディアには「印伝または印傳という名称は、貿易を行った際に用いられたポルトガル語 (india) またはオランダ語 (indiën) の発音にインド産の鞣革を用いたことから印伝という文字を当てたとされる。この名称は寛永年間にインド産装飾革が江戸幕府に献上された際に名づけられたとされる[1]。 専ら鹿革の加工製品を指すことが多い。印伝は昔において馬具、胴巻、武具や甲冑の部材・巾着・銭入れ・胡禄・革羽織・煙草入れ等を作成するのに用いられ、今日において札入れ・下駄の鼻緒・印鑑入れ・巾着・がま口・ハンドバッグ・ベルト・ブックカバーなどが作られている。山梨県の工芸品として甲州印伝が国により、その他の伝統的工芸品に指定されている。」とあります。

この鹿革を加工する技術は実際には西暦400年代に高麗から入ってきたことは『日本書紀』に書かれているといいます。その当時は紫草の根からとった染料や、あかねの根の汁で染めたりした鹿革に絵を描いたり、木版等で着彩をしたり松ヤニなどをいぶしてその煙により着色したともいわれます。それが西暦900年代入り、武士がが鹿革を甲胄に使用するようになります。 応仁の乱(1467年)以後、乱世で革工は発展し鹿革も重宝されました。有名な甲州印伝は武田信玄が関係しています。信玄は甲冑がすっぽり入る鹿革の袋をつくらせそれを「信玄袋」と言われています。

その後は甲州の革工が革に漆を付け始め、松皮いんでん、地割いんでんとも言われ同時に京都の革工が更紗風の印伝革を造って繁盛しました。明治以降は海外より輸入された多様な革製品が日本で使われるようになり印伝も時代に合わせ様々な形に姿を変えて今があります。

非常に歴史のある存在の「印伝」は、日本人には深いつながりがあります。

漆と美しい文様を伝統の革職人たちが丁寧につくりこむ。丈夫で長持ちしながら衛生的で美しく、文様によっていのりや力を入れ守護する存在となる。この日本人の精神が丸ごと和合しているものがこの印伝の魅力ではないかと私は思います。

私が贈っていただいた名刺入れは、藍染と漆が調和して深い藍色が出ています。大切なものを仕舞い、またお渡しするものだからこそそれを包むものも日本の心でおもてなす。まさに印伝はこれからも活躍する日本を代表するものづくりの一つになるように思います。

日々の暮らしの中に日本の伝統とともにあり、子どもたちに伝承していきたいと思います。

暮らしの甦生~想いを大切にする文化~

むかしのものづくりは、ずっと末永く大事にする心をもって取り組んできました。その証拠に、むかしのあらゆるものは再生可能でありお手入れができるものでできています。これは現代でいう担なる物体としてのモノではなく、まさに想いの入った「ものがたり」の「もの」だったように私は思います。

その「ものがたり」を扱うから、職人さんたちはその想いを手から汲み取りそのお想いに相応しい甦生をみんなで力をあわせて手掛けてきました。私が取り組む「暮らしの甦生」は、このいのちや想いのこもったものがたりを甦らせ続けていく語り部たちとしていつまでもこの世で一緒に生きていけるように再生していくような取り組みのことなのです。

私の身の回りには、いつも甦生し再生されたものばかりに囲まれています。言い換えれば、想いが入ったものがたりの中を暮らしているともいえます。例えば、亡くなった友人の幼いころの産着のお着物をお母さんがコースターに甦生させたもの、他には、長年使われていた樽がお風呂の桶になったり、古い納戸をガラステーブルになっていたり、それまで大事なお役目と使ってきた人たちの想いがさらに新しい時代に活かされるようにと変化を遂げています。

この末永く使えるようにしようとするのは、そこに大切な想いやものがたりがあるからです。それを受け継いでいくことが想いを活かすことであり、ものがたりをその先にまでつないでいくことになります。私はこの想いのあるものがたりたちの御蔭でとても豊かな暮らしを深く味わうことができています。私たちはモノが増えて心が貧しくなっている原因は、まさにこの暮らしの真の豊かさを忘れてしまったところにあると確信しているのです。それが私が「暮らしフルネス」を提唱し実践している理由でもあるのです。

