憧れ

暮らしを追及していると、生き方に出会います。生き方は暮らし方になっているからです。そして生き方を見つめていると死に方と向き合います。死に方は暮らし方の延長にあるからです。そして生き様というものが顕れ、死に様というものでその縁起を覚えます。

私が尊敬する人たちは、みんな生き様が見事な方でした。ここ10年で私が憧れた人たちが次々とお亡くなりになりました。ごく自然に、距離を持ち、そして静かに穏やかに逝かれました。

生きているときに常にこれが最期のような感覚をいただき、お別れするときは今世はもうお会いできないのではないかという寂しさがありました。そうしてまたお会いしたいと思ったときにまたタイミングがきてお会いすると、出会えた喜びに生まれ変わったような気がいつもしました。しかしもうお会いできないという状況になると、まるで深山の巨樹のようにまだそこに存在して見守ってくれているのではないかという気配があるものです。

ある方は、光のように、ある方は風のように、ある方は土のように逝かれました。生き方はそのまま死に方になり、生き様はそのままに死に様になりました。

これらはすべてその人の初心が顕現しているとも言えます。どのような初心を以って道を歩んでいくのか、その初心の余韻が場に薫ります。

私たちはその人になることはありません。しかしその人の歩んできた道を共にした経験によって歩き方も変わっていきます。振り返ってみたら、自分もまた歩き方がだいぶ変わってきました。歳をとり、若い時のように歩いていくことはできません。歳相応に歩いていきますが、気が付くと無理ばかりをしているようにも思います。

初心を忘れてはいけないと、歩き方を歩き様を振り返っては反省の日々です。

憧れた大人になるように、そして子どもたちの憧れるような大人になれるようにどう生きるか、どう死ぬか、そしてどう逝くかを見つめています。

盂蘭盆会の準備に入り、夏の風が吹いてくると日が強くなり死が身近に感じられます。日々の小さなことに感謝して前を向いて歩んでいきたいと思います。

伝承革新

昨日は、福岡県にある秋月鎧揃え保存会のメンバーが英彦山の守静坊で合宿を行いました。合宿というのは今は多くの人が同じ宿舎で一定期間ともに生活して共同の練習や研修を行うことをいいますが本来は暮らしを通してお互いを見つめ合う一つの作法だったのかもしれません。

郷に入っては郷に従えということわざもあります。もともと何かを取り組むのには目的や初心というものがあります。それを確認するためには、その中に一本流れている筋道やルール、そして理念のようなものをどう理解するかが大切になります。

浅いところしかわかっていないのでは自由に動けば周囲への迷惑にもなります。深いところでお互いがよく理解しあい、規律と方向性を知ることはお互いを活かしあうためには大切です。

宿坊では、朝のお掃除の作務から歴史の勉強会、瞑想や座禅に加え、お昼には精進料理を食べ、振り返りを車座で行いお山の参道をのぼり休憩をして理念を唱和してお礼とお掃除と記念撮影をして終えるという具合でした。

当たり前のことをやっているようですが、私が司る場の中に入り、暮らしを体感するなかでそこに流れている生き方というものが加わり心身が調います。このような体験や気づきは、唯一無二でありその人の一生の思い出にもなります。

人は思い出があることで意識が変わることもあります。どのような思い出をお互いが持っているかは、一生において何よりもかけがえのないものです。

時代が変わりますが、歴史は終わることはなく今に生き続けているものです。その歴史を生きる人たちにとって思い出をさらに甦生させて歴史を刷新していくことは伝承する喜びに満ちています。

本来、歴史を生きるというのは単なる金銭を優先する観光イベントや文化交流ではありません。それは生き方をどう実践するかという、どう生きるかというという話です。

それぞれに人はどう生きるかというものに向き合っています。そこに尊敬する先人たちや今も心に共に生きる先達がいるというのはとてもありがたいことです。

守静坊は、歴史の今を生きる存在であり静的な修行をし続けている場です。これからも、本質を守り、静けさを保ち、本来の宿坊のままに生き続けて伝承革新していきたいと思います。

暮らしの実践

観えないものを観る力というものは、実践によって磨かれていくものです。日々の掃除をはじめ、日々の内省、初心に向かってコツコツと新鮮な気持ちで取り組み続けることで観えないものが観えるようになる境地の会得というものがあるように思うのです。

これは武道をはじめ、伝統継承の方などもその境地の会得によって一般的に観えないものを観えるようになっています。その証拠に、それを言葉にして実際に見せることができるところまで結果を出しているからです。

続けることというのは、変化を観続ける力です。継続は力なりとありますが、本来は力の本質は継続にこそあるということでもあります。最初は自分が観えるようになるまで実践をし、観えるようになったら気になりますからそれをお手入れし保ちまた時代の変化にあわせて革新し続けるように精進するようになります。