現代は、本来は想いがあるものであったものが想いがないものになりなんでも古くなればすぐに新しいものに買い替えます。想いやがあるものや古いものを修繕してお手入れしようとすると膨大な費用がかかります。それにものづくりをする際に、それだけ長く使おうとは思ってもいない素材で安易にものづくりをしてしまっています。なので、以前のようにものづくりに携わる職人たちが想いを再生させることも難しくなっているのです。経済を発展させることを優先しすぎて、大量生産大量消費を繰り返すなかで想いが粗末にされていきました。想いはいのちそのものですから、いのちもまた粗末になっていきました。その結果、クローン技術や遺伝子組み換え、3Dプリンターなども生まれてきました。別に想いがなくても「もの」はすぐにつくれてしまうのです。

それにいくら末永く大切に使おうとしても、すぐに交換でき買い替えることが前提でつくっていますからそれを長く使おうにもすでに再生ができない素材や状態のものになっていて結局はメンテナンスができず壊れるから全部新しくするしかなくなるのです。もしもその素材を末永くずっと使おうするのなら、もっと不便でお手入れがいるもの、自然物にしないといけませんが購入する側もそれが手間暇と技術と費用が掛かり大変だからと次第に選ばなくなっていき今の状態になっています。

しかし現実はものを使っているとそのものとの関係性からものがたりと想いがそこに詰まっていきますから簡単には捨てることはできません。その想いをつなぎながら新しくするのは甦生ですが、現在は想いもなくただ捨てるだけになってモノ化しているのです。そういう意味では、現代は甦生できる人が以上に少ない世の中になったものです。古民家なども、親がなくなってしまえば空き家になって朽ちるまでそのままにして解体するまで甦生する機会すら得られません。

私が深く印象に残っている甦生の機会は、もう100年以上前の先祖代々の産湯の桶をずっと孫が生まれるたびに使っている桶を職人さんが修繕しているときです。その甦生の機会を得た桶も、また持ち主も、そして職人もみんなが甦生したのです。そこには確かな「想い」をみんなで大切に守ろうという深い意志を感じました。

すべてのものづくりには、そこに「想い」があります。

日本は本当は想いを大切にする国だったからこそ、日本は世界一のものづくりの国なったように私は思います。それはすべてのものにはいのちが宿る、つまり想いが宿っているのです。八百万の神々というのはそういうことなのでしょう。そのものをいのちとして、想いを甦生させ続けて永遠を共に生きる民族だからこそ世界一のものづくりを実現したのではないかと私は思います。暮らしフルネスの中で、この「お手入れ」や「修繕」はまさに家に例えれば暮らしの大黒柱なのです、

引き続き、子どもたちのためにも日本文化のゆりかごになるであろうこの「お手入れ」を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスのごあいさつ

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」により丁寧な「お」が入ったものです。この手入れの意味はは「手入れよい状態で保存するための、つくろいや世話のこと」をいいます。さらにここに「お」がつくと「いのち」を伸ばすために、いのちを大切に扱うために思いやりやおもてなしになっていくと私は思います。

この「お手入れ」というのは、存在そのものを大切にするときにも使います。私はこのお手入れこそが今の時代にはもっとも必要な価値観であろうと思うのです。

大量消費の時代、お手入れをするというのはもう死語かもしれません。お手入れをするよりも新しいものを買うという具合にすぐに新しいものを購入します。モノがあふれているからこそ、古くなればすぐに捨てるのです。この捨てるように使うというのが文明のことで、文化は捨てずに修繕するのです。

つまり修繕というものを学ぶことこそが、文化を甦生させることでありますから幼いころから「お手入れ」を学ばせることが大切なのです。これが永遠に文化を大切にすることを忘れさせない人の生きる道につながるのです。

このお手入れは、本来は単なるモノにだけ行うものではありません。自分自身に対するお手入れもあります。それは体のお手入れ、心のお手入れ、精神おお手入れ、そして魂のお手入れなども必要です。

このお手入れは、磨くことと直すこと、そしていのちを大切にするということです。これを今はどれを使って教えるか、それは私は「暮らし」を使って教えることだと思っています。

先人たちはその真理を悟り、持続可能ではなく「永遠」であるものを伝承してきました。私たちはまだ目新しい持続可能という延命治療を知る前に、もともと永遠を生きるという根源治療をやっていたのです。

私はSDGsという言葉を会社の取り組みから外したのは、暮らしこそが本物の文化伝承の仕組みだと気づいたからです。

これが私が暮らしフルネスを提唱した根本的な理由です。

これから一緒に私と「お手入れ」に生きる同志を集めます。

ぜひ一緒に、暮らしフルネスの世界に変えていきましょう。

聴くことを磨く

人はそれぞれに視点というものを持っています。この視点はその人の生き方が大きく影響をしているように思います。人それぞれに視点が異なりますから、視点を合わせていくと360度全体から事実を観察することもできます。

よく意見を対立させていく人もいますが、本来はどちらかではなく、どちらもいいねと相手の声に一理あると理解できる寛容さがある人がアイデアを形にしていけるように思います。

そして視点を磨いていくには、よく話を聴いていく力を身に着ける必要があるように思います。視点は目を使う機能ですが、実際にはよく傾聴できる人の方が視点を持っているのです。

話を聴くというのは、そういう考えもあると共感し受け容れる力が必要です。そしてその意見をどうとらえるか、そこに感謝する力も必要です。いただいた言葉をそれは正しいとか間違っているとか裁かずに、ありがたい意見ではないかと聴き入れていれて参考にできること。それを繰り返す人は、自然に意見が集まってきて新たな視点を持つことができるように思います。

一方的に間違っていると否定されたり、考えを押し付けられたりすることはみんな嫌うものです。それは自分の考えが尊重されていないと感じるからですし、考えに服従しなければならないなどと不満に思うからです。

しかし実際に話をよく聴いている人は、それを採用しなくても聴いてもらったという実感があればその問題は解決します。つまり人は、尊重されることに納得しているのです。

この尊重しあう関係とは、お互いが謙虚である必要があります。それは誰かだけが偉いのではなく、お互いに善いところがあると認め合い、それぞれの魅力や力があることを信じるという生き方が必要です。

苦労をしてきた人や多くの人に助けてもらってきた人ほど、生き方が謙虚です。それはその存在にいつも感謝でき、自分一人ではなく多くの方々の見守りの御蔭で今があることを信じているからです。

いつも人の手助けが入る人は、多くの手助けをいただいてきたと実感してそれに感謝して報いようと生きる人です。私自身も振り返れば本当に多くの人たちの支援や協力、手助けを得てここまでこの世を渡ってこれました。

奢らず謙虚に素直に聴くことを磨いていきたいと思います。

日本人としての観光

現在、コロナウイルスで海外からの観光客が減っていますが日本は観光立国を目指して取り組みは進んでいます。この観光立国とは、「国内の特色ある自然環境、都市光景、美術館・博物館等を整備して国内外の観光客を誘い込み、人々の落とす金を国の経済を支える基盤の一つにすること」を言います。

日本が観光立国を目指す理由は、景気の低迷や少子高齢化、国内消費の拡大が難しくなっているといいます。そこでインバウンド客を呼び込んで消費を促そうという具合です。それにより多くの雇用が生まれ納税者が増えれば国の財政が潤うからだといいます。

具体的には、「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」が定期的に開催され、2016年には会議の中で「明日の日本を支える観光ビジョン」が策定され2020年までに4,000万人(経済効果8兆円)、2030年に6,000万人(経済効果15兆円)の訪日観光客の誘致が目標として定めています。

2019年の世界観光ランキングは、1 フランス 2 スペイン3 米国 4 中国 5 イタリア 6 トルコ 7 メキシコ 8 タイ 9 ドイツ 10 イギリス 11 オーストリア 12 日本と、日本は12位につけています。2020年はコロナウイルスでどうなっているのかわかりませんが、世界で12番目に日本は世界から観光客が来ていることになっています。