バランスという中庸もですが、中庸がわかるというのは中庸でいるということですがこの中庸は中庸を実践し続けている状態、観えないものが観え続けている状態、たとえば自然の循環やいのちが観え続けている状態のように意識がバランスを保つこと調えてある場に定着して離れないほどに取り組む状態であるということでもあります。そしてこれが暮らしの実践でもあります。私の暮らしというのは、本来その意識を保つためにあるともいえます。

現代は、資本主義などにょり仕事や経済活動が中心になって暮らしはその隙間に少しだけある程度で語られます。経済の中にある暮らしは、道具を販売したり、衣食住がよくなるため、またそれを実践するワークショップや講演会をやったりと経済と紐づいているものとして語られます。しかし本来の暮らしは、そもそも生き方のことであり生き方が暮らしにまで昇華されているということでもあります。

日本人の先人たちは、自分たちの生き方を暮らし方にまで到達させてきました。それを徹底して実践することで、自己の修養や精神、魂を磨き上げてきました。日々が精進と修行のような暮らしをしていますが、その中で感謝に満ちた足るを知る生き方を実践してきたのです。いのちを活かし、ものを活かす、徳に報いて喜ぶ仕合せの境地を会得しておられました。

私の提唱している「暮らしフルネス」はそれを今も先人たちと同じように体験することによって、日常のなかで幸福や仕合せを味わえる生き方を体得できるようになるという仕組みになっています。しかし、これも境地の会得までは実際には実践しないとあくまで一過性の体験で暮らしが変わることにはなりません。

暮らしを変えていくということは、実践をしていくということです。

子どもたちに先人たちの遺してくださった生き方や暮らしの真の豊かさを伝承していけるように引き続き暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。

今と暮らしフルネス

現代は、過剰な経済競争と都市化によって様々な心身の病気が増えています。また将来のためにとこうすれば幸福になれるという方法論や動機を増すことを教育やメディアによって日々に発信されています。先日、友人の送料がDOINGとBEINGの違いを説明していましたが、まさにどうすれば幸福になれるかといったDOINGばかりを躍起になっている世の中ともいえます。

そんな中、マインドフルネスをはじめ未病のために色々と工夫する方法なども増えてきています。おかしな話ですが、大金をはたいてマインドフルネスの体験をしてまわっているビジネスマンもいます。経済効率をあげ、さらに能力を発揮するためにマインドフルネスを活用するという具合です。それもまた先ほどのDOINGと同じではないかと思うのですが、今の世の中ではなんでも経済、なんでもお金にしないと評価されず、そして認められません。

そういう時代背景こそが病んでいるのではないかと思うのですが、現代は病気も個人の問題として社会や時代のことは他人事のようになっていますから結局はあまり改善することはありません。

私は暮らしフルネスという仕組みを考えて、日々に実践していますがそれは今に集中することができるからです。そもそもこの今に集中するというのは、日々の暮らしを調えていくということです。頭で考えていても、実際には日本古来からの暮らしを丁寧に取り組んでいたらあまり頭で考えるだけで時間を使うことはできません。

朝起床してから夜就寝するまで、実践することが多すぎて考えるだけの時間がありません。なので五感を用いて体を使って暮らしを実践していると気が付くと今に集中しているということになっています。

今から離れることで、人は不安になり体調が崩れます。生きているのが今ですから、今しかないのです。今ではないことを考えるのは、今から切り離されるからです。今に居続けるというのは、今を味わうということです。

頭でわからないことは実践することで身についていきます。引き続き、子どもたちのためにも今と暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

土と共に歩む 士魂を磨く

いのちというのは、どこから来るのか。それは私は土から感じます。土から新しいいのちは芽生え、そして土に還ります。土は私たちのいのちを支えている存在です。この土とは何かということです。

私たちの住む地球は、天地によって存在します。天は、空であり宇宙です。そして地は土のことです。土がある御蔭で私たちは食べ物を循環させることができ、水を貯蔵することもできています。

植物などは、土からいのちをもらい一生を廻り子孫をつくり循環しています。その植物を食べて私たちも循環しますが、よく観察するとそれは土が巡っているということです。つまりは、土こそ私たちの正体でありその土が豊かであればあるほどに私たちは安心して暮らしていくことができます。

土は、生死のめぐりが豊かであるところほど豊かです。様々な生き物たちが住んでいる、そして共生して生死を無限に繰り返すなかでますます土は発酵していきます。もともとこの発酵というものは、いのちが活かされ、いのちが好循環をするなかで行われていくものです。

自然界では、すべてのいのちが輝き活き活きすることで喜びあえます。土はその喜びを貯蔵したものであり、土があるから新たな喜びが生まれ続けます。農というのは、本来は自然の摂理に生きることです。