古代から続いている文化を今でも美しいままに磨き残すフランスが1位なのは納得ですが、それぞれ自分たちの文化を掘り起こしては観光を実践しているということでしょう。消費動向は経済の話ですが、人々が歴史や文化、その風土から学び、自分たちの国のことを考えるのに人が旅をすることはとても大切なことだと思います。

日本では、アグリツーリズムというものを参考にして農泊というものがあります。これはヨーロッパが発祥地でイタリアではアグリツーリズモ、イギリスではルーラルツーリズムともいいます。ロマン主義の影響を受けた民俗学の影響で、農村や地方で残っているとされた民俗資料を大切にし、近代化によって失われつつあった自然調和の暮らしを見直そうという活動です。このアグリツーリズムとは、都市居住者などが農場や農村で休暇・余暇を過ごしてそれを体験します。日本の地域行政はこのアグリツーリズムによって都市と農村が交流するように様々な取り組みが行われています。

以前、私もイギリスに留学していたとき、イタリアやフランスの友人宅や農家民泊を体験したことがあります。フランスの田舎でのゆったりした時間と、そこで手間暇かけてつくってもらった料理をゆっくりと楽しみました。特にヨーロッパは長期のバカンスを取りますから、ゆったりと長く滞在できるところが人気があります。日本では、なかなか長期休暇はありませんからみんな短期の滞在でたくさん体験できるところが人気があります。どちらにしても、地方は、旅行者を迎えることで活性化し、過疎化の防止につなげています。

それに最近の外国人旅行者のニーズは買物の“モノ消費”から体験の“コト消費”へとシフトしており、日本の農泊も人気が出てきているといいます。日本人でも体験したことがないようなことを外国人が体験している時代でもあります。

私は本来、日本人の暮らしの中にこそ本物の文化があると思っています。現代では、その日本人の暮らしが消失してきてまるで西洋人のような生活が日本人の暮らしにとってかわっています。西洋建築で西洋的な食材、西洋的な思想や価値観、その中に西洋人が来ても特に面白いものはないように思います。

日本人を教育するというのがあって私は日本が真の意味で観光立国化するのではないかと思います。私たちの取り組む、暮らしフルネスはその可能性を秘めています。今、来ているご縁を直観しながら子どもたちに日本人を伝承していく機会にしていきたいと思います。

心の居場所

聖地巡礼という言葉があります。もともとはイスラム教徒の信者が使っている言葉だったそうです。これはイスラム教のマッカにあるアル・ハラーム礼拝堂を聖地にし、その神殿を巡ることを巡礼と言いました。一生に一度は、聖地巡礼を行うことは信者にとってはとても大切なことでした。現在はこの言葉は、日本ではアニメや漫画の熱心なファンがそのアニメの舞台になったところを訪れることを聖地巡礼を呼ぶようになっています。

このこの聖地巡礼は、時代を超えて大昔から人々の心の文化の一つだったように思います。お伊勢参り、四国八十八か所巡りなども同じように聖地巡礼が美徳とされ今に受け継がれているように思います。

その聖地にいけば、何か自分の中にある信仰に触れるということでしょう。教えを肌で感じ取ったり、そのものが悟った場所に自分を運べば文字では得られない感覚をあらゆる場の力を感じて直観することもあったように思います。

以前、私も33か所観音霊場巡りをしたときにその聖地巡りにおいてその価値を実感したことがあります。最後まで巡り終えたとき、その最後の寺院に詩が読まれていてその詩には「この33か所巡りをしているうちにあなたはどの観音様と巡り会いましたか?」と尋ねるようなものが書かれていました。その時、思い返してみると道すがらに声を掛けてくださった人、挨拶してくださった人、猛暑厳しい中で冷たい飲み物を差し出してくださった人、みんな観音様ではなかったかと実感したのです。

つまり、私たちは心のありよう一つで観音様に出会ったり出会わなかったりしているということを聖地巡礼で学び直したことを思い出します。この聖地巡礼の仕組みは、自分自身と向き合い、自分自身とつながるという体験を持たせているように思います。

その場において、何をすることで自分自身とつながるのか。

ここにこれからの時代の心を癒し、自分を取り戻すためのキーワードがあるように思います。これから場の道場をはじめ、私は暮らしフルネス™を提供していきますがこの聖地巡礼の仕組みは時代を超えて参考になります。

子どもたちに、心の居場所を譲り遺していきたいと思います。

 

天人道

天道と人道というものがあります。天の道は、自然のままであり人為のないもののことをいいます。それに対し、人の道はその自然の中に人為が入ることをいいます。つまり、天道と人道とは分かれているようですが実際には天人道ということになります。

人もまた自然の一部ですから、人がどうあれば自然にかなうのか。それを語る言葉です。例えば、自然界ではそれぞれの生き物がそれぞれの役割を果たします。それは小さなバクテリア一つ、分解者となりて自然界の調和の役目を果たします。本来、私たち人間もまた自然界の一部ですからなんらかの調和の役目をもらっています。

そうやって生き物たちは、共生し貢献しあいながら自然の中でそのいのちを謳歌させていただける存在であるのです。そして天人道とはまさに、その天の道に沿いながらも人の道を盡していくことによるのです。

つまり天に対して人としてどう生きるかということを原点を確認するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

『夫れ元一円の原    国民衣食に乏し
天に従って地理を量り  天に逆って田畑を開く
天に従うを自然となす  之を名づけて天道といふ
人を以て作事を為す   之を名づけて人道といふ
人道は田畑を開き    天道は田畑を廃す
人道は五穀を植ゑ    天道は生育を為す
天道人道に和して    百穀実法(みのり)を結ぶ
原一変して田となる   田一変して稲となる
稲一変して米となる   米一変して人となる』

これはお米づくりで例えていますがとても分かりやすく真理を語ります。本来、田んぼをそのままにしていたらそのうち荒れ地になっていくのは自然が荒れ地にしようとするからです。しかしそこに人が手を入れれば田んぼは人の暮らしの一部となります。そして人が種を植えるのなら、自然はそれを生育させます。これが和合してたくさんの食料を産み出します。

つまり何もなかったところに人が入り田んぼになり、それが変化して稲となり、またそれがお米(食料)になり、それが人という存在をつくっている。

天人道はこの天と人の和合にこそなるということを、二宮尊徳は説いたように思います。

これからどのような生き方を選んでいくか、それは一人一人が今と見つめなければなりません。私はこの天人道こそ、徳そのものであり、こうあることが自然と人間の喜びになるように確信しています。

子どもたちに、天人道を示していきたいと思います。

手前味噌

昨日は、暮らしフルネス™の実践講習会の直会で味噌鍋を一緒に食べました。味噌は友人の味噌とうちの手前味噌を合わせて竈で炭で煮込んだものです。かなりの量を用意したのですがみんな何度もおかわりをしてくださった御蔭で全部きれいになくなりました。

この味噌は、7年間継ぎ足しながら拵えた手前味噌です。この手前味噌という言葉は、その家で醸し出した味噌の味という意味です。つまりは、その家の味ともいえます。

手前味噌ですがというのは、その家の味をお披露目しているということでもあります。

先日、味噌で聞いたお話で印象的なものがありました。それは同じ材料で同じ時期にみんなで作っても一年後に持参して試食するとみんな味が違っているというのです。それだけ、場所や気候をはじめその環境や作る人の個性が味に影響が出るということでしょう。それに味噌は、人の声が聞こえるところに置いた方が発酵するといわれていたり、囲炉裏の周りもいい、またその灰も餌になるといわれます。またその菌の家は、木樽がいいとも言います。うちは、どの漬物の樽も木樽ですからその木樽に菌が住んでくれていますからもう長いこと一緒に生活しながらお互いに餌を与えあって共生関係を結んでいます。

こうやって人間の暮らしの傍で、菌たちも一緒に暮らしています。古い家には、それだけ古い菌がいるともいわれます。それだけ長い時間、一緒に暮らしを営んだきた菌は、自分たちの先祖とも一緒に暮らしてきたということでもあります。先祖が結ばれ、子孫も結ばれ、今でも一緒に暮らしを共にしているということの安心感は特別なものです。