農薬を撒いたり、工業化したり、化学肥料を使ったりすることが本当の農ではありません。農的暮らしをするというのは、土と寄り添い、土に生き、土と共に歩んでいくといういのちの道に生きるということです。

私は有難いことに、農的な暮らしを実現されておられた人物との邂逅によってそれを深く学ぶことができました。その方の足跡を私は追いかけ、そしてその足跡の先を往きます。

土とともに、ますます士魂を発酵させてこれからさらに一歩進めます。

ありがとうございます。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

薬草の知恵

この時期の英彦山にはジキタリスという花を見かけます。一本の茎から下向きにたくさんの花弁をつけます。傍から見ても気になる姿と形でインパクトがあります。山に咲いていると、気になって近づいてまじまじと見てしまいます。

この花は、ヨーロッパ西部・南部原産で和名はキツネノテブクロといいます。この花は、心不全の治療薬として世界で初めて臨床応用された薬剤になったものとして有名なものです。1785年頃に老婆が用いた民間薬をヒントに臨床薬として検証され、その後ずっとこのジギタリスは急性、慢性心不全患者の治療薬として数百年にわたり使用されてきたそうです。さらに調べてみると、古代から切り傷や打ち身に対して薬として使われていたともあります。

英彦山には、数々の薬草が存在しています。気が付かないだけで、よく観察するとむかしから効果のあったものが発見できます。それを知恵として伝承し、あらゆる薬をつくっていたのかもしれません。

今のように化学の力でなんでも薬を調合する時代ではなかったころ、私たちは植物をはじめ自然の中から薬を見出してきました。毒が薬になることを知っていた先人たちは、その用途において使い分けをしていたのがわかります。

例えば、有名な有毒植物にトリカブトがあります。この植物の名前の由来は、その美しい花の形が祭礼に用いる鳥兜という冠に似ていることや、鶏のトサカに似ているからともいわれています。これはキンポウゲ科の多年草で、その根を乾燥させた附子には強い毒性があります。かつてはアイヌの狩猟用の矢毒として使われていたそうです。しかしそのその一方でこの附子は生薬として漢方薬に用いられています。夜間の頻尿対策として高齢者に処方されることが多い八味地黄丸にも含まれているといいます。腎臓機能を回復させるのに使われる薬です。

このように毒は薬にもなり、またその逆もありますが用途と分量次第ではとても役立つものにもなります。

先人たちは、毒をただ悪いものだと思うのではなくなぜ毒があるのか。その毒は薬にならないかと、すべての自然の効果を活用して学び転用してきました。そこには自然への畏敬や、植物への尊敬があったように思います。

薬草の持つ効果や知恵を学ぶことが増えていますが、子どもたちに自然との関りや植物からの恩恵などを伝承しながら未来へ先人の知恵をつないでいきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

楽観的な意識というのは、足るを知る心と通じているものです。私たちはすでにあるものに感謝しているとき、充たされています。一つの型としての暮らしフルネスはその意識の実践ともいえます。

どのような状況であっても、すでにある方に常に感謝を忘れていない。いただいているすべてに感謝できているというのは、常に今を楽しく味わっているということになります。これが楽観的であるということです。

おかしく聞こえるかもしれませんが、不安や迷いや心配、悲しみも苦しみもそして怒りも、本来は味わえるものです。どのような気持ちを今、自分が感じているのかということを味わえるというのはそこに感謝があります。

感謝というのは、何かしてもらったり、得られたりするときにするもののようになっていますが実際にはすでにあるもの、具わっているもの、その徳に対して行うものです。

例えば、味わえるというのは体がなければ体験できません。そして感じられる環境、宇宙や自然がなければその場もありません。さらに物語というのは関係性やご縁が結ばれていなければつながりません。これらは自分で創ったのではなく、最初からあるものをいただいているのです。

こういう初めから存在する徳に感謝している状態こそが、私たちが仕合せを感じている根源ということになります。そしてその徳に報いるというのは何か、それは感謝して前に一歩進めて道を歩んでいくということです。

前向きというのは、楽観と意味が同じようにいわれますがこれもまた感謝の別の顕現したものです。

暮らしというのは、そういう意味ではその徳がすべて具わったものです。この意識や感覚を私と一緒に体験するというのが暮らしフルネスの体験の意味でもあります。それは頭や知識では教えられませんから、体験するしかありません。しかし人生の大切な節目や、本来の自分の魂や天命を見失っているときなどは非常に得難い邂逅になります。

日々の過ごし方のなかで、どのような学びをするのかはその人次第ですが誰と一緒にやるのかというのはまさに徳が結ばれているからでしょう。子どもたちの今と未来のため、子孫の仕合せのためにこれからも味わい深い暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。