うちの手前味噌の感想は、みんなコクあるという評価でした。年季が入っているからかもしれませんが、この「コク」があるという言葉は、「複雑な味わいがある」という意味で定義されています。何かが積み重なった味わいがあるということでしょう。

人間は味覚を通して、その積み重なったものを感じることができるということです。複雑な味わいは、その積み重なったものの深い味わいであり、年季が入った数々の実践が味わいの中に醸し出しているのかもしれません。

人間も、様々な艱難辛苦を通して味わい深い人になっていくといいます。人格を磨き、人生の味わいが深まれば深まるほどにその人にしかない複雑な人間力が醸し出されます。味噌を通して、そうありたいと願うばかりです。

手前味噌の話はここまでですが、みんなでその家の味を守れるように、先祖たちの祈りや願いが伝承できるように日本の子どもたちにコクのある伝統を守っていきたいと思います。

真の豊かさを味わう場

本日は、場の道場で暮らしフルネス™の「室礼」の講習会を実施します。これは8年前から弊社の役員の一人が中心になって取り組みはじめ、今では暮らしの中で定着している実践の一つです。最初は東京の新宿の高層ビルと自宅のマンションではじめましたが、現在は古民家の御蔭で前よりも自然に豊かに室礼を取り入れています。

はじめに弊社で取り組んだときは、西洋的な建物でビジネスをするためのオフィスに自然なものを取り入れたいということで植物をはじめ日本の伝統のものを増やしていきました。例えば、炭であったり、和紙であったり、花器であったり藍染の敷物やイグサのゴザなど、和のものを中心に増やしていきました。そしてできるだけ、自然光や季節を感じるようにとお昼は団欒できるようにちゃぶ台を用意し、伝統の保存食、発酵食品などを持ち合い、時にはみんなでつくり、音楽も和楽器のもの流したりしていました。

そうやって忙しい時にも豊かさを失わないようにと、みんなで心がけ、保育の仕事をしているからこそ私たちは子どもたちが憧れるような大人のモデルになろうとみんなで都会の環境の中でも自分たちの在りたい姿に向かって挑戦をしてきました。

私たちは今では「暮らしフルネス」™を提唱していますが、その暮らしの柱の一つを深く支えてくれたこの「室礼」だったようにも今では思います。

この室礼は、四季折々の年中行事を通して先人たちの積み重ねてきた精神性を深く学ぶ大切な伝承の機会でもあります。私たちはどのようにこの風土で暮らしてきたのか、それを自然に心の豊かさを通して自然から学びます。それは代々、先人から子孫へ、大人から子どもへと譲渡されていきます。

つまり暮らしの中で行う、大切な保育そのものでありこれが私たちの民族を育ててきた一つの心の教育であったことは自明の理です。現代では、精神疾患をはじめ痛ましい事件が増えて殺伐とした場が増えてきています。日々の報道でも、人間のよくないところばかりをフォーカスし、本来の人間に備わっている徳や心の豊かさがあまり表に出てきていません。それだけみんな忙しくなってしまっているのだと思います。

しかし私のところには、癒しやつながり、そして仕合せの原点を求めて多くの人たちが集まってくるようになってきました。これは本来の豊かに生きるということを願い、子どもたちにも大切な日本の心を残したいという志のある仲間が増えているからだとも思います。

人生は一度きりです、どう生きるのかはその生き方が決めています。何か大切なことを思い出す節目、つまり年中行事があることで私たちはその初心を思い出して生き方を磨いて光らせていきました。

いぶし銀のように磨かれるのは、この節目をどう過ごしてきたかということでしょう。コロナ後にどう生きたらいいか、どう進めばいいかを悩んでいる人がたくさんいるとお聞きします。一度、ここに来てもらいその豊かさの本質を実感して子どもたちに日本の真心を弘めていけるようにみんなで一緒に「真の豊かさの実践を味わう場」を増やしていきたいと思います